午後 四時三十分
「……い、おーいってば。ねえ、起きなって」
「ん……?」
目を開けると、すぐそばにユリカが身をかがめて、僕を見ていた。
どうしてこんなところで寝ていたんだ、僕は。眠たかったわけでもないはずなのに。
起き上がると、頭に鈍い痛みがあることに気づいた。とくに、左の頬に激しい痛みがあり、腫れているみたいだ。寝る直前のことは、まったく思い出せなかった。
「あなたって結構呑気なんだね。なかなか出てこないから来てみたら、床で寝転んでるんだから」
「いや、自分でも何で寝てたのか分からないんだ」
「別にどうだっていいんじゃない? それより、あたしも暇じゃないからさ、あの時計で六時になるまでに事件の真相が分からなかったら、打ち切りね。あなたには社会的に死んでもらうことにするから」
「なっ!? あと一時間半しかないじゃないか」
「残念だけど、あたしはそんなに気が長くないの」
「急にルール変更なんてずるいだろ」
「ずるいも何も、あなたが勝手に挑戦してきただけだからね。決定権は、あたしにあるってこと、忘れないでよね」
「何なんだよ。――うわっ」
立ち上がろうとしたら、視界がふらつき、倒れそうになった。近くにいたユリカの肩をつかもうと手を伸ばしたが、さっと避けられ、僕はそのまま地面に鼻を打った。
「痛……。血でも足りてないのかな」
今までなったことはないが、貧血で倒れてしまったのかもしれない。
だとしたら、今度レバーを食べればいいことだ。それにしても、鼻血が出なくてよかった。血を無駄にせず済んだ。
立ち上がろうと床に手をつくと、手のひらに何かが付着した。
白い粉だ。
「ペロ……これは、青酸カリ!!」
「何言ってるの。そんなわけないでしょ」
違ってよかった。まさか本当に青酸カリじゃないのかと内心びびっていた。だけど、この味、どっかで食べたような気がする。思い違いだろうか。
ほのかに甘いような感じもするけど、まさかヤバい薬とかではないよな……?
「ま、一応証拠として、拾っておくか」
準備室だからか、小さな袋や使ってない小瓶はたくさんあった。小さな袋に入れて、ポケットにしまっておく。
「見つけた証拠は、右側の『証拠リスト』をタッチすれば、いつでも見られるから」
「そんなものあるかよ! ゲーム画面じゃないんだぞ!」
「用意しておかなくちゃダメじゃない」
「そんなもん、お前の魔法で勝手にやってろ!」
「あたしは魔法の安売りなんてしないから」
「僕を犯人に仕立て上げてる時点で、もう安売りしてるだろ」
「安売りじゃなくて、完全なる正義だよ。変態をこの世から排除してるんだから」
「むちゃくちゃだ。くそ、何で僕がこんな目に……」
ふと、先生の机の下に、何か落ちているのを発見した。柔道着や本の下に、プレゼント箱のようなものがあった。
「何だろ、これ」
中から、こちこち、と断続的な音が聞こえる。
まさか、爆弾!?
箱を元の場所にそっと戻しておく。爆弾ではないだろう、たぶん、きっと、おそらく。
「……とりあえず、三人から事情は訊けた。メモも取った。それを確かめに行こう」
階段を下り、僕らは購買へと向かった。彩葉のアリバイが立証されれば、容疑者から外れることになる。
のだが……。
「証人がいねえぇぇぇぇっ!」
僕の叫び声が静かな購買に虚しく響く。そんなこと、来るまでもなく分かっていたが、本当にいないとは。さて、どうしたものか。
「早速壁にぶち当たったね」
「……いや、まだ手がないわけじゃない」
本人に自覚はないだろうが、彩葉は目立つ生徒だ。だから、誰かが覚えてる可能性が高い。それにかけるしかなかった。
購買に生徒はいないけれど、一人だけ、証人になりうる人物がいた。購買のおばちゃんだ。僕は声をかけた。
「おばちゃん、牛乳一本」
「あいよ」
おばちゃんは、冷蔵庫から瓶を一本取り出す。
「おばちゃん、今日はずっとここにいた?」
「そりゃそうよ」
僕は財布から小銭を取り出し、おばちゃんに手渡す。お釣りを受け取り、財布にしまいながら言った。
「じゃあさ、背のちっこい不良の女の子とか見てない? 関西弁使ってる女の子」
「ああ、あの子ねえ。毎度来てるから、よう憶えてるよ。声もでかいしねえ」
この学校に、関西弁を使う不良少女は彩葉しかいない。声もでかいし、間違いないだろう。
「その子、今日も来てた? あ、ここで飲んでくよ」
「六時間目が終わってから、ずーっとそこでしゃべってたよ」
蓋を開けてもらい、瓶を受け取る。口に含むと、ほのかな甘さが口に広がった。冷たくておいしい。牛乳とかぎらず、飲み物は瓶のほうがおいしかった。
「席を外したりとかは?」
「二度くらい、だったかねえ。二度目の時は、もうカバンを持っていったから、戻ってこなかったよ」
「時間とか分かる? 一度目の」
おばちゃんは少し唸ってから、ああ、と声をもらした。
「三時四十分ごろだったかしら。あの子が席を立った時、電話が来てねえ。話してる時、時計で時間を確認したから」
彩葉は、三時四十分ごろに放尿――!
