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言葉が人を殺した日は、綺麗な夕焼け空だった  作者: 白野こねこ
【裁かれる人々】前編 終わりの始まり
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5 桐山茜 / 菊池守(警察病院)

 しゃべろうとしても、声にならない。

 筆談をしようとしても、しばらくは文字すら書けない状態が続いていた。脳が考えることを拒否しているのかもしれない。

 あの事件以来、桐山茜の言葉はしばらくの間どこかへ行ってしまったようだ。


 最初は食べることもままならなかった。一口、二口ですら気持ち悪くなり吐いてしまう。点滴で栄養を補給することになったが体重がどんどん落ちていく。


 トイレの鏡で見た自分の姿は別人のようだった。

 ようやく少しずつなら話せる状態になり面会謝絶が解かれたとき、最初に見舞いに訪れたのは菊池守だった。


「これ、食べられるかわからないけど買ってきた」


 ファストフード店の大きな紙袋をベッドの補助テーブルの上に置く。中を開けると海老かつバーガーが山のように入っていた。茜と菊池の共通の好物だった。


「ありが……とう。でも……」

 茜が困ったような顔をしながらゆっくりと答えると、菊池は苦笑する。


「こんなに食えないよな。ごめん。なんかごめん」


 菊池は、学生時代からつき合っている恋人だった。

 頭が良くて普段は真面目で固そうな見た目なのに、笑うと子供がおもちゃをもらった時のような無邪気で人好きのする笑顔を見せる、そのギャップが魅力的な男だった。


「これでちょっとは殺風景じゃなくなるだろ」

 菊池は鞄から出した紙を病室の壁に勝手に貼り始める。


 子猫が居眠りをしている写真、ハムスターの可愛らしいお尻の写真、茜色に染まる夕焼け空の写真、冬の寒さでふわふわになったスズメの写真、どれもこれもみんな茜が好きだと言って菊池に見せたことのある写真だった。それをわざわざプリントアウトして持って来たようだ。


 事件のことは何も聞かずに、茜の好きな物ばかりを持ってくる菊池の優しい心遣いに気がついたら涙が流れていた。

 ずっと白い病室にいるのに、真っ暗闇だった気持ちに微かな光が差し込んだような気がした。


 けれどその瞬間、弟の桐山蒼に殺された人々が脳裏に浮かび、すべてを打ち消した。

 のっぺらぼうの顔で血まみれになった誰かがこっちを見ている。「どうしてお前だけが生きているんだ」と問いかけてくる。「あなただけ幸せになれると思っているの」と、記憶と妄想の作り出す亡霊が次から次へと責め立ててくる。

 最初は嬉し涙だったはずが、いつの間にか悲しみと苦痛の涙に変わっていた。


「殺された人たちがみんな、ずっと見てる。やっぱり私、死んだほうが……いいのかな」

 茜のやつれた頬に手をやり、菊池はそっと涙を拭ってやる。


「蒼君が犯した罪は絶対に消えないのは事実だよ。でも、いくら家族だったとしても、蒼君と茜は違う人間なんだから、死ぬ必要なんてない。今まで通り生きていけばいいと思う」


 茜は何度も首を横に振る。止めどなく溢れる涙の粒をいくつも白いシーツに落としながら、消え入りそうな震える声で答える。

「世間の人は……そうは思わない」


 菊池は、肩を揺らしながら泣き続ける茜の体を抱きしめた。やせ細った体を折らないように気を付けながら、そっと包み込む。


「茜の言う世間ってなんだろうね。世間が笑えと言ったら、茜はおかしくもないのに笑うの? 世間が死ねと言ったら、茜は死にたくもないのに死ぬの? 世間という名の誰かがなにかを言ったら、全部その通りにしないといけないの? そんなわけないよね。茜は一人の人間なんだよ。茜を支配できるのは、茜だけなんだよ。そんな大切なことを忘れたらダメだよ」


 菊池は、涙で濡れた茜の頬に優しくキスをした。


「こっそり抜け出して来たから、すぐ戻らないといけないんだけど」


 少しためらうように菊池がポケットから小さな箱を出すと、茜に手渡した。

「退院したら一緒に住まないか。落ち着いたら結婚しよう」


 紺色のビロードの箱には、小さな指輪が入っていた。

「こんなちっちゃいのでごめん。もっと稼ぐようになったら、茜が好きな指輪をプレゼントするから。約束するよ」


 茜は喜びと困惑をない交ぜにした表情で菊池を見つめる。

 そのとき、病室をノックする音が響いた。


「じゃあ、また来る。返事はいつでもいいから」

 菊池が部屋を出るのと入れ違いに、夕食を運ぶ看護師が中に入ってきて、食事をセッティングし始めた。


「優しそうな彼氏さんですね。いつ面会できるのかって、ずっと心配されてたんですよ」


 看護師の言葉に、静かに頷く。茜は手のひらに残された小さな箱をじっと見つめる。


 そうだ。彼はいつだって優しい。

 けれど、暗闇の中で見る光は強すぎると目が眩む。

 前に進むための光が時として歩みを止め、立ち尽くす未来を呼び寄せることがある。

 まるでヘッドライトの光で驚き、車にはねられる野良猫のように。


「桐山さん」

 しばらくしてから看護師が夕食の配膳を回収しに病室に入ると、茜の姿がなかった。


「あら? おトイレかな。まだご飯残ってますけど、片付けちゃいますよ」


 ベッドの補助テーブルには、紺色のビロードの小箱がぽつんと置かれたままだった。その後、茜が病室に戻ってくることはなかった。






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