対象者は夕焼けを見る
「あなたはペイン・リプレイス対象者となりました」
授業がすべて終わったときに僕が受け取ったのは、たった一行のメールだった。見た事もないアドレスからだ。
どうせ迷惑メールだろうと思って、すぐにゴミ箱に捨てた……はずだった。
「あなたはペイン・リプレイス対象者となりました」
消したはずのメールとまったく同じものが、再び届いている。二回、三回と消しても結果は同じだった。
「なんだこれ、気持ち悪いな」
怖くなってスマートフォンをスリープ状態にした。けれど、メール着信バイブが止まらない。仕方なく、ボタンを長押しして本体の電源をオフにすると、やっと静かになった。
「どうかしましたか」
みんなが教室から出て行った後、一人だけ残っていた女性が声をかけてきた。毎年のようにこの教室に通っているが、初めて見る顔だった。
「いや、なんでもないです」
本当はなんでもなくはなかったが、僕は笑顔で答えた。
ほとんど化粧をしていない彼女は、パッと見は童顔なのによく見ると白髪が目立っていて、年齢不詳な雰囲気の女性だった。服装も地味なブラウスと中途半端な丈のスカートでなんだかやぼったい。
見た目にあまり気を使わない人なのだろうか。生徒をそういう対象として見ているわけではないが、僕の中ではナシだなという判定が即座にくだされる。
ただ、スタイルはやたらと良いし、顔の作り自体も整っている。きちんと化粧をして高価な服装を身につければ、モデル並みの美人に見えるかもしれない。
けれど目の下の色濃いクマや疲れきった表情で地の良さを帳消しにしている。いろんな意味でもったいない感じだ。
「あの……先生、まだ途中までしか書けてないんですが、これ読んでもらえますか」
彼女が差し出した原稿の束を受け取った。短編よりは長いが長編というには短い、中途半端な原稿量だ。
「もちろんいいですよ。次に来るときまでに読んでおきますね」
今日から新しいコースが始まったばかりだというのにもう原稿を提出するとは、なかなかやる気のある生徒のようだ。実に頼もしい。
「どこに応募するか決めてるの?」
「いえ、まだ。とりあえず、初めて長編小説に挑戦してみようかなと思って書き始めたんですけど難しいですね。今まで五十枚ぐらいの短編だったら書いたことはあったんですけど」
原稿の一枚目には「裁かれる人々」というタイトルと、筆名や略歴が書かれている。生年月日を見ると思ったより年齢は若かったが、だとすると白髪の量が異常だ。強いストレスにでも晒されているのだろうか。
とにかく、女性の年齢は見た目で判断するのは危険ということかもしれない。
「最初は誰でも難しいと感じるもんだよ。僕も一人では全然書けなかったし。小説教室に行くようになって、やっと形になったぐらいだから。焦らなくても大丈夫」
僕は、この小説教室の卒業生だった。
世間で言うところのベストセラーと呼ばれる本を出すことが出来たのは、この教室のおかげだった。だから、この小説教室の講師だけは頼まれると断れない。自分を育ててくれた恩があるからだ。
自分以外に有名な作家はあまり出ていないようだが、それでも実際にベストセラー作家を排出した教室ということで、生徒はいつも満杯だった。
講座で説明することはいつも同じような内容だが、毎シーズンごとにレスポンスが違う。教室にやってくる生徒全員にそれぞれ書きたい世界があって、一つとして同じ物はないからだ。
自分の中にしかない物語をきちんと見える形にすることを経験し、どんどん成長していく生徒たちを見守るのが僕は純粋に楽しかった。自分も同じ道を歩んで書けるようになる喜びを知っていたからだ。
もちろん、最初は小説にすらなっていないものも多い。けれど必ず原石はどこかに紛れ込んでいる。それを見つけて、光り輝く宝石に磨き上げる手伝いをするのが僕の役目だ。
「先生みたいなベストセラー作家さんでも最初は書けなかったのかって思うと、ちょっと勇気がわきました。私も頑張ります。では、また来週もよろしくお願いします」
久しぶりに聞いたベストセラー作家という言葉の響きに僕は酔いしれながら、あまりニヤけすぎない程度に笑顔で返事をする。
「頑張ってね。じゃあ、また来週」
深くお辞儀をして教室を出て行った彼女を見送ると、僕は原稿用紙を鞄に入れてから後に続く。廊下を曲がると前を歩いていたはずの彼女の姿はどこにもなかった。
どこか違う教室にでも入ったのだろうか。少しだけ不思議に思いながら僕は階段を下りた。
エントランスを抜けてビルを出た途端に、汗が一気に吹き出てきた。空を見上げると茜色に染まっている。
照りつける日差しがなくなった分、少しは気温が下がっているはずだが、昼間に溜め込んだ熱量のせいで外はまだまだ暑いようだ。
僕は体にまとわりつく不愉快な熱気から逃れるようにクーラーが効いているタクシーへ足早に乗り込むと、先ほどもらった原稿を読み始めた。