虚構の殺意
原稿を読んでいる途中だったが、僕は息を止めたまま、あわててすべての窓を開けて換気扇をしばらく回してからトイレに向かった。
便器に隠れるような場所を確認してみるが何もない。
あたりまえだ。
もしそこに何かがあれば今頃生きているわけがなかった。気にし過ぎかもしれない。
だが僕は、少し前に訪問してきた婦人警官のことを思い出していた。その女の言葉は、あの生徒が書いた原稿に出て来た婦人警官の台詞によく似ていた。
ばかばかしい。ただの偶然だ。
けれど、もしもここに彼女が書いた小説のように本物の容器が置かれていたら、発生した硫化水素で僕はそうとは知らずに自殺に見せかけて殺されていた可能性だってある。
トリックとしては呆れるほど幼稚な物だが、実際に自分がその罠にはまる可能性があったことを考えると、いい知れぬ恐怖がこみ上げてくる。
推理小説家として、さまざまな方法で人を殺すシーンを書いてきた。だがそれは小説の世界での虚構に過ぎない。実際に自分が誰かに命を狙われるとなると話は別だ。
どんなに些細な現実的ではないトリックだとしても、もし自分が気付かなければ、それで終わりなのだ。人生は一度きりなのだから。
首筋にねっとりとした嫌な汗が流れている。
気がついたときには日付も変わり、朝日が昇っていた。午後には小説教室に行かなければならない。
とりあえず仮眠をしなくてはと思いベッドに横になるが、まったく眠れない。トイレから硫化水素が溢れているのではないかと、ありもしない妄想が頭から消えない。
それどころか、今まで無駄に培ってきた想像力のせいで、次から次へと、自分を自殺に見せかけて殺すことができそうなトリックを考えてしまう。異常な思考を止めることができない。
人が眠れずに困っているというのに、いつものように隣の部屋からは非常ベル並みにうるさい目覚まし時計が鳴り始めて、さらに発狂しそうになる。
布団を被っても、耳栓をしても聞こえてくる。読まずに積み上げられていたハードカバーの本を何冊も壁に投げつけても鳴り止まない。
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。
怒りに任せて壁を殴って穴をあけたとき、三十分近く鳴り続けていたベルが止まり、ようやく静寂が訪れた。
だが、煮えたぎる腹立たしさと永遠に止まらない脳神経の暴走のせいで、さらに眠りは遠ざかった。
なにもかもが腹立たしかった。
僕はもう眠ることを諦めて、残りの原稿を読むことにした。