3 森村信人 / 佐倉美月(森村有希の自宅)
森村信人は普段着慣れない黒いスーツの上着やネクタイ、革靴を脱ぎ捨てながら、廊下に倒れ込み力つきた。
大家が手配したらしいハウスクリーニングのおかげで、蔓延していた腐臭も、妹の遺体の痕跡もすべて消え去り、ぼったくりとしか思えない金額の請求書だけが残された。
刑事たちが帰ったあとに通夜や葬式を一通り終えると、妹の有希の部屋に戻って来ていた。
いずれこの部屋の荷物を整理しないといけないと思うと、ため息が出る。田舎にいる母への連絡のことを考えると、さらに気が重い。
まだ母には妹が死んだことは知らせていなかった。父が癌で亡くなってからアルツハイマーを発症し、今ではほとんど寝たきりになってしまい老人ホームから出られない状態だったからだ。
いずれ骨壺を持って報告しに行くつもりだったが、息子の顔すらわからなくなっている母が娘の死を理解できるかは未知数だし、わからない人間にわざわざ嫌なことを知らせる必要があるのだろうかと考えると、なんだか気が進まない。
とはいえ妹の遺体が発見されたのが自宅待機が始まるタイミングだったのは、ある意味不幸中の幸いと言えるのかもしれない。しばらくは何もしなくても誰にも咎められることはない。
本当ならこの期間を利用して新しい就職先でも見つけるべきだったのだろうがとてもそんな気持ちにはなれないまま、森村はしばらく妹の部屋に引きこもり現実逃避をしていた。
最初は何をするでもなく、ただただ部屋を眺めていた。
壁を占拠している大きな本棚には、森村が開発に参加した最終世界シリーズのパッケージが二本ずつ並べてある。
一本は森村が妹にプレゼントしたものだが、もう一本は妹自身が購入したものだ。
社内販売の割引で買ったものを、自分が送ると前もって連絡しているのに、「せっかくお兄ちゃんが作った作品なんだから、自分でお金を出して買うよ」と言ってわざわざ二本も所持していたのだ。
そういう律儀でクソがつくほど真面目な性格のやつだった。
棚にはほかにも、さまざまなジャンルのゲームが大量に並べられている。テレビ周辺には所狭しと家庭用ゲーム機が配置されていて、最新の次世代機も含めてすべてのメーカーのものが揃っていた。
ゲーム開発者の兄より何倍も多くゲームをプレイし研究し、愛情を持ってレビューを書いていた。
そんな妹が、どうして書いた記事のせいで自殺をしなければならなかったのだろうか。いくら考えてもわからなかった。
残されたノートPCを開いて、妹が書いた記事をもう一度全部読み直してみた。
面白いゲームに対しては心から楽しんで褒め称え、開発者に対する尊敬を惜しみなく語り、そのゲームを遊んだことがない人間ですら、つい購入を決めてしまいそうになるようなレビューを書き、逆に詰めが甘い作品にはどこがどうもったいないのか、何が足りなかったのか、どうすればプレイヤーにとって喜ばれるものになったのかを論理的に丁寧に分析していた。
最終世界シリーズについて書かれた記事も、間違った内容は一つとして見当たらなかった。
RPGであるのに、キャラクターの誰にも感情移入できない状態で、何のために戦い争うのかすら曖昧なまま、目的が二転三転し、カタルシスを得られる気配すらなく展開するストーリーがあまりに稚拙で、プレイヤーが自ら冒険するというRPGならではの魅力が消し飛んでいるという指摘は、改めて言われてみればまったくもってその通りだった。
ストーリー以外で妹が指摘していたほかの問題点も、実際に開発チームの会議でも、デバッガーからの報告シートでも、何度となく問題を指摘され変更要望が出ていたにも関わらず、ディレクターの桐山蒼が独断でそのまま通した所もいくつかあった。
ゲームを好きな人なら誰でもおかしいと気付く、ある意味当然の指摘だったのにだ。
これらの妹の有希が書いた真摯な言葉のどこが、ディレクターの桐山蒼を狂気に駆り立て、無差別殺人をするまでに追い込んだのか。
いやむしろ、その言葉が真実だったからこそ、桐山蒼は傷ついたのではないのか。
自分が一番正しいと思っている人間は、問題をどう解決すべきかということより自分のプライドを頑に守ることに必死で、自己保身の砦をぶちこわす強い力を持った正論が大嫌いだ。
