1 森村有希(自宅)
森村有希が玄関のドアを開けると、婦人警官らしき人物が一人立っていた。眼鏡をかけてマスクもしているので表情はよくわからない。
「恐れ入ります。森村有希さんでしょうか」
「えぇ、そうですが。まだなにかご質問でも」
桐山蒼の無差別殺人事件の件で、先日も二人の刑事が事情聴取に来ていたが、聞き漏らしでもあったのだろうか。
急性虫垂炎の手術をしてやっと退院したところだというのに、母の見舞いや亡くなった後輩のお焼香で立て続けに拒絶をされたという精神的に疲れることばかり続いていて、ずっと休む暇もなく、心も体も疲れきっていた。
「玄関先では申し上げにくい内容のお話ですので、中にあがらせていただいてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
丸テーブルの前に座った婦人警官は白い手袋をしたまま、薄いオレンジ色のエコバッグから一枚の書類を取り出した。
婦人警官が、なぜ買い物に行くようなエコバッグを使っているのだろうと有希は不思議に思った。しかも中がアルミなどでコーティングされている保冷用のバッグをわざわざ使うなんて、なんだか変わっている。
バッグの隅には小さな猫のキャラクターが描かれている。仕事中も使いたくなるほど、よっぽどそのキャラクターが好きなのだろうか。
「あなたに対する殺人予告のような書き込みがあったと、署の方に通報がありました」
「殺人予告……ですか」
見せられた書類には、匿名掲示板のようなところに書き込まれたらしき文面が書かれていた。
「桐山蒼が本当に殺したかったのは、森村有希だ」
「桐山を追い込んだのは森村有希だろ。最終世界シリーズを殺した戦犯を生かしておくな」
「一番悪いのは森村有希に決まってる。あいつさえ存在しなければ、あんな無神経な記事さえ書かなければ、桐山蒼は追いつめられずにすんだ。たくさんの人を殺すこともなかったし、両親を殺すこともなかったんだろ」
「森村有希のせいで、別の誰かがたくさん死んだのに、どうしてあいつは生きているんだ。あいつを処分したほうがゲーム業界のためになるだろ。とっとと社会的に死ね、その後すぐさまリアルに死ね」
有希に対する悪意ある書き込みがいくつも抜き出されているようだ。中には住んでいる場所まで特定されている書き込みすらあった。
手術で取り出したはずの虫垂が疼いているような気がした。もちろんただの錯覚だ。
「あの事件があった日、あなたは桐山蒼さんにインタビューをするはずだったそうですね。けれど、当日あなたは急性虫垂炎で入院することになり、同僚にピンチヒッターを頼んだとのことですが」
「えぇ、私が入院しなければ、彩花が死ぬことはなかったと思います」
それは間違いない事実だった。休暇中だった陰山彩花に無理を言って代わりを頼んだせいで、彼女は桐山蒼に斬り殺されたのだ。
「今回お邪魔いたしましたのは住所等もネットで公開されてしまっている状態ですので、まずは安否確認をしたいというのもありますが、直接ご本人に対して脅迫メールなどが届いていないか調査させていただきたかったからなのです。そういったものに見覚えはありますか」
「いえ、特にはなかったと思います」
「そうですか。一応、パソコンなどがございましたら、中を確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「わかりました」
有希がノートPCを立ち上げて、婦人警官に手渡した。
「確かに、今のところ問題はないようですね。念のため現状を記録するために、スクリーンショットを撮らさせていただいてもよろしいですか」
「どうぞ」
婦人警官がバッグからUSBメモリを取り出し、いくつかの画像を保存する。テーブルに出していた書類とともにバッグに片付けた。
「ご協力ありがとうございました。上の方に報告させていただきます。のちほど警備関連の者が伺うかもしれませんので、できれば本日中は今しばらくご在宅いただけますと助かります。お忙しいところお時間をいただきありがとうございました。では失礼いたします」
婦人警官が席を立ち玄関へ向かうが、ふと思い立ったように足を止めた。
「あ、不躾なお願いで大変申し訳ないのですが、おトイレをお借りしてもよろしいでしょうか」
「え、あぁ、どうぞ」
「すみません。ではちょっと失礼して」
赤の他人にトイレを使われるということに、生理的にちょっと気まずい思いをしつつ、有希は部屋のほうに戻って待つ事にした。
ふと窓際に置かれたガラス瓶を見た。白いアネモネの花を生けてある。
夕焼けの柔らかな光が窓辺から差し込み、ガラス瓶と水に反射してキラキラと輝いている。
なんだかとても綺麗だと有希は思った。入院中は水を換えられず、久しぶりに帰ったときは花が枯れてしまっていたので、今度は気をつけようと有希は心に誓う。
新しく買った白いアネモネの花言葉は両極端だった。期待や真実を意味する花言葉もあれば、薄れゆく希望と解釈するものもある。
だがそれがいいのかもしれない。期待と不安が入り交じったような気持ちになったときは、ついこの花を買ってしまう。
誰でも何かに期待し、それでいて失望することを恐れている。でもそれでいいのだと、迷うからこそ人なのだと、許してもらえるような気がするからだ。
「どうもありがとうございました」
背後から、婦人警官の声が聞こえる。
「いえ」
玄関まで見送りに行く。
「では、くれぐれも戸締まりをお忘れなく。失礼いたします。お気をつけて」
なんとなく、婦人警官の目がうっすらと嫌な感じの笑いを浮かべているような気がした。気のせいかもしれない。そう思いながら玄関の鍵を閉め、部屋に戻る。
しばらくすると、なんだか目や頭が痛くなってきたので、ベッドに横になった。
疲れているのだ。
このところ立て続けにいろんなことがありすぎた。
少し眠ろう。有希は静かに目を閉じた。