「ありがとう、おばちゃん。牛乳、おいしかった。ごちそうさま」
「あいよ。また来てね」
瓶を専用ゴミ箱に置き、ユリカのもとに戻る。専用ゴミ箱って響きは少しエロい。肉便器と少し似た響きを感じるのは、僕だけだろうか。
「どうだった?」
「彩葉は一度放尿しに行ってるから、その間に先生に毒物クッキーを食べさせることは可能だな」
「放尿って、何であなたはそう下品なの?」
放尿のどこが下品なのか理解できない。アイドルだって放尿するのだから、別に構わないはずだ。
だいたい、「アイドルはトイレに行きません」なんてことを言う人間は、正直言ってファンかどうか怪しいレベルである。
真のファンならば、アイドルの聖水は喜んで飲みたいものだ。むしろサインよりもほしい。握手してもらうくらいなら、聖水をかけてもらうほうがよかった。
だから、握手会じゃなく、放尿会を全国で開くべきだ。そしたら、アイドルのCDももっと売れるだろう。
「彩葉は化学準備室で説教も受けてる。毒物の入手もできるだろ。クッキーが作れるかどうかは怪しいけど」
「収穫があったね。証拠は――」
「おい、同じボケは二度使うなよ。そんな鉄板ネタじゃないからな」
ユリカは唇をとがらせた。その顔はかわいいから、ずっとそのままでいていほしい。当然ながら、恵ちゃんのほうがかわいいけれど。
僕たちはそのまま格技室に向かうことにした。柔道部について調べるためだ。格技室は、体育館横にある廊下からしか入れない。廊下を進んで、扉の前についた。
ノブをひねったが、鍵がかかっていて、入ることはできなかった。
「やっぱり、鍵がかかってるか。鍵をもらってきたほうがいいか」
「時間の無駄よ」
ユリカに押しのけられ、僕はドアの前から離れる。ユリカがノブをひねると、ドアが開いた。
「それも、魔法なのか」
「便利でしょ?」
魔法の安売りはしないんじゃなかったのか、と問い詰めたいところだったが、今は時間が惜しい。開錠してくれたことに感謝し、格技室に入った。
「当然っちゃ当然だけど、アリバイを立証できるものは何もないな」
「汗くさっ。男子って、こんなところでいつも柔道してるのね」
ユリカは制服の袖で鼻を覆った。ここで汗を流してきた人に失礼だろう。寝技とかエロいから女子にかけてみたい、と思っている僕も、失礼かもしれないけど。
畳の上を歩き、汗くらい落ちてないかと調べてみる。だが、それらしい痕跡は見当たらない。だからといって、部活に出てない、とは断定できなかった。
格技室を出て、体育館の全面を使って練習していた、バスケ部の連中に話を訊くことにした。
「今日、柔道部があそこに入ってくの、誰か見た?」
みんなは顔を見合わせ、口々に「誰か見たか?」と話しはじめた。しばらくしてから、誰も見てない、と答えが返ってくる。証人なし、か。
体育館を出て、階段を上っていく。次は将棋部へと向かうことにした。
「証拠はなかったね」
「まあ、そういうこともあるだろ。バスケ部が集まったのも、すぐじゃなかったし、練習に集中してたら、弓浦が通ったことにも気づかない可能性だってあるんだし」
二年四組の前にたどり着き、ドアを開けて中に入った。
「あわわっ、ちょ、ちょっと……」
ストップウォッチを持った男が慌てて立ち上がった。
「大丈夫だ、問題ない」
男を座らせ、中に進む。
「問題あるでしょ! 何てもん見せるのよ!」
ユリカに後頭部をぶん殴られた。男の裸を見たくらいで興奮するなんて、まだまだお子さまである。裸なんて珍しいものでもないだろうに。
