3 森村信人(森村有希の自宅)
近くに公園があるのか、深夜だというのに都会の蝉が狂ったように鳴いている。
森村信人は、むせ返るような腐臭が立ちこめる部屋に足を踏み入れると、澱のような疲労感が降りかかってくるのを感じていた。
塔島と名乗った背の高い無骨な刑事が、遺体にかかったシートをめくる。
「妹の有希さんで間違いないですか」
「……はい」
長くは直視することが出来ず目線を外すと、バスルームの隅に便器で隠れて死角になるような場所に役目を終えたらしきトイレ洗剤と入浴剤の容器が置かれているのが見えた。
部屋の窓は開け放たれているが、死体から発生しつづける不愉快きわまりない腐臭は入れ替わる様子もなく淀んだままだった。
相変わらず胃も痛み、気持ちが悪く、森村は今にも吐きそうになっていた。
「真夏とはいえ、発見が早かったのは不幸中の幸いかもしれません。仏さんによっては、最悪DNA鑑定でなければ本人確認すらできない場合もありますので」
刑事は、さらりと酷いことを言う。
幸いと言うが、生前の表情を彷彿とさせる緑色がかった死に顔と、誰かもわからないぐらい腐った顔を思い出すのはどちらが幸せなのだろうか。間違いなくどちらも不幸だ。
「部屋内部に争った形跡はなく、遺体に目立った損傷もありませんでした。酸性トイレ洗剤とイオウ系入浴剤を混ぜた時に発生する硫化水素で自殺を図ったものと見ています」
鑑識係員の話はいっこうに頭に入ってこない。
会社の同僚が無差別殺人事件を起こした後は、妹が自殺か。自分の人生はよっぽど呪われているらしい。もしこのままここで気が狂ってしまえば、どれだけ楽になれるだろうか。
「ノートPCの中に、遺書らしき記述も見つかっています」
塔島が手に取ったノートPCの画面を見せながら、淡々と読み上げる。
「桐山蒼さんを批判する記事を書いて、無差別殺人事件を犯すほどまで追い込んだのは私です。あんな記事を書かなければ、私の同僚も桐山蒼さんのご両親も亡くなることはありませんでした。死んでお詫びいたします」
妹が書いた桐山蒼を批判する記事というのは、主に最終世界シリーズのシナリオの稚拙さを辛辣に批判する内容になっていた。森村自身もこのシリーズにプログラマーとして開発に携わっている立場上読んだことがある。
確かにソロモン出版が運営していたレビュー王国というサイトでは、ほかのゲームサイトでは書かないような、そこまでこき下ろさなくてもという、最初から叩くために書いているのではないかというタイプの過激なレビューが多い。
最近巷のSNSやブログなどでよく見られる誰かが叩き始めると徹底的にみんなで叩くという風潮に後押しされたこともあり、さらに叩き方がエスカレートしている節があった。
批判された側の心が折れる音が聞こえてきそうなほど、とことん駄作だと叩きのめすような酷い記事も数多く掲載されていた。
だが、ゲームを作っている側のいわゆる中の人が言うのもなんだが、妹の有希が書いた記事に関しては、ネットでありがちな叩くために書かれた下品なものではなく、真摯に分析された愛情のあるレビューだったはずだ。死んで責任を取るという意味がわからない。
妹が指摘していた問題点は正しいものだったし、実際に元々シナリオを担当していた古株が会社を辞めて、ディレクターの桐山蒼がシナリオを担当するようになってから、どんどんシリーズの色が変わっていったのも事実だった。
社内でもそれに対する反発もあったし、最新作が何度も延期になったのも、ディレクターの桐山蒼がシナリオに関してちゃぶ台返しをして、完成していた部分をまるまるやり直しになったことも影響していたぐらいだ。
もともと最終世界シリーズが大好きだった妹は、その面白さを伝えるためにゲームサイトの編集者になったと言っていた。
だからこそ、好きなゲームが落ちぶれていくのを見ていられなかったのかもしれない。
