神経質で鈍感な男
すべての原稿を読み終えた後、朦朧とした意識の中でどうやって教室に向かい授業をしたのかすら覚えてないが、いつの間にか教室に残されていたのは僕と彼女だけだった。
「あまり体調が良くなさそうですが、大丈夫ですか」
彼女は、心配そうにこちらを見つめている。
とても彼女が僕のことを殺そうとしているようには見えない。
やっぱり気にしすぎなのだろうか。そうだ。なにもかもが、ただの偶然だったんだ。そうに違いない。
「ちょっと、連載準備用の執筆で行き詰まって、昨日眠れなかったんだ」
僕は嘘をついた。
「そんな大変なときに、すみませんでした」
「いや、いいんだ。そういえば読んだよ」
「ありがとうございます。どうでしたか。あの婦人警官が部屋に入って密室を作るトリック」
自分の部屋に訪れた婦人警官のことを、僕は思い出していた。
制服を着ている人間をいとも簡単に信じてしまうのは、自分自身が証明していた。
刑事なら二人一組で捜査をするはずだと考えて、不審に思ったかもしれない。だが、婦人警官となると単独行動をしていても気にならなかった。ある意味、盲点かもしれない。
「密室を作れる可能性はあっても、硫化水素が充満する前に、被害者が気付いて窓を開けたり換気をしたりすれば、そこで終わりだね。それに真夏だとエアコンを使ってる可能性が高い。エアコンがついていれば自殺が疑わしくなるかな」
「なるほど。真夏より春とか秋とかのほうがよかったですかね。ただ部屋が換気されてもユニットバスのような範囲が限られた場所ならある程度は濃度が高まるかもしれませんし、硫化水素は空気より比重が重いので、しばらく臭いを感知するまで時間がかかるかなと思ったんです。高濃度だと嗅覚が麻痺するそうですし」
「まぁそうなんだけど、確実に殺すためには被害者に睡眠薬を飲ませるとか、時間稼ぎをできる手段がもう一つ欲しいかもしれない」
「そうですか。ただ現状の流れだと、婦人警官が睡眠薬を飲ませるというのは、かなり難しい気がします」
「かもしれないね。でも、どうやっても無理に思える条件を覆すトリックを考えるのも、面白い部分だと思うから頑張って考えてみてよ」
そう言いながら、より確実に殺す方法をアドバイスするなんて正気ではないと、なにか本能のようなものが警笛を鳴らしている気がしたが、僕は気付かないフリをして彼女に笑顔で答える。
「はい、わかりました」
「あと、なんか急に恋愛小説みたいになっちゃってるのが気になるかな」
「確かに突然すぎるかなって思ったんですけど、頭の中で勝手に登場人物がそういう風にくっついちゃいまして」
「恋愛要素はあってもいいとは思うけど、やっぱり唐突というか、あれだけ嫌ってた相手に急にというのが、読者によっては反感を買うかもしれないね」
「そうでしょうか。現実の世界で、嫌な人だなって思ってても、案外ささいなきっかけで急に好きになったりしませんかね。恋は落ちるものだって言いますし」
「そうかもしれないけど、これは小説だからね。読者って結構理屈を求めるというか、自分の想定を超えて何か関係が変化してしまうと許せないと怒ってしまうタイプが多いかもしれない。そういえばこの小説に出てくる最終世界もゲームとはいえ、急激に心変わりするキャラクターの恋愛描写が酷いと、やたらとシナリオが叩かれてたものもあった気がするな。僕もいくらゲームでもアレはないなって思ってたな」
「先生のこと尊敬していたのに」
「え?」
「ネットで叩いている人と同じですね。先生までそんなことを言うなんて、ほんとガッカリしました」
なぜ突然「ネットで叩いている人」というのが出てくるのかさっぱりわからないが、どうやら地雷を踏んでしまったようだ。
軽い世間話のつもりで言ったが気に触ったのだろうか。彼女は僕を睨みながら言葉を投げ捨てるようにして教室を出て行った。
ため息をつきながら、僕は机の上に置かれた原稿を手に取った。
後編となっているということは、これが最後ということか。いくら生徒に嫌われようとも、原稿を預かった以上は最後まできちんと指導をしなくてはならない。
帰りのタクシーで読もうと思いながら、僕は教室を後にした。