「訊きたいことがあるんだ。僕が三時四十分ごろに下の教室にいたこと、憶えてるだろ?」
ここに来た理由は一つ。僕のアリバイを証明することである。
三時四十分、何をしていたか、と言われれば答えにくいが、教室にいた、ということだけでも証明すれば、容疑者からは外れることができるのだ。それを証明してくれるとすれば、将棋部の連中しかいなかった。
だが――。
「ちょっと、分からないなあ……」
男は将棋を指している二人にも訊いた。しかしながら、二人も首を横に振る。あんな出来事、忘れることなんてできるはずもないのに。どうしてだ。
「脱衣将棋をやってただろ。ほら、僕が床を――」
床を見て、僕は驚いた。
「穴が、消えてる……ッ!?」
僕は振り返り、ユリカを見た。ユリカは何食わぬ顔で立っている。教室の隅に連れて行き、問い詰めた。
「お前がやったのか」
「当然でしょ。破壊したところは修復したし、あなたのアリバイを証明できる人の記憶も、一部改ざんしておいたよ」
「何てことしやがる!」
人の記憶まで変えるとは、鬼畜にもほどがある!
「あなたを社会的に殺すためには、仕方なかったの」
「僕を社会的に殺すために、人の記憶を変えるのはどうでもいいことなのか。そうじゃないだろ。お前がやっていることのほうが、罪ははるかに大きい」
「うるさいわね、変態は黙りなさいよ」
「だったら、この世の人間は一人残らず黙り込まなければならなくなるぞ」
「何言ってんだか」
ユリカは鼻で笑い、イスに腰掛けた。僕もその隣に腰を下ろす。
僕のアリバイを証明してくれる人は誰もいない。万事休す。溜息をつき、窓の外を眺めた。夕陽は徐々に沈みつつある。こんなことをしている間にも、刻一刻と時間は過ぎていくのだ。
天使と悪魔に、少し相談しよう。いったい、僕はどうすればいいのか。
――私が藻川央太郎教諭に告白を迫り、断られた腹いせに毒入りのクッキーで殺害しようとしたホモで変態でどうしようもないゴミ虫です。お詫びに皆さんに踏んでもらって死にますのでお許しくださいとお詫びするといいでしょう。
――ノリノリだな! 何かいいことでもあったのか。
――いえ、何もありませんよ。
天使に相談したのは間違いだった。……というより、二人に相談するだけ時間の無駄だったような気がする。悪魔がこのあと何を言うかも、分かるはずなのに、僕はどうして相談なんてしようと思ったのだろう。
――オレはよ……同じ女とは二度寝ない主義なんだ。まあ、そんなオレだから、きっと悪魔になっちまったんだろうな。だから……お前とはこれっきりだ。悪ぃな。
「正直、僕もこれっきりしにしたいくらいだよ! ってか、悪魔になった理由がすげえどうでもよかったな! うらやましいけど!」
やはり相談なんてするべきじゃなかった。
「くそっ。結局、僕一人で解決しないとダメみたいだな」
――一つ、いいことを教えてさしあげましょう。
ふいに天使が言った。珍しいことがあるものである。明日にでも地球は滅びるかもしれない。
――ドブネズミのような耳で聞いて、腐ったジャムみたいな脳みそでよく理解しなさい。
――話の腰を折るようで悪いが、僕にとってドブネズミは悪口じゃなく、むしろ褒め言葉になってるからな。あいつ、美しい存在だからな。
――あなたは写真に写したくないくらい気持ち悪いですけどね。
――ひどいっ! 僕も想い出に入れといてくれよ!