最終世界シリーズを愛するファンの一人として、編集者として、嘘偽りのない記事を書き、その思いを言葉にしてウェブの世界に放ったのだろう。
だがディレクターの桐山蒼には届かなかったようだ。むしろ、批判をしているやつはすべて敵に見えてしまったのかもしれない。だから皆殺しをして、すべてがなかったことにしようとしたのだろうか。
だからと言って、妹が責任を取る必要なんてどこにあるんだ。まったくわからない。
「これまでに妹の有希さんが自殺をほのめかすようなことは、ありましたか?」
「いえ……つい最近も盲腸で入院したというので見舞いに行きましたが、そんなそぶりは特に……」
「そうですか」
死を決意したであろう妹が、トイレ洗剤と入浴剤を混ぜる姿が勝手に脳裏で作り出される。
だがその表情までは想像できない。どんな気持ちだったかなんて想像したくない。
「店員は不審に思わなかったんですかね」
怒りをぶつける相手を間違っているのはわかっていたが、森村は聞かずにはいられなかった。
塔島は困ったような顔をして、さりげなく視線を外した。
「混ぜたら危険なものを、自殺をするほど追い込まれた人間が買っていたら、おかしいって気付くだろう普通は!」
やり場のない怒りを制御できずに当たり散らす森村の声を聞いて、もう一人の小柄でひ弱そうな刑事は、今にも泣き出しそうな顔をしてそのまま部屋を出て行った。逃げ出したいのはこっちのほうだ。
玄関でひっそりと様子をうかがっていた大家らしき男が、疎ましそうに舌打ちをしたような気がした。
ただの被害妄想かもしれないが、賃貸物件で自殺をされたら迷惑なのは確かだし、ここにいる誰もが妹の死のせいで迷惑を被り、疲弊しているのは間違いなかった。
塔島は、哀れむような目で森村を見つめながら言った。
「遺留品の中にレシート類は見つからなかったので証明するのは難しいのですが、プライベートブランドの特殊な商品をそれぞれ別のドラッグストアと大型スーパーで購入した可能性が高いです。バラバラに購入した場合は普通の日用品と判断されるでしょうし、店員が自殺を想像して販売拒否するのは現実的に無理だと思われます。お気持ちはお察しいたしますが……」
わかっている。そんなことはわかっていた。
今さら何を言ったところで妹は戻ってこないし、ただの八つ当たりでしかないのも森村にはわかっていた。
そもそも家族のくせに、事前にまったく相談すらしてもらえなかった人間が怒る権利なんて、これっぽっちもないのはわかっている。家族なんて絆は幻想だ。
「ネットで誹謗中傷されていたことや、住所なども公開されていた経緯もあって、最初は他殺の可能性も視野に入れて調べていましたが、とりあえず遺書らしき物も見つかり、玄関や窓の鍵が施錠されていたことも判明したので……現時点で事件性はかなり低いと見ています」
塔島の話をぼんやりと聞いていた森村は、ふと窓際に置かれたガラス瓶に目をやった。
白い花が生けられたガラス瓶には、プリンメーカーのロゴが書かれている。
それを見た瞬間、風になびく布が頬に触れるぐらいのほんのかすかな記憶が、すっとこみ上げてきた。
それは妹の有希が大学進学で故郷を離れるときに渡したプリンの空き瓶だった。
渡した本人すら忘れていたような、普通ならゴミとして捨てるようなものをずっと大事に使っていたなんて、いかにもあいつらしい。
昔からクソがつくほど真面目で律儀な奴だった。だからこそ責任を取って自殺するなんてことをしたのだろうか。
バカだ。あいつはバカだ。
二人ともまだ若かったあの日、発車を待つディーゼル車のエンジン音がうるさかった駅のホームで何を話したのだろう。青臭い夢でも語ったのだろうか。
しばらく考えてみたが、まったく思い出せなかった。自分は薄情な人間なのかもしれない。
でも涙が止まらないのはなぜなんだろう。自分でもよくわからない。