6 菊池守(トワイライト編集部)
仕方がないんだと、菊池守は自分自身に何度も言い聞かせていた。
ゴシップ界隈の仕事をしているとやるせない事件というのはいくらでも出会う。
それを騒ぎ立てて記事にすることに罪悪感を感じないと言えば嘘になる。それが知り合いの事件であればなおさらだ。だがそれが仕事なんだから仕方がない。
「菊池、あの無敵の人シリーズはどこまでいった? プレビュー見せてくれるかな」
編集長が背後に立ち、真剣な表情でエディタ画面を覗き込んでいた。
すでに時刻は夜の二十二時をまわっていたが、毎日が締め切りとなるウェブサイトを担当しているトワイライト編集部では、本日中に掲載できるかどうかのギリギリを渡り歩く攻防が繰り広げられていた。
「記事は組み終わってます。今デスクに最終チェックしてもらってるところで、問題なければすぐに掲載できます」
真夜中の戦場では、多くの編集員が生き残りをかけて黙々とモニターを睨みつけキーボードを連打していた。
編集長は作業が滞っているところがないか、フロア全体にさりげなく目を光らせながら、時間と完成度を天秤にかけながら適材適所に飴と鞭を使い分け、サイトの記事がきちんと掲載されるようにコントロールしていた。
物によっては、たった一分でも掲載が遅れると、ほかのニュースサイトにPVをかすめ取られてしまうこともある。
そんなウェブニュースの世界だからこそ速度は絶対だが、急いだことによって情報が間違っていれば信用問題となる。速度と正確さ、そのどちらも意識しなければならない現場はいつもシビアだ。
「おーけー。菊池は仕事が早いから助かるわー」
「褒めてもなにも出ませんよ」
「うん。知ってる。なにこれ……うまっ」
頼まれたプレビューを出して説明している隙に、仕事が一段落したら食べようと思っていた海老かつバーガーが編集長の口の中に消えていた。
「ちょ、なに勝手に人の食料を略奪してるんですか」
相手が編集長でなければ、胸ぐらを掴んで同じ物を買いに行かせるところだった。
取材費や資料を買う金を捻出するために、必死に食費を削っている貧乏契約社員の食料を盗み食いするなんて、もうすぐ五十になる偉い人のすることか。
しかも安物とはいえ結婚指輪を買うという臨時出費があったおかげで、今月のピンチっぷりは限界突破しているというのに。そう思いながら菊池は恨めしそうに編集長を見る。
「うめーなこれ。菊池は食い物の趣味もオレと合うから助かるわー。あ、略奪じゃないよ。はい」
机にはワンコインが置かれている。購入代金より高いので一応黒字だが、海老かつバーガーの口になってしまった気持ちはプライスレスだ。
というか褒めるぐらいなら、もっと給料を上げてほしい。
「で、大丈夫なの」
編集長が仕事モードとは違う低いトーンで話かけてくる。
「なにがですか」
「彼女の弟がやらかした例のやつも入ってんだろ」
「そう……ですね。まぁ仕事なんで」
「強がっちゃってー」
「書けって指示したのはそっちでしょうが」
「まあ、そうなんだけど」
タチの悪い笑みを編集長は浮かべている。
「それにしても危なかったな。フロアが違うとはいえタイミングが悪かったら、とばっちりでオレも殺されてたかもしんないからな」
事件が起こったソロモン出版は、一つ上の最上階フロアにあった。トワイライト編集部と同じ系列グループということもあり、殺された社員の中には顔見知りもいて、葬式をはしごする羽目になったぐらいだ。
「僕は取材に出ていたので大丈夫でしたけど。むしろ鉢合わせでもして、本人を説得出来れば良かったのにと未だに思います」
編集長は、いかにも青臭い若者を見守るような生暖かい笑みを浮かべる。
「まぁ、終わったことをどうこう言っても仕方ねーし。時空を超える能力でもないと出来ないようなことは、さっさと忘れなさいよ」
「……はい」
菊池は素直に頷く。
一晩寝たらなんでも忘れられると普段から豪語している編集長のことが、この時ばかりは羨ましかった。大事な連絡事項でも、きれいさっぱり忘れるのはどうかと思うが。
「桐山蒼が本当に殺そうとしていたのは誰なのか……か。なかなかいい切り口だな。相変わらずいい仕事するねー。ほかのサイトでまだ載せてないとこまで踏み込んでるし。いいね。PVも稼げそうだ」
「ありがとうございます」
「で、その彼女は今行方不明らしいけど、面倒臭いことになりそうだったから捨てたの?」
編集長は切れ者で優秀な人だが、神経を逆なでするようなことを平気で言うのがたまに傷だ。
デリカシーのない言葉にむかつきながら、菊池は編集長を睨みつけた。
「捨てたんじゃない。プロポーズをしたら、むしろこっちが捨てられたんですよ」
「ふーん」
編集長がニヤニヤとこちらを見ながら、菊池の肩をバンバンと叩く。バーガーを素手で掴んだ手の汚れを、他人のワイシャツで拭き取るためではないと信じたい。
茜に就職祝いのプレゼントとしてもらった大事なストライプ柄のお気に入りのシャツなのに、オーロラソースのシミが残らなければいいがと菊池は心配する。
「じゃーこの記事がデイリーと週間ランキングでトップを取ったら、傷心祝いに寿司でもおごってやるよ。そういえば、菊池はまだ夏休み取ってなかっただろ。この際だから、しばらく有給取って傷心旅行とか行っちゃえばいいじゃん」
菊池は苦笑する。
「寿司は嬉しいですけど、傷心旅行はどうだろう。女性がやれば様になりそうですが、僕がやってもタダの貧乏旅行か、痛い感じの自分探しの旅になっちゃいますね」
「編集長! これどうなってんすか。聞いてないですよ」
フロアの奥で副編集長とデスクの数人が揉めている。
「おっと、なんか副編が爆発してるな。ちょっと行ってくるわ。じゃーあとは、よろー」
編集長は慌てる様子もなく、呑気な足取りで戻って行った。
いつもひょうひょうとしている編集長は無神経なようで、すかさずフォローもしてくるので憎めない。人の上に長く立ち続けてきた人間ならではの処世術なのだろう。
それにしても、捨てられたという言葉をあらためて口にしてみると、それが事実なのだと痛感させられる。たった五文字なのに、みぞおちをえぐる破壊力が半端ない。
そうだ、捨てられたんだよな。いや、失望されたというべきか。
弟の桐山蒼が事件を起こした日以来、桐山茜は文字通り言葉を失い、やせ細り、何も話さなくなった。そんな彼女を見かねて「結婚しよう」とプロポーズをした。
だが、その日のうちに彼女は指輪だけを残して病院から姿を消した。警察に捜索願も出したし彼女が行きそうな場所も探したが、未だに手がかりはない。
彼女はいったいどこに行ってしまったのか。ちゃんとご飯は食べているんだろうか。眠れているのだろうか。
菊池は今でもずっと考えていた。
どうすれば彼女を救えたのか。
あんなタイミングでプロポーズをした方も不謹慎だが、それしか彼女を救う方法を思いつかなかった自分にも絶望している。
結果的に彼女を追いつめてしまったのかもしれない。どうすればよかったのか、未だに答えは見つからない。
もし、彼女がもう一度会ってくれるなら、彼女も大好きな海老かつバーガーを一緒に食べたい。
おいしいねと笑う茜の笑顔が見たい。