2 塔島正義 / 荒神強(桐山家1F)
塔島正義が近くの駐車スペースに車を止めて、桐山家の前まで戻ってくると、玄関前にいる野良猫と荒神強が、一定の距離を開けて睨み合っていた。
にじりにじりとミリ単位で近づきながら、西部劇風の早撃ち合戦が今にも始まりかねないぐらいの緊張感を漂わせている。「種族を超越した戦い! 野良猫VS.荒神強」という煽り文字の看板を立てたいぐらいだ。
「いくら怖いからって、猫相手に拳銃をぶっ放すなよ」
「し、しませんよ、そんなこと」
塔島が白い野良猫に近づくと、人懐っこい猫らしく何度も体をすりつけてくる。
出会い頭にマーキングをされるとは、よっぽど弱い下僕な奴だと思われたのかもしれない。
目の前でびびりまくっている残念な人間の仲間だと思われたのなら仕方のないことだ。
しゃがんで撫でてやると、もっと撫でろというつもりか「にゃー」と鳴いた。
真っ白で艶やかな毛並みに映える薄水色の瞳をしていて、野良猫の割になかなかの美猫だった。
こんなに可愛いやつが怖いだなんて、荒神の脳にある扁桃体はどれだけ暴走すれば気がすむんだろうか。
ありとあらゆるものが怖いと生きていくのが大変そうだなと、少しだけ荒神のことが気の毒になってきた。
白猫はしばらく撫でられて満足したのか、塀の上にジャンプし、香箱座りで居眠りをし始めた。
寝入るまでに、しばらくシッポをゆっくりとハタハタと動かしている姿を見て、ふいに塔島は昔、妹が拾って来て実家で飼っていた猫のことを思い出した。
なんとなく似ているかもしれないと小さく笑う。
妹と二人で縁側に寝そべって、日向ぼっこをする白猫の動くシッポを捕まえては、不機嫌そうに振り返る様を確認するのが楽しかった。
だが、その幸せな記憶は、別の記憶を呼び覚ます呼び水にもなっていた。
行方不明になった後に変わり果てた姿で発見された妹。怒りに任せて犯人を銃殺した父。離婚してからも犯罪者の家族として各地を転々とした末に耐えきれなくなって自殺した母。
たった二、三秒の間だが脳が見せる記憶の亡霊に、塔島は脂汗をかいていた。
荒神に悟られないように平静を装って塔島は立ち上がり、黄色いテープをくぐった。玄関の中へ入ろうとすると、荒神が焦って声をかける。
「塔島さん、聞き込みに行かないんですか」
「ここまで来たんだから、もう一度、現場は確認しとくべきだろ。失踪前に戻って来た可能性も高い。桐山茜の足取りを掴めるヒントがあるかもしれないし、まぁ一応な。お前の大好きな現場百回ってやつだ。前に来た時にすぐに逃げ出して、お前はちゃんと見てないだろうし、ちょうどいい機会じゃないか」
「えーっと、その……」
荒神の目が泳いでいる。
「当然のことながら中に入ると、お前の大嫌いな血まみれで大惨事な部屋がお出迎えしてくれると思うがな。どうしても無理なら、そこで野良猫の相手でもしてろ」
荒神は思考停止したのか、しばらくの間、固まっていた。
何かと何かを天秤にかけているかのようなギリギリの取引が頭の中で成立したらしく、ものすごく困ったような顔でこちらを見た。
「む、無理じゃないです、だ、大丈夫です」
全然大丈夫そうじゃない腰の引け具合で中に入っていく荒神を見て、こんな場所で不謹慎だが笑いをこらえるのが辛い。
どうやら荒神のおかげで、完全に正気に戻れたようだ。自分よりダメなやつがいると、こういう時は助かるなと苦笑しながら、塔島は荒神の後に続いて中に入って行った。
とはいえ家に一歩踏み入れれば、そんなふざけたことを考えている場合ではない光景が広がっている。
最初に目に入ったのは両親が殺害されたリビングだ。家具や床、窓などに血しぶきが広範囲にわたって飛び散ったままだ。
血しぶきを見るたびに「ヒッ」だの「ひゃっ」だの、悲鳴を上げてはハンカチを出して、オエーっと嘔吐いている荒神がだんだん不憫になってきた。
そんなにか、そんなに嫌いか。
実際、何度見てもおぞましい現場だった。
弟の桐山蒼が斬り刻んだ両親の遺体を発見した瞬間に腰を抜かして、警察が到着した後も、死体を凝視してスマートフォンを握りしめたままの状態だった桐山茜のことを思い出す。
赤の他人でさえ堪え難い現場を目の当たりにした身内の心境なんて想像したくもないわけだが、しばらくまともにしゃべれない状態が続き、入院したままだったことを考えれば、どれだけダメージが大きかったのかがわかるだろう。
その後、桐山茜が病院から突然姿を消したのが二週間前。
彼氏だった菊池守の証言によれば、プロポーズをしたから追いつめたということらしいが、本当にそれだけだろうか。何かほかの理由があったのではないのか。
失踪先を特定するための手がかりを求めて、まずは二階にある桐山茜の部屋に向かうことにした。
階段には所々に、何か重い荷物を引きずった跡のような、黒いゴム系の摩擦痕が見られる。前に現場を確認したときにはなかった気がするが。
「こんなの調書にあったか。全部記憶してきたって言ってたよな、お前」
「え? なにがですか」
「だから、この引きずったみたいな黒い摩擦痕だよ」
塔島が振り返ると荒神は目をつぶったまま階段を這うように上がっているところだった。あまりに血を見たくなくて、とうとうすべてを見ない事にしたようだ。
ダメだこいつ、なんとかしないと。
塔島は死ぬほど舌打ちをしたかったが、心の中だけで我慢をしておく。
「ここはもう血はないから、目を開けろくそボケ」
「あ、はい。わかりました」
おそるおそる片目ずつ開ける荒神の顔を見ているとイライラする。
お前は乙女か。
ツッコミの練習をするために刑事になったんじゃねーんだよと、塔島は何度も荒神の頭にエアーツッコミを入れていた。
「摩擦痕を調書で見たかって聞いてるんだ」
「いえ、なかったです」
「だよな。あとから戻って来たときに付いたってことか」
よっぽど重い荷物でも持ち出したのだろうか。
逃走するためにいろいろ持ち出した可能性もあるが、現時点ではよくわからない。
とりあえず桐山茜の部屋に入ることにした。