1 桐山蒼(ソロモン出版)
桐山蒼はソロモン出版が入っている高層ビルを見上げた。
ガラス張りの側面に赤い夕日が反射して、やけに綺麗だった。壊れた心に染みるような優しい色合いだ。道端に咲く小さな花ですら美しく見える。
死を予感した人間の視覚は変化するのだろうか。
蒼は、無意識のうちに笑みを浮かべていた。
世界がこんなにも素晴らしかったなんて、もっと早くに知りたかった。誰も教えてくれなかったし、知ろうともしなかったのだから仕方ない。
だが、今日ですべてが終わるのだから、どうでもいいことだ。無敵の人に怖いものなんて何もない。
蒼はビルに入り、エレベーターを待つ間、ずっと考えていた。
誰かが世の中に放った言葉が他人を傷つけ追いつめたとしたら、それは誰が悪いのだろうか。
言葉を発した誰かなのか。
それとも他人の言葉で傷つくような弱い心を持った人なのだろうか。もし追いつめられた人が死を選んだとしたら、誰かの心を引き裂いた言葉は、一体誰に裁かれるのだろうか。
ある日から考え続けてきたその問いは、未だに答えが見つからないままだった。
ビルの最上階に到着した蒼は、インターフォンで担当者の名前を告げると中に招き入れられた。フロアを見回すと、休日出勤をしている人はそんなにいないようだ。
資料や本が山積みになっているデスクには、次世代ゲーム機や携帯ゲーム機のほか、パッケージソフトやフィギュアが無造作に置かれている。
仕事場というより、まるで学生寮の部屋のようなカオスっぽさは、ゲームサイトの編集部ならではの光景かもしれない。
「桐山様、お待ちしておりました。本日のインタビューはこちらの応接室で行います。担当の者がのちほど参りますので、おかけになってお待ちください」
案内してくれた女性に座れと促されたのは有名ブランドのソファだ。刻印を確認するまでもなくお高い正規品なのだろう。
自分達のようなクリエイターが何年もかかかって作り上げる作品を適当にこき下ろすだけで贅沢品が揃えられるのだから羨ましい話だ。
このソロモン出版が運営しているのは、ここ数年で規模を拡大してきた「レビュー王国」というゲームサイトだった。歯に衣着せぬレビューが評判となり、最近ではこのサイトで批判されたゲームソフトは、大幅に売り上げが落ちると言われるほどの影響力を持つまでに成長したサイトだ。
元々大手出版社の系列から派生した会社とはいえ、小さな出版社が短期間でこれだけの力を持ったということは、ステマなどと揶揄されるような表立って人には言えないようなことをして、汚い金をいくらかもらっているのかもしれない。
過去に発売された作品だけでなく、まだ発売されてもいない作品に対しても、あからさまなネガティブキャンペーンを裏で仕掛けているのも、きっとこいつらのようなゲームをダシにして儲けるハイエナのような奴らなのだろう。
蒼が開発に携わっている『最終世界』シリーズも辛辣な批判を受けたばかりだ。批判した相手にインタビューを申し込んでくるというのだから、森村有希という編集者はよっぽど神経が図太いに違いない。
そんなことを考えていた蒼の脳裏に、ふいにレビュー王国のサイトで批判された記事の文面や、ネットの匿名掲示板やSNSなどで執拗に叩き続ける人々の言葉がフラッシュバックし鼓動が早くなった。
何度も深呼吸をしながら膝の上に置いた図面ケースの重みを確かめ、これからの行動を頭の中でシミュレートする。
大丈夫だ。問題ない。
蒼は自分にそう言い聞かせて心を落ち着かせる。
ノックの音がして若い男女が入室してきた。カメラを所持した男性と、レコーダーとノートPCを手にした女性だ。
茶髪で鼻ピアスのチャラそうな男と、黒髪でショートボブの真面目そうな女という、仕事でなければ二人は出会うこともなかったのではと思えるぐらいに対照的な印象を受ける組み合わせだった。
「お待たせいたしました。最終世界シリーズの最新作についてインタビューさせていただく予定でしたが、メールでもご連絡しているとは思いますが、実は本日……」
名刺交換をしようと歩み寄る女性の言葉を遮り、蒼は口を歪めた笑顔で答えた。
「初めまして、森村有希さん。ずっとお会いしたかったんですよ」
「いえ、あの私は……」
蒼は、図面ケースに隠していた日本刀を取り出すと、躊躇無く女性を斬りつけた。
血しぶきが飛び散るのと同時に、お茶を持って入室してきた別の女性が悲鳴をあげる。
トレイごとお茶をぶちまけ腰を抜かす女性を尻目に、男性のカメラマンが応接室から逃げ出したが、執拗に追いかけ背後から斬りつけた。
それを見て逃げ惑うほかの同僚にも、次から次へと斬りつけていく。
自分をバカにしたやつは全員死ねばいい。
死んでも当然のことをしたんだから天罰だ。
これでおしまいだ。全部終わりだ。
フロアにいるすべての人間が息絶えたとき、静寂が訪れた。
誰の物ともしれぬ除菌シートを手に取り、顔や手に付いた血を綺麗に拭うと、返り血を浴びたジャケットを脱ぎ捨てた。
普段あまり運動をしないせいか、息は上がり尋常ではない量の汗をかいていたが、不思議と疲れは感じていないようだった。きっと脳が麻痺しているのだろう。
家に帰って、父さんと母さんを殺さなきゃ。
どうせ自分が死んでも、姉さんがいればあの二人は困らないかもしれないけど、こんなことをしたのが息子だってバレて周りの人間に後ろ指を刺されるのはかわいそうだから、先に殺してあげないと。
姉さんはどうしよう。殺してもいいけど殺さないほうがダメージがデカいかな。どうだろう、よくわからないな。
蒼は思考能力が著しく低下している状態では、まともに判断できないことに自分自身で気が付いていた。だが、なにもかもがどうでもよくなっていた。
とりあえず家に帰ろう。後のことはそれから考えよう。
そう思いながら蒼は呼吸を整えると、何もなかったかのような顔でフロアを出る。
エレベーターから降りて、ビルの外に出て空を見上げると、いつの間にか夕焼けの茜色が押し寄せる闇に浸食されていた。
結局、誰も答えを教えてくれなかった。世界を壊そうとする相手を誰も裁いてくれなかった。
だから自分で裁いた。ただそれだけだった。