11 薮中真理子 / 桐山茜(桐山家・過去)
突然呼び出された薮中真理子は、桐山家の二階で包丁をつきつけられていた。
「蒼を追いつめたのは、あなたよ」
そう言った桐山茜の声は低く重苦しかった。
机の上に置かれたノートPCには、桐山蒼を擁護するような文章が表示されているのが見える。真理子が訪れる直前に、茜が匿名掲示板に書き込みをしていたようだ。
「違う。悪いのはネットで蒼を叩いてた奴らでしょ」
刃から逃れようと後ずさりをした真理子の背後には、大きな本棚があった。
もう逃げ場はない。
必死に自分の身を守るものを探す手に触れたのは、ワインのボトルだった。もう少し手を伸ばせば、しっかり握ることができそうだ。
このワインは最終世界の販売本数が初めてミリオンセラーを突破したときに記念として開発者に配られたもので、もう何年も前の過去の栄光を象徴する残骸だった。
「そうね。タネをまいたのはあの人達よ。でも、それを逐一知らせて本当は知らなくて良かったようなものまで全部わざわざ蒼に教えて、心配するフリをしながらさらにどんどん追いつめたのはあなたじゃない! だいたいあなたなんなの。蒼とつき合ってたくせに、プロデューサーや広報部長と寝てたんでしょ。それがバレて、もっと蒼を追い込んだのはあなたでしょ」
しばらくの間声を失っていた人間の言葉とは思えないほど、真理子に投げつける罵声の勢いだけは強かったが、茜の包丁を持つ手はかすかに震えていた。
「そんなのただのデマよ。私が好きなのは蒼だけ。私達はずっと愛し合っていたもの」
「あなたの言葉なんか信じない。周りにいっつも嘘をまき散らして、自分の都合のいいように立ち回って、真面目で純粋な人たちをどんどん陥れて。あなたのせいで、辞めていった人だって何人もいるのよ。蒼だって、そうやって追いつめたんでしょ」
バカにするように真理子は鼻で笑った。
「なんにも知らないくせに……茜さんに、蒼の気持ちなんてわかるわけがない」
「わからないわよ! 自分がいくら傷ついたからって、ムカついた相手を皆殺しするような、どうしようもなくバカで愚かな弟の気持ちなんて、わかりたくもない」
茜は包丁を両手で強く握りしめ、相手を睨みつける。
「茜さんっていつもそう。そうやってすぐ蒼を見下してバカにして。なんにもわかってない。私知ってるのよ。シナリオ執筆に行き詰まってた蒼に、あなた自分が書いたシナリオを渡したんでしょ。どうしても書けないなら、これを使ってって」
「なにがいけないの。もうこれ以上延期は許されない状態だった。困っている弟を助けるために当たり前のことをしただけじゃない」
真理子は、相手を心の底からバカにするような笑みを浮かべた。
「一番最悪なことをしておいて、それが当たり前って言えるなんて、本当にどこまでおめでたい人なの。書けなくて悩んでいる人間が、自分のシナリオより上手に書かれたものを渡されたときの気持ちが、どんなものかなんて考えたこともないんでしょうね。生まれた時からなんでもできて、やることなすことみんなに褒められて、チヤホヤされてきた人間は、想像すらしたことがないんでしょうね。双子として一緒に生まれて来たのに、ずっと比べられて必ず負ける側の気持ちなんて」
「なにを……言っているの」
茜は困惑したように眉をひそめた。
「ずっと恵まれてきたあなたみたいな女には、延々と自分だけが負け続ける毎日に疲れ果てて、望んだ通りにやりたくてもできない残念な人間の苦痛や悲しみなんてわからないんでしょうね。どうせ知らず知らずのうちに毎日踏みつぶしている小さな蟻ぐらいに、どうでもいいことだとしか感じないんでしょ」
「そんな恵まれてきただなんて、あなただってずっと美人なおかげで、ほかの人間からチヤホヤされて生きてきたんじゃないの。だから実際にいろんな男を利用して、本当の能力以上の権力を手に入れてるじゃないの」
真理子は吹き出した。
「残念ながら茜さんと違って、私は天然じゃないの。小さい頃から不細工でデブでいじめられて登校拒否になって、長い間引きこもってたくらいだしね。でも拒食症になって痩せたのをきっかけに顔も体も整形しまくってから、上京して大学デビューしただけ」
