7 桐山茜(ターミナル駅)
桐山茜はターミナル駅から出ると、広場にたむろしていた鳩が飛び立っていくのを目で追った。
かすかに血で染まった空色のワンピースの裾を、生温い風が緩やかに撫でていく。
どうしてこんなことになってしまったのだろうと茜は自問自答していた。
彼が言ってくれた「結婚しよう」という言葉は、ずっと待ち続けていたものだったのに。素直に甘えればよかったのかもしれない。「今まで通り生きていけばいい」と彼は言った。けれどできなかった。
弟の蒼は、無差別殺人事件を起こす前日、こんなことを言っていた。
「追い込まれているやつを、さらに追い打ちをかけるようにとどめを刺すヤツは、なんで罪に問われないんだろう。刃物を使って人を殺したヤツは裁かれるのに、言葉の刃で人の心を殺したヤツは、どうして裁かれないんだろうな」
ただの独り言なのかそれとも質問だったのか、よくわからない。
あの時、何かを答えていたら彼の人生は変わっていたのだろうか。姉としてどう答えれば彼を救えたのだろうか。
彼はもうこの世にいない。見知らぬ人を殺し、父と母を殺し、自分自身も殺してしまったのだから。
誰か教えてほしい。
たった一人で残された加害者の家族は、何をすれば許されるのだろうか。
たくさんの人を殺したのは自分ではない。両親を斬り裂き、自ら命を絶ったのは弟だ。だから関係ないのだと割り切ることができれば、どれだけ楽だっただろう。
けれど死んだ人間は生き返らない。殺された人達から奪われた未来を取り戻すことは永遠にできない。
殺された人々が「なぜお前だけがのうのうと生きているのだ」と毎日問いかけてくる。
罪を償うべき者が存在しない以上、残された者が償わなければならないのかもしれない。
だからここに来たのだ。
本当に罪を償うべき者が誰なのかをはっきりさせるために。
暮れ始めた夕日は、乱立するビルに遮られた狭い空を赤く染めながら沈んでいく。
明日は晴れるのだろうか。
ふと思い出したのは、「空がなぜ青く、夕焼けは赤いのか」について力説している菊池守の真面目な顔だった。
誰もが当たり前と思って気にもとめないような現象でも、時間や場所だけでなく、観測する人の気持ちや環境で見え方が変わる。ほかの誰かにとってはタダの日常でも、ある人にとっては人生を左右するような青空や夕焼け空になることもある。
レイリー散乱のような理論や科学では説明できない世界が、人の心には存在する。それが面白いのだと彼は言っていた。
彼が目指していたジャーナリストの世界も、同じ事件や出来事であっても、記者の切り口次第でいくらでも色が変わることがある。
だからこそ記者は自分たちのペンの力を悪用してはいけないし、過信してはいけないのだと、真剣なまなざしで自分に言い聞かせるように口する彼の言葉に心を打たれたことを茜は思い出していた。
大学で出会ってから、初めて二人で出かけた遊園地で一緒に海老かつバーガーを食べたあの日も、綺麗な夕焼け空だった。
根気よく説明してくれた彼に向かって、「どんな理由でも綺麗ならそれでいいよ」と身もふたもないことを言う女を、笑って許してくれる優しい人だった。
もう会えないかもしれない。
覚悟はしていたがそう思った瞬間、涙が頬をつたう。でも行かなければならない。
茜は人であふれる交差点を抜けると、二度と足を踏み入れたくなかった場所に向かってゆっくりと歩き出した。