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セリオン・クロニクル ~幻の君~  作者: 猫井ひとみ
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Prologue 救いの光

 少年は地に倒れ伏した。全身を衝撃と鈍い痛みに貫かれ、同時に先程まで背負っていたものが、彼のすぐ隣に転がり落ちるのを感じた。少年の姉だった。姉が意識を失ってから、かなりの時が経っている。早く何らかの手を打たなければ彼女の命が危ういということは、まだ幼い少年にもわかっていた。少年はまだ6歳だった。もしも自分が屈強な青年であれば、1つ年上の姉を抱えて山を下りるなどいとも容易かっただろう。しかし、現実の少年の身体は恨めしいほどに細く弱々しかった。

 足に重傷を負った姉を懸命に運び続けているうちに、辺りはすっかり闇に包まれ、視界もおぼつかないほどだった。少年は怪我こそ負っていなかったが、疲労と空腹は限界に達しており、どうしても再び立ち上がることができなかった。

 このまま死ぬのか?

 必死で振り払い続けてきた死の恐怖が、少年の脳から全身へとゆっくり、しかし確実に浸み渡っていく。父も母も、おそらくもう死んでしまっただろう。2人とも命懸けで自分と姉を逃がしてくれたというのに、この有様だ。己の弱さ、無力さを呪い、そして少年はこの世界を激しく呪った。自分をここまで追い詰め、そして死に追いやろうとしているこの理不尽な世界を、少年は心の底から激しく呪った。喉の奥底から、声にならないうめき声が漏れた。

 いつのまにか、自分が涙を流していることに気がついた。まだ幼く小さい少年はまるで赤ん坊のように身体を丸めて、声も出さずに泣きじゃくった。何もできず、何も考えられず、何も信じられなかった。


   ◇


 光が見えた。

 いつのまにか気を失っていた少年は、閉じた瞼の向こうに眩しい光を感じて目を覚ました。どのくらいの時が経ったのだろうか。そんなことを考える間もなく、少年は光に目を奪われた。それは一瞬、女神の姿のように見えた。昔、幼い頃に母に読み聞かせてもらった絵本に出てきたような、限りなく愛に溢れた女性がそこに立っていると思われた。

 自分はとうとう死んでしまったのか?

 少年がそう思うのも無理はないほど、その光景は現実とかけ離れていた。やがて光がこちらに近づいてくるにつれて、その正体が少年の目にはっきりと映った。

 それは、馬だった。もちろん普通の馬ではない。全身はまばゆく光り輝く白い毛並みに覆われ、たてがみの色は黄金だった。そして何より、その馬には純白の翼がその背に生えていた。

「ペガサス……。」

 掠れ切った声で少年は呟いた。美しい姿をもっと間近で見たくて身体を起こそうとするが、全く力が入らない。結局少しも動くことができず、痛みに顔をしかめるばかりだった。少年が思わず呻き声を上げていると、ふと柔らかい息吹を額に感じた。いつのまにかペガサスは少年のすぐ傍まで来て、うつ伏せに倒れた少年の顔をそっと覗き込んでいた。澄んだ青色の優しい眼差しと目が合い、少年の心臓は大きく跳ねた。

 おもむろにペガサスが翼を大きく広げたかと思うと、ゆっくりとはためかせ始めた。はためきに合わせて少年たちを中心に、辺り一面が風に揺れた。不思議なことに、その風は淡い緑色を帯びていた。まるで柔らかい毛布に包まれているような心地良い風の感触に、少年は思わず目を閉じた。そのまま眠りに落ちてしまいそうになったところで、はっと自分の身体の異変に気づき、がばっと勢いよく体を起こした。そう、あれだけ力を振り絞っても微塵も動かなかった身体が、今やすっかり回復していた。全身に広がっていた疲労も鈍痛も、嘘のように消えていた。

「…っ!?姉さん!!」

 すぐ横に倒れていた姉のほうを見やると、彼女の身体も驚くべき早さで回復していた。骨は折れ、血に塗れて見るも無残な状態だった姉の足は、本来のほっそりと美しい形を取り戻していた。どんどん弱まっていた呼吸も今は穏やかになっており、まるで安らかに眠っているようだった。

 助かったのだ。姉も、自分も。

 少年は姉の手をしっかりと握りしめ、しばしの間安堵の涙を流した。

 そうして改めてゆっくりと、視線を光のほうへと向けた。この奇跡としか言い様のない救済が、ペガサスのおかげであることは間違いなかった。しかし、この出来事をどう受け止めればよいのだろうか。何せ目の前にいるのは、かつて幻と呼ばれた生き物なのだ。その名の通り、自分が死に際に見ている幻だというほうが、まだ現実的なことのように思えた。

「でも、君は…。」

 少年は片方の手をペガサスに向かって差し出した。それはほとんど無意識の行動で、何をどうしたいという訳でもなかった。それなのに、ペガサスがそっと瞳を閉じて、彼の手に額を寄せてくれるのを見ると、少年は胸がいっぱいになった。

 夢でも幻でも構わない。

「…ありがとう。」

 人外の、言葉も通じぬであろう生き物に対して、少年は心から感謝の気持ちを伝えた。ペガサスはそれに対し、まるですべてを理解しているかのように、優しく微笑んでくれたような気がした。


   ◇


夢のような時間は、そう長くは続かなかった。

ペガサスがふと少年の手から額を離し、空を見上げた。まるで時が止まったように感じていた少年も、はっとつられて空を見上げた。重苦しいほどの闇に包まれていた空が、微かに白み始めていた。夜が明けようとしていた。日が昇れば、再び山の麓の街を目指して歩いて行けるだろう。疲労が消え、姉の足も癒えた今なら、それは難しいことではないだとう。上手くすれば、下山の途中で水も食べ物も見つかるだろう。生きるための本能が、少年の中で再び燻り始めていた。

 しかし、ペガサスが大きく羽ばたく音を聞いて、少年の胸は急速に締め付けられた。いつのまにかペガサスは、少年たちに背を向けていた。そして今、羽ばたきを徐々に大きくして走り出そうとしていた。

 このままでは“彼女”は飛び去ってしまう。

 瞬間的に感じた少年は、気がつくと立ち上がり駆け出していた。

「待ってよ!行かないで!」

 そう叫びながら、必死にペガサスの胴体に手を伸ばした。しかし、あと少しのところで少年の手は届かず、むなしく宙を掴んだ。手の届かぬ高みへと舞い上がった“彼女”へと向かって、少年は力いっぱい叫んだ。

「ボク、君のことを絶対に忘れない!!君がどこへ行っても必ず見つける!!だから君も、ボクのことを忘れないで!!」

――忘れないよ。

 突然、頭の中に優しい女性の声が響いた。そして、空を舞っていたペガサスから一際輝く純白の羽根が落ちてきた。まるで吸い寄せられるように、その羽根は少年がかざした手の中へと収まった。

――だから、会いに来てね。待ってるから。

 その声を最後に、ペガサスは遥か遠くへと飛び去った。

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