地元から遠い場所ならどの大学でもよかった。今まで自分をいじめてきた奴らから離れられるなら。
「だからあなたみたいな生まれつき恵まれてる人って大っ嫌いなの。自分は愛されて育ちましたっていう幸せオーラをまき散らしてるような恵まれた女が死ぬほど嫌い」
たまたま運が良かっただけのくせに。持っていない人間をバカにしていた奴ら。真理子にとって茜のような存在は不愉快でしかなかった。
「だから学生時代は、あなたみたいな女の彼氏を狙ってわざと寝取るのが楽しくて仕方なかったな。あぁ、さっき誤解だって言っちゃったけど、本当は茜さんの尊敬する広報部長さんとも何回か寝ちゃってた。ごめんなさいね。でもあの人が茜さんのこといくら美人でも、もうすぐ三十路なのにコスプレとかして若作りに必死なのが、見ていて痛々しいって言ってたわよ」
茜の頭に血が上っているのが、手に取るようにわかる。むかつく女をわかりやすい煽り言葉で怒らせるのは無性に楽しいことを、真理子は久しぶりに思い出していた。
「あの人がそんなこと……言うはずない」
「プロデューサーも広報の女がうぜーって愚痴ってたな。ただの会社員なのにアイドル気取りで自分アピールばっかりして、コスプレよりゲームの魅力とかもっとほかにアピールすることがあるだろうって、いっつも怒ってたみたいだけど」
「私は……私はちゃんとゲームの魅力をアピールして」
茜の唇は震えている。
「へー、ゲームの魅力ってコスプレしないと伝えられないんだ。知らなかったなー。ゲームに関係のあるキャラクターのコスプレならまだしも、婦人警官やナース服とかただの趣味で着たいだけで完全に公私混同じゃない。本当はゲームのことなんてどうでもよくて、自分が大好きで周りの人間にチヤホヤされたいだけのあなたみたいな人が、ゲーム業界をダメにしてるんじゃないの」
聞いたこともないような奇声を上げて茜は包丁を突き刺した。
だが、貫通したのは真理子の体ではなく、本棚に並べられた雑誌だった。
「この程度の言葉で怒っちゃうなんて、よっぽど今までの人生恵まれてきたんだね。私は小さいころから、もっと酷いことを毎日まいにちずーっと、うんざりするほど言われてきたんだけど」
茜が慌てて包丁を引き抜くと、本棚から雑誌が音を立てて崩れ落ちる。
「こういう時に天然と人工は全然違うんだなーって実感するよ。ほんとせっかく整形して美人になっても、ねじ曲がった性格ってやっぱり簡単には直らないんだよね。必死にいい人ぶっても、バレちゃうんだよ。人のこと妬ましいって、羨ましいって、腹立たしいって、頭の中では考えてるのがみんなに伝わってるんだろうな」
真理子はだんだん楽しくなってきていた。不愉快な女に汚い言葉を叩きつける快感に酔いしれていたのかもしれない。
「昔は私のことをブタとかバイキンって言ってたような奴らが、一目惚れしましたとか、つき合ってくださいとかバカみたいに群がって来たとき、最初はざまーみろとか、リベンジしてやったとか思ってたけど、結局そういう人たちは中身がバレるころにはみんな離れて行っちゃうんだよね。だから、美人になってもほんとは全然幸せじゃなかった」
真理子は桐山蒼のことを思い出していた。太陽のように輝く茜のせいで、月にしかなれなかった男のことを。
「でも、蒼だけは違ったんだよね。蒼は生まれてからずっと出来のいい姉と比べられて、双子だけど二卵性だから能力は全然似てなくて、小さい頃からコンプレックスの塊で、同じようなコンプレックスで苦しんでた私には心を開いてくれて、初めて私のことを本当に理解してくれた人だったのに。それなのに私だけ残して人殺しなんかして、勝手に死んじゃうなんて酷いよね」
事件を起こす前に、落ち込んでいたはずの蒼が急に明るくなった時があった。きっとあの時にはもう何もかも終わりにすることを決めていたのだろう。
「蒼はね、自分より出来のいいあなたのことが大嫌いだったけど、でも本当は大好きだった。ずっと昔から尊敬していたし、あなたに認めてもらいたかった。だからこそ自分には才能がないんだって、絶対に認めたくなかったんだよ」