――ついでに、遺影もなしにしておきましょう。
――それじゃあ誰の葬式か分からなくなっちゃうだろ!
天使は咳払いする。
――話を元に戻します。……真実とは、常に美しいとはかぎりません。みにくい場合だってあるでしょう。かぎりなく透明に近い場合もあれば、腐っている可能性だってあるのです。それを、忘れずに。
――よく分からないけれど、まともなこと言うなんて、少し気持ち悪いな。
ちっ、と舌打ちが聞こえてきた。天使でも舌打ちするのか。
――ではごきげんよう。あなたが地獄に堕ちてくれることを、私は切に願っております。
その一言がなければ、もっといいやつなのに。
「一人で何ニヤニヤしてるの? あなた、気持ち悪いね」
「ほっとけ。……じゃ、次は美化委員のとこ行ってみるか」
立ち上がると、背後から呼び止められた。僕は立ち止まり、振り返る。
「どうした?」
「そういやさ、君の言った時間にだけど、すごくいいにおいがしたんだ。香ばしい感じ、って言えばいいのかな」
レンジでクッキーを温めた時間だろう。事件が起きたのは、四十分で間違いないらしい。
「そういや、将棋部はいつもこの教室を使ってるのか?」
「ううん。ぼくらは、四階の三年の教室を使ってる。けど、今日は怖い先輩がいて、使えそうもなかったんだ」
「怖い先輩? ああ、あの三年生の」
生徒指導室から出てきたあの人のことだろう。確かに、あんな人がいる教室で、脱衣将棋なんてできそうもない。
「変な先輩にからまれなくてよかったな」
男は相好を崩し、頷いた。笑うとえくぼが出て、女の子みたいな無邪気さがあった。童顔なのも、そう思わせるのだろう。
だからといって、僕は同性に恋することはない。僕は女の子が大好きであって、股間に一物をぶらさげている男の娘には興味がないのである。
「じゃ、行くよ。ありがとな。あと……風邪には気をつけろよ」
「うん、気をつける」
全裸の三人をその場に残し、教室を出る。脱衣将棋というが、もうかけるものがなくなったであろう彼らは、何のために戦っているのだろうか。
「あの人たちは変態なの?」
「いや……漢だ」
「よく分かんない。やっぱり変態は気持ち悪い」
ユリカは顔をしかめてるが、僕からすれば、女の考えてることのほうが、さっぱり分からない。
四階に向かい、階段すぐの図書室を通り過ぎ、三年四組の前に立つ。
「美化委員はここで行われてたんだよな」
三年はすでに卒業してるから、がらんとしている。誰一人として歩いていなかった。美化委員以外には、恵ちゃんの目撃情報はないだろう。頼みの美化委員の生徒すら、学校に残ってなさそうだった。
「図書室には寄ってかなくていいの?」
「まあ、恵ちゃんがするはずもないし、大丈夫だろ」
「あなたって、その恵って子には甘いのね」
「甘いって言うか、好きだからな。あんな慈愛に満ちた子が、人を殺そうとするはずないだろ」
「ふうん、やっぱり甘いんだね。ま、別にいいけど」
言い方にトゲを感じた。何でどいつもこいつも、恵ちゃんを疑っているのか、僕には分からない。嫉妬か。嫉妬しているから、彼女を犯人に仕立て上げようとしてるのだ。
彼女が疑われるくらいなら、僕が犯人のままでもいいかもしれない。そのほうが、幸せだ。
まあ、恵ちゃんが犯人だなんて、そんなの一パーセントもありえないけれど。
視線の先にある非常階段が気になり、廊下を進んだ。ドアを開け、眩しい夕陽に目を細める。眼下には、校庭が広がっていて、その先には、校舎から少し離れた場所にある教職員専用駐車場が見えた。
「きれいな夕陽だな」
「そんな悠長なこと言ってる余裕があるの?」
「分かってるよ。行けばいいんだろ」
僕らは二階に降り、職員室に向かった。中に入り、女教師の机の前に立つ。
「どうしたのかしら」
「少し訊きたいことがありまして。今日の委員会のことなんですけど」
「分からないことでもあった?」
優しい声音で女教師は言って、腕を組む。おっぱいが持ち上げられ、大変なことになっていた。一大事だ。僕はおっぱいを見ながら言った。
「おっぱいの大きさのことなんですけど」
