1 塔島正義 / 荒神強(森村有希の自宅前)
やっと現場検証から解放された塔島正義は、玄関から少し離れた場所でしゃがみこむ荒神強を見つけて舌打ちをした。
「現場を途中で投げ出すとか、何様だてめえ」
荒神は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をハンカチで拭いていた。
「ずい……まぜん……ああいうの…苦手で……」
数か月前に捜査一課に配属されたばかりの荒神強は、強靭そうな名前とは裏腹に、エグい現場ではすぐに泣いて嘔吐いて、あげくに逃亡を繰り返す常習犯だった。
日本人離れした顔立ちのせいで、女に見間違えるほど無駄に美形なのも鼻につく男だ。
アニメかゲームの変なキャラクターが描かれたハンカチを持っていてもイケメンは様になるのだから、こっちはやってられない。
「家族が自殺した現場に立ち会うなんて、自分だったら死んでもお断りです」
死んだらお断りできねぇだろと心の中でツッコミながら、塔島は出て来たばかりの森村有希の部屋を見る。
怒りの声すらあげていた被害者の兄が、窓際にあったガラス瓶をじっと見つめた後、突然泣きだした姿を思い出していた。
家族や大切な人を失った者にしかわからない、なにかスイッチのようなものを押してしまったのだろう。
この手の現場ではいつもそうだ。
引き金はまるで地雷のように、日常のいたる所にちりばめられている。時間がすべてを解決するまで、そこにいたはずという記憶が見せる亡霊との戦いは延々に続くのだ。塔島の脳裏にも、その亡霊は住み着いたままだった。
嫌な事を思い出す前に気持ちを切り替えて、車に戻ろうとする塔島に向かって、荒神がぼそりと言う。
「この前、無差別殺人事件があったじゃないですか」
「日本刀で無双をしまくったやつだな」
あの事件の犯人は桐山蒼で、森村有希の遺書に書かれていた名前も桐山蒼だった。
一つでも自殺が起こると同じような死に方が連鎖する傾向があるが、これもその類いの現象なのだろうか。硫化水素が発生する危険極まりない現場が、これ以上続くのはできれば勘弁してほしい。
「あの時も思いましたけど、警察ってほんと極悪ですよね。生き残った家族や関係者に、血まみれの現場や遺体をわざわざ確認させようとするとか。残酷すぎますよ」
すでに終わった事件を思い出して泣き始めた荒神を見て、またかよと塔島はうんざりしていた。
あの事件を起こした犯人の姉・桐山茜は入院していた警察病院から姿を消し、捜索願いが出ている状態だった。
なので一番近しい肉親による現場検証は頓挫したままとなっている。そのせいで親戚や恋人といった、別の人間が残酷な現場を確認する羽目になっていた。
荒神の言うように警察が極悪であるのは確かだが、誰かが嫌な役目をしなければ事件は終わらない。誰だってやりたくてやっているわけじゃない。
だいたいその極悪警察とやらで働いているのはどこのどいつだ。そんなに嫌ならとっととやめろ。
酷い事件があるたびに大泣きをしていたら刑事なんて勤まるか。つーか、現場から逃亡しまくってるお前に文句を言う権利なんかあるかボケ。
塔島は心の中でありとあらゆる悪態をつきながら、荒神を睨みつけた。
「お前を見る度に、名は体を表すって言葉を最初に言い出した野郎を殴りたくなるな。荒神強なんていう、やたらと強そうな名前じゃなく、見た目と中身に合わせてフランソワーズでもなんでもいいから改名してくれよ、紛らわしいから」
どうせなら正義というあからさまな名前で刑事になるというベタな選択をした過去の自分も殴りたいと塔島は思った。
警察手帳を見せるたびに、相手にニヤニヤされるのはもうごめんだ。もちろんタイムマシンがないと叶わない贅沢な夢だが、夢は見るだけならタダだ。
「名は体を表すって言い出した人は、野郎ではなく女性の可能性もありますし、気に入らないから殴るという解決策はどうかと思います。それにフランソワーズは女性名なので、改名するとしても男性名のフランソワじゃないとおかしいですよ」
たんなる皮肉をいちいちスマートフォンで検索して、上から目線でウィキペディアだかなんだかで調べた情報をドヤ顔で披露する神経がまったくわからない。なんならそのスマートフォンを叩き割ってやろうか。
「うっせーな、帰るぞハゲ」
「ハゲじゃありません。父も祖父も、うちの家系にハゲは一人もいません」
「あぁ、そりゃ良かったな。署に戻る前に、その鼻水まみれの汚ねー顔をちゃんと洗えよ」
「もしかしてそれはパワハラ発言ですか。だいたい塔島さんみたいな人に、顔が汚いなんて言われる筋合いはありませんけど」
「じゃー勝手にしろっ」
荒神相手にまともな会話が成立しなくなるたびに、もしかしたら自分が話しているのは日本語じゃないのかもしれないという一抹の不安を覚えるが、たぶんおかしいのはあっちのほうだ。
塔島は、自分にそう言い聞かせながら車に乗り込む。
ミラーに映ったのは、徹夜をするたびに無精髭が見苦しくなる一方の四十代の汚いおっさんだった。
シートに体をしずめれば、腐臭の混じった加齢臭がふわりと漂う。バカな部下と一緒に署に戻るぐらいなら、本当はとっとと家に帰って風呂に入りたい。
「なに見てるんですか」
助手席に乗り込んで来た荒神を見ていると、つるんとした二十代の肌は、あれだけ泣こうが鼻水をたらそうが綺麗なものだった。
若さなのか体質なのか、一晩の徹夜ぐらいではびくともしないようで汚い髭も見当たらない。
マジで一発殴っても許されるんじゃないかと思えるほど、世の中は不公平だ。
どうせうちの家系は全員ハゲだよクソ野郎。この年になってもまだ奇跡的にフサフサなおかげで、レジェンドと呼ばれても不思議はないぐらいだからなこんちくしょう。
塔島は加齢の残酷さと、潜伏し続けているハゲのDNAを呪いながらエンジンをかける。
「素朴な疑問なんだが」
「なんでしょうか」
「お前はいつも当たり前みたいに助手席に乗るが、俺はいつまで運転を担当しなきゃいけないんだ」
「五分後に事故ってもいいならペーパードライバーの僕が運転しますよ。免許を取って初めてのドライブで、父のポルシェを大破させた経歴の持ち主でよろしければ。ちなみにこの車、ちゃんとした保険に入ってますかね」
車の運転すらまともにできないような鈍臭いやつが刑事になれるなんて、どうなってんだ。これだからゆとりは嫌なんだ。
わざと聞こえるように舌打ちをしてからアクセルを踏んだ。
「舌打ちはやめといたほうがいいですよ。人格を疑われますから。それさえなければ、塔島さんはいい上司になれると思います」
お前が言うなという言葉を飲み込みながら、塔島は心の中で舌打ちを百万回繰り返した。




