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空と死に近い場所

 ビルの屋上で柵を乗り越えて、あと一歩で空中へ踏み出せる場所に女は立っていた。


 喪服のスカートが突風にあおられ、体ごと持って行かれそうになる。とっさに女は手すりを掴んでいた。

 体は正直だ。そのまま手を離せば目的を達成できていたはずなのに、心とは裏腹に、体は生きようとしていることに気付いて女は苦笑した。


 一度目を閉じてみる。底知れぬ恐怖が足下から襲ってきた。


「死ぬのか?」


 背後から声が聞こえた。胸に刺さるような驚きに、思わず振り返る。ドアの前に座っていたのは、とても小さな白い子猫だった。

 声の主を捜して左右を見渡すが誰もいない。


 もう一度子猫がいた場所を見ると、一人の青年が立っていた。白いシャツに白いズボン。真っ白な髪に蒼い瞳をした美しい男だった。


 彼の周りだけ背景がゆらめいているような錯覚にとらわれる。吸い込まれそうな瞳と視線が交わった瞬間、ふいに桜が舞い散る映像が頭をよぎる。

 なぜだかわからない。見覚えがあるような無いような、不思議な感覚に心がざわめく。


「あんた、そこから飛び降りるのか?」


 女は必死にその声を無視しようとした。せっかく決意をしたのに、口を開くと思わず言ってしまいそうだったからだ。

 ほんとは死にたくない……と。


「知ってるか? 痛みが限界を超えると、人間って死ぬんだよ」

 ハスキーな声は、まるで頭の中に直接語りかけてくるように聞こえてくる。


「でもな、自分で死ぬのだけは、絶対にやめといたほうがいいぞ。後でろくでもないことになるだけだからな」

「……うるさい」


 ずっと悩み抜いてようやく決心したのだ。今さらやめるわけにはいかない。地面の縁を確かめるように後ずさった。


「そうか。一応、忠告はしたからな。じゃあ、本当に死ぬ気なら、あんたの望みを叶えてやろう」


 なんだこいつは。人をバカにしているのか?

 女が睨み返すと、彼は笑顔でこちらを見ていた。


「自分で死のうなんて考える奴は、山ほど苦痛を抱え込んでいる。だからあんたみたいな奴はペイン・リプレイスを生業にしている俺にとって、一番のお得意様なんだ」


 何を言っているのか、さっぱりわからない。


 どうして大事な場面で、こんな変な奴に絡まれないといけないのか。なんでいつもこんな目にあうのか。いつもそうだ。いつだって自分ばっかり。もううんざりだ。とっとと死んでやる。

 女は飛び立とうとした。


「ちょっと、待った。話は最後まで聞けよ」


 ドア前にいたはずの彼は背後に立ち、女の腕を掴んでいた。

 足音もさせず、いつの間に近づいたのだろう。わけがわからない。


「あんたにとって悪くない話だ。話を聞くだけならすぐだから」


 彼はまた笑った。その瞬間、再び頭の中で桜が舞い散った。


 そう感じた直後に、女は屋上の中央にしゃがみ込んでいた。自分が立っていたはずの場所には彼がいた。いや正確には浮いていた。柵に足をかけるようにして空中にふわりと漂っていた。


「あんたの痛みを分けてくれ。むしろ、お願いだから下さいって言うべきかもな。俺はあんたの痛みをコピーして、それを増幅させてから植え付ける。それが俺の仕事ってわけだ。余分に出来た痛みを食らって俺は生きながらえているわけだから、仕事っていうよりむしろ生きる為に必要な生理現象に近いんだけどね」


 首を傾げて困ったような顔をしている女を見て、彼はため息をついた。


「だいたい最初はみんなそういうリアクションなんだよ。つくづく言葉ってのはなかなか正しく伝わらない不便なシステムだなと思うよ。俺の説明が下手くそなだけって話もあるけどさ。おかげでここ何日か説得に失敗してるから、もうそろそろ意識がヤバいしフラフラなんだけど」


 また彼が笑った。今度は桜ではなく、部屋でうなだれている自分の姿が頭に浮かんだ。


 よりによって大嫌いだった思い出したくもない瞬間だ。反射的に体が固くなる。唐突に背中や首にセメントを背負っているかのような重みがたたみ掛けるように押し寄せてくる。暑くもないのに体がのぼせて、ねっとりとした嫌な感じの汗が流れてくる。


 頭の中には、責め立て追いつめる言葉が次々と再生されていく。記憶の中で尖ったままに鮮明に保存されていた言葉は、再び何度もなんども心を突き刺してくる。


「要は、あんたが自殺したくなるくらい痛い思いをさせた奴に、復讐ができるって素敵な能力なわけですよ。少しは理解してもらえましたかね」


 復讐? 本当にそんなことができるのだろうか。

 だが、今実際にありえないことが立て続けに起こっている。

 彼ならやりかねない。そんな気がしてきた。


「理解……しました」

「じゃ、どうする? ペイン・リプレイス、やる? やらない? どっちでもあんたの自由だ」


 女は少し考えた。もし彼の言うことが嘘だったとしても、最後の最後に少しぐらい騙されてみるのも面白いかもしれない。

 どうせ死ぬのだ。どうだっていい。これからずっと一人で生き続けることより辛いことなんて何もないんだから。


「やってみよう……かな」


 そう言った瞬間、彼がニヤリと笑い、舌なめずりをするのが見えた。なぜだかわからないが危険を察知し、反射的に手で口をふさごうとしたが遅かった。


「よっし、契約成立。じゃあ、あんたの記憶を見せてもらおうか」

 音もなく近づいた彼は、女の両手を掴んだ。自由を奪われたと思った瞬間、彼の唇が目の前にあった。


「いただきます」

 息が出来なくなると同時に、女は意識を失い、暗闇に落ちた。





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