「ほう、いい度胸だな」
間違ってしまった。おっぱい見ながら質問したため、ついおっぱいの大きさについて聞いてしまったのだ。でも、気にはなってるけど。
女教師が殺気を放ってにらんできてるので、僕はいつでも逃げられるようにしつつ、おっぱいを隠れ見ながらさらに訊いた。
「今日の委員会の途中で、恵ちゃんを見かけませんでしたか」
「……いや、見てないが。というより、ドアを閉めてたから分からないな」
「ドアを閉めてた? どういうことですか」
「ああ。卒業した三年が四階で暴れててな。ドアを閉めて委員会を開いた」
それはそうだ。将棋部で話を聞いた時に、気がつくべきだった。四階で不良が暴れていたのだから、言わずもがな、委員会の開催にも支障が出る。
将棋部は、三階に逃げた。だったら美化委員は? 場所は変えず、しかし、ドアを閉めた。当然の対抗措置だ。
だが、もしそうだとしたら、恵ちゃんのアリバイがないことになる。というよりも、恵ちゃんの発言に矛盾が生じてしまうのだ。
「四十分ごろ、一度ドアを開けたとか、そういうことはありませんか」
「いいや。そもそも、委員会は三十五分には終わっていた」
「へ?」
「開始時間と終了時間は議事録に取ってある。ほれ、紅林」
議事録を受け取り、ページをぱらぱらとめくった。三月十四日。開始時間は午後三時二十五分。終了時間は、午後三時三十五分。
「結構短かったんですね、委員会」
「一応集まりはしたが、別に何か大仕事をするってわけじゃなかったからな。終業式前の大掃除の割り当てなどをしっかり決めておく必要がある、という話だけだったから」
それは先ほど、説教の時にも聞いていた。
だけれど、今はそれどころじゃなかった。
僕はふらふらと職員室を出ようとした。後ろから女教師に呼び止められたが、もう訊きたいことなんて何もなかった。
恵ちゃんが嘘をついている、という事実を信じることができなかった。どうして嘘をつく必要がある。
――真犯人だからか。
そんなの信じられるか。恵ちゃんが、人を殺そうとするはずがないのだ。
職員室を出ようとした時、三年の不良と一緒にいた初老の教師が、キーボックスに鍵を戻していた。この学校のすべての鍵は、壁にかかっているキーボックスにかけられていた。
図書室や格技室の鍵も、ここにしまってある。
「先生」
僕は、初老の教師に声をかけた。
教室に入ろうとしたところで、僕は足を止めた。
室内から、賑やかな声が聞こえてくる。のぞき見ると、一組のカップルが楽しそうに話をしていた。何を話しているかは分からないが、甘い雰囲気が漂っている。
死んでしまえ。
「邪魔なやつらだ。死んでしまえ」
心中で思っていたことを口に出してみた。別に言ったところで、まったく意味はないのだけれど。
さらにのぞき見る。机の上には、たたまれた包装紙があり、その上にクッキーが載っていた。
「はい、あーん」
「あーん」
「おいしい?」
「うん、めちゃくちゃおいしい!」
「いいとこで買ってきたんだ。よかった、口にあって」
「甘くていいね。バニラパウダーも、香りを引き立たせてくれてるね~」
あまりのうざさに反吐が出る。マジでむかついてきた。
……あれ? でも待った。これが、普通の光景のはず。僕は、何か勘違いしてなかったか。
それに、バニラパウダー……。
ポケットの中の電話が振動し、ケータイを見る。彩葉からだった。
「どうした」
『センセが目を覚ましたって。メグちんが』
「恵ちゃんが?」
教室に用があったが、先生に話を訊くのが先決だ。
僕は階段を駆け下り、保健室に急ぐ。階段が一つしかないのは不便だ。もう一個作るべきだったように思う。
ドアを開けて中に入ると、すでに全員が顔をそろえていた。
「先生は!?」
振り向いたみんなは、一様に浮かない顔をしていた。恵ちゃんなんて、目に涙まで浮かべている。
ベッドで横になっている先生は、目を閉じていた。
「まさか……死んじゃったのか?」
掠れた声でそう訊くと、彩葉が冷たい視線を向けてきた。
「何アホなこと言ってん。死んでなんかあるわけないやろ」
……え?