自分が正しくないとバレることを一番恐れているのだろう。だから桐山蒼は、有希のレビューで打ちのめされ、傷つき、発狂したのかもしれない。
もし誰かが、勇気を持ってディレクターの桐山蒼に「あなたは間違っている」と伝えて、「あなたには才能がない」からとシナリオの仕事から引きずり下ろしていれば、有希も桐山蒼の両親もソロモン出版の編集者も、みんな死なずにすんだのだろうか。
それともその真実の言葉が結局、桐山蒼を殺すのだろうか。
もし真実が人を殺すのならば、人はいったいどんな言葉を紡げばいいのだろうか。
そう思った瞬間、森村の脳裏に嫌な考えが浮かぶ。
内部で見つけるべきシナリオの矛盾を見逃したまま開発を進めたり、さまざまな不具合をもっと修正すべきと上層部に強く詰め寄って改善出来なかったという意味では、森村自身にも今回の事件に責任があるかもしれない。
桐山蒼を追いつめ大量に人を殺すという大惨事を引き起こした要因に、森村も加担しているのではないのか。
それどころか、もしかしたらずっと気付いていなかっただけで、森村自身もほかの誰かに才能がないと思われていたのかもしれない。
誰かが自分のためを思って真実を告げずに、それでいて陰で自分のことを老害だと笑っていたかもしれない。
考えれば考えるほど、不愉快な妄想が頭の中を支配していく。
誰かが自分を見ながら、こそこそと話していたのは、自分のことを笑っていたのかもしれない。
あいつも。
あのやろうも。
みんな自分のことをバカにしていたのかもしれない。
延々と地獄のような自己否定が繰り返され、気がつくと脳が麻痺してしまったのか、何も考えられなくなった。
何もかもが面倒臭くなってきた。わからないことを考えても仕方がない。
もうどうでもいいかもしれない。
なにも考えたくない。
どうでもいい。
底知れぬ黒い気持ちに沈みそうになっていたとき、玄関でチャイムが鳴った。
死んだ人間の家を訪ねてくるなんていったい誰なんだ。自分のための死神だろうか。森村はよろけながら立ち上がり、玄関に向かう。
「なんでお前……」
訪問者は佐倉美月だった。
「ここにいるんじゃないかと思って来ました」
いつの間に雨が降り出したのか、美月の体は濡れていた。
「森村さんが泣いてるところなんて、初めて見ました」
美月にそう指摘されるまで、森村は自分が泣いているということに気付いてなかった。よれよれになったワイシャツの袖で涙を拭うと、美月を睨みつけた。
「茶化しに来たんなら、とっとと帰ってくれ」
「帰りません」
美月が突然近づいたと思ったら、みぞおちに頭突きを食らわしてきた。あまりの痛さによろけて足下の段差に足を取られ壁に激突すると、目から線香花火のような火花が散っていた。
「いってぇ、なにす」
「目が覚めましたかっ!」
「は?」
「どうせ何もかも嫌になって、もう死んじゃおっかなーとか思ってたんでしょ」
森村は無意識に目をそらしていた。
「連絡してもちっとも電話に出ないし、自宅に行ってもずっといないし、もしかしたらって思って来てみたら、案の定、今にも死にそうな顔して」
つけまつげが豪快に流れ落ちるぐらいの勢いで美月が泣き始めた。
「私のお兄ちゃんみたいなことしないでください。お兄ちゃんも、恋人が死んだときにそうやってずっと恋人の部屋に引きこもって、そのまま戻ってこなかったんです」
美月の華奢な腕からは想像もできないぐらい、強い力で抱きしめられた。ずぶ濡れの美月の体は冷えきっていた。
「私のことなんか大嫌いだって知ってます。でも森村さんまでいなくなったら困るんです。私をちゃんと叱ってくれるの、もう森村さんしかいないんです」
「なんだよ、それ」
森村はうろたえていた。突然何を言い出すんだ。わけがわからない。
「会社の人はみんなチヤホヤしてくれるけど、間違っても誰も叱ってくれないし、代わりにミスしたところを直してくれるから、いつまでたっても学習できないし、本気で叱って自分で考えろって教えてくれる人は森村さんしかいませんでした。でも、いくら頑張っても、ほかの人が当たり前にできてることもできなくて、どうしていいかわからなくて」