真理子は、睨みつけるように茜を見ていた。
「なのに茜さんは一番、蒼がしてほしくなかった方法で蒼の気持ちを踏みにじった。それまでも蒼はずっと不眠症で、精神的に不安定だったのに、あの日以来もっとおかしくなった。蒼を追いつめたのはあなた。茜さんがとどめをさしたのよ。いろんな人を殺したのは蒼だけど、その引き金を最後に引いたのは茜さんなんだよ」
「そんなの、嘘……よ。そうやってまた蒼みたいに私のことも騙そうとしてるんでしょ」
「嘘じゃないわ。だって蒼が言ってたもの」
「嘘つき女の言葉なんて信じないわよっ」
「どうぞご自由に。でも蒼が本当に殺したかったのは、森村有希なんかじゃない。あなたよ。自分よりなんでもできる姉がこの世に存在する以上、いつまで経っても自分は幸せになれないって、蒼は本当はわかってた。でも大好きだから、別の人間を殺すことで自分を騙そうとした」
茜は信じたくないという表情をしている。この期に及んでもまだ自分は被害者のつもりのようだ。
「もしかしたら、第一発見者になる可能性の高いあなたを硫化水素で巻き添えにするつもりだったのかもしれないし、犯罪者の家族として茜さんだけが生き残って世間から攻撃されて、殺されるよりむしろもっと酷い目に遭うことを期待していたのかもしれない。でも結局どっちにしろ、蒼はいっつも詰めが甘いから、本当に殺したかった姉どころか、身代わりの森村有希すら殺せなかったみたいだけど」
真理子は、口を歪ませるように笑った。
「だから蒼の代わりに、私が殺してあげる」
力強く振り下ろされたワイン瓶は、茜の頭に直撃した。
何度も何度も、憎しみを込めて殴り付けるうちに、茜は動かなくなった。
どっと疲れが押し寄せたのか、真理子は力つきるように椅子に座り込んだ。しばらくの間はどこを見るでもなく、放心状態のまま時間が経っていることにも気付かず、茜を殴り殺したワイン瓶を強く握りしめていた。
ふと我に返った瞬間、机の上に置かれていたノートPCで茜が殺される直前に書き込んだ、匿名掲示板の文字が目に入った。
自分に酔っているような文章。
どこまでも自分は悪くないと思っている聖人きどりな言葉。
なにもかもが腹立たしく、怒りのあまりに手が震えてきた。
「蒼にとどめをさしたのはお前のくせに、自分だけが被害者みたいなツラしやがって。これだからチヤホヤされて育ってきた女は嫌いなんだよ! 最初からなにもかも手に入れてるやつが人の人生を邪魔すんじゃねーよ!」
怒りに任せて血まみれのボトルをノートPCに叩き付けた。
モニター部分の角に当たり瓶が割れ、真っ赤なワインが鮮血のように飛び散った。机から垂れ落ちるワインや飛び散ったガラスの破片が、茜の空色のワンピースに降り注ぐ。
「みんな死ねばいい。私が全部殺してやる。しかもみんな蒼と同じ死に方で死ねばいい」
真理子は、狂ったように笑い続けた。だが目からは涙がこぼれ落ちていた。蒼を無くしてから初めて流した涙だった。
桐山蒼と初めて二人きりで手をつないで歩いた桜並木が脳裏に浮かぶ。記憶の中で笑っている彼は、もうこの世には存在しない。
いつもそうだった。自分の周りにいる人はみんな不幸になる。自分の頭がおかしいことなんてわかっていた。
でもどうしようもない。
こんな頭のおかしい私でも、蒼だけが本当の自分を見てくれていたのに。あんなに大事な人はほかにいなかったのに。ほかの男と寝たなんてただのデマだったのに。
蒼を現場からはずそうとしてるやつらを丸め込んで黙らせるために食事に誘っただけなのに。誰かが自分を陥れようとして広めた噂を信じた蒼は疑心暗鬼になり徐々に離れていった。
あの日最後に別れを告げて、一人になった蒼はもっと追い込まれて、あんなことをしてしまった。
自分が守ってあげなくてはいけなかったのに。
彼の心をわかっていたのは自分だけだったのに。
せめて彼ができなかったことを代わりに叶えてあげよう。それがすべて終わったら彼の元に行こう。
真理子はそう心に誓った。