強く抱きしめられて、森村は心臓の鼓動が激しくなった。美月の体は震えている。
「私の小さい頃からの夢は全然違うし、なりたくてゲーム開発者になったんじゃないのに、でも、どう努力していいかもわからないまま、やっぱりできなくて、それで迷惑かけてるって言われて、本当に辛いです。でも森村さんならきっと自分に本当のこと言ってくれるし、怒ってくれるし信頼できると思ったのに、そんな人に今死なれたら困るんです。私はこれからどうすればいいんですか。私のこともっと叱ってください」
森村は頭を抱えた。
結局、どういう論理なのかは皆目わからないまま、どうしてそうなったと、逆にこちらが質問したい状況ではあるが、無茶苦茶なりになんとなくではあるが気持ちが伝わらないでもない。
どうやら自分は、美月を叱るために死んだらダメらしい。そんなわけのわからない使命を勝手に設定されてしまうという状況が、なんだかじんわりと笑えてきた。
それと同時に、自分にまだ笑うという感情が残されていたという当たり前のことに、今さらながら森村は気付いていた。
少なくとも美月の言葉には、ついさっきまでくすぶっていた黒い気持ちをどこかへ消し去る効果があったようだ。
「いきなり来て、これからどうすればいいとか聞かれても知るかよ。俺は思った事をそのまま言ってただけだし、ほかのやつみたいに優しくできない性分なだけだ。それでもいいなら、いくらでも叱ってやる」
「本当ですか」
美月が嬉しそうな声をあげる。
「誰だって、自分が望んだところに進めるわけじゃない。小さな頃から夢見ていた職業や、やりたかった仕事につけるやつなんて、ほんの一握りだ。俺だって今はプログラマーをやってるが、もともとプランナー志望で応募してたのに、デスマーチで欠員が出たときに、まともにプログラムを組めるやつがほかにいなかったせいで、理系出身だからって気がついたらプログラマーにされてたんだぞ。お前ができないって文句たれてるイベントプランナーなんて、むしろ俺がやりたいぐらいだ。贅沢言いやがって」
美月が申し訳なさそうに、眉間にしわを寄せる。
「すみません」
「本当にやりたいことがやれないやつなんて、お前だけじゃねーんだよ。それでもみんな、文句をいいながらも、必死に生きてるから日本って国は回ってる。みんながもういいやって、やーめたって放り出したら、そこで全部終わりだからな。だから嫌な事もあるし、イライラすることもあるし、どうしようもなくムカつく相手と仕事しなくちゃいけないときもある。でもみんな働くんだろ。大人だからな」
涙でぐちょぐちょの美月が、子鹿のような目で見上げてくる。
斜め四十五度の上目遣いの破壊力は結構デカいので、ちょっとやめていただきたい。そう思いながらも森村は美月から目をそらすことはできなかった。
「お前はまだ子供なんだよ。欲しいおもちゃが手に入らなかったら、泣いてわめけば誰かのおもちゃが手に入ると思ってる。そんなわけあるか。そんなことが通用するのは、幼稚園か保育所までだ。お前が欲しいものは、なんなんだよ。教えてくださいとか言ってる暇があるなら、大人なんだから自分で考えろ。欲しいんだったら自分で手に入れろよ。ガキじゃねーんだ。それぐらいできるだろ」
美月が泣きながら笑っている。
バカにされて叱られて無邪気に喜ぶとか、こいつはどんだけバカなんだろう。
だいたい胸までデカいとか反則だろ。雨に濡れてるせいで、シャツの下に付けてるブラがスケスケなんだよ。勘弁してくれ。森村は自分の弱りきっていた心が、濡れた女の醸し出す魔力のようなものに絡め取られていくのを感じていた。
「わかりました。じゃあ、とりあえず今から手に入れます」
「とりあえずって、なんだよ」
ガッシリと顔を両手で挟まれ、てっきりまた頭突きをされるのかと身構えたら、食らったのはキスだった。柔らかくて冷たい感触が、脳にある視床下部のスイッチを激しく連打している気がする。
もしかしたら、うまいこと美月の策略にはめられたのかもしれないと森村は心の隅で思いながらも、体を求め合う衝動を押さえることはできなかった。