「だって、恵ちゃんが泣いてるから……」
恵ちゃんは目をこすって涙を拭いている。
「違うの。ただ目にゴミが入っちゃって」
ゴミ、だと……? 恵ちゃんの美しい目に、ゴミが入ったなんて……大事件だ!
「そりゃ大変だ! 今すぐ床をなめさせてもらおうか!」
「アグレッシブに変態するのはやめろや!」
「僕もそう思ったから、やめることにしたよ」
依然として眠り続けている先生の前でやることでもないだろう。それに、舌を使わなくても、モップできれいにできる。
「お前は、すでに人間やめてるだろ」
弓浦があざ笑うように言った。何でこいつに言われなければならないんだ、そんなことを。
「何だと!? お前には言われたくないね、ボスゴリラ」
「今何て言った!」
「聞こえてなかったのかよ。お前の耳は腐ったネズミだな」
「それは悪口としてはひどすぎるんじゃ……」
「いやいや恵ちゃん。そんなことは――」
突然視界が反転する。何だ!? 何が起きてる!?
「ぐぼらっしゃい!!」
頭から地面に叩きつけられた。痛……死ぬ!! マジで死んじゃうって!!
「殺す気か、弓浦!」
弓浦は、ふん、と鼻を鳴らしてイスにふんぞり返った。むかつく男だ。女の子になら蹴られても喜べるが、男に叩かれて嬉しがる趣味は持ち合わせてなかった。
「紅林くん、大丈夫?」
「僕は大丈夫。恵ちゃんがいるかぎり!」
痛覚は、要するに慣れである。僕は人より殴られ、蹴られ、ぶっ飛ばされている。そこら辺の経験をなめてもらっては困る。
同級生の女の子の前で全裸になった時は、おもいっきりぶっ飛ばされた。小学生の時の、懐かしい想い出である。あのころはまだ、〝変態〟ということを理解できてなかった。
いや、今もまだ、理解しきれたわけじゃない。変態道は奥が深いのだ。柔道と比べても遜色ないほどに。
そういえば、前に母さんから聞いた話だと、幼稚園の年少の時、JKのスカートに顔を突っ込んで踏まれたことがあるらしい。小さいころの僕も変態だったんだな、と我ながら誇らしく感じる。
「本当に、あなたはバカだね」
「ウサギさんには言われたくないな」
顔面を蹴飛ばされた。そうそう、これこれ。マッサージ行けば、女の人に踏んでもらえるらしい。疲れも癒え、踏んでもらえるなんて、最高のご褒美だ。
「先生は無事なんだよな」
「唐突に話戻すなや。……まあ、無事やで」
そう言う彩葉の表情は曇っていた。
「何かあったんだな」
僕の問いに、恵ちゃんが答えた。
「せっかく先生が目を覚ましたのに、みんなが来る前に……また気を失ってたの。私が、目を離した時に、誰かが……」
恵ちゃんがいない時に、誰かが意図的に先生を気絶させた?
いや……殺害に失敗したから、今度こそ仕留めようとした?
「誰が、先生を……?」
「さあ。メグちんは見てへんの?」
「うん。でも……首のところに、何か絞めたような痕があるみたい」
確認すると、確かに絞めた痕跡があった。かなり強い力で、首を絞めたのだろう。黒帯を持つ先生の意識を落とすのだから、そんなことができるのはかぎられてくる。
「弓浦平祐。お前がやったんだな!」
「何で俺がそんなことをしなくちゃならない」
「犯人はお前しかいない。これで間違いないな。罪を認めなければ、僕は拷問だって何だってしてやるぞ」
「ふざけるな!」
目の前に立った弓浦が、僕の襟元をつかみ、そのまま一本背負いした。
って、僕、このまま死ぬんじゃ――。
目を開けると、見慣れた天井が見えてきた。四組の教室だ。授業中に暇で天井を見ていた時に見つけた、おっぱいみたいな形のシミがあった。
先ほどのバカップルはもう帰ったらしく、教室には誰もいなかった。
いや、一人いた。
窓の近くに視線を移すと、橘ユリカが腰を下ろしていた。夕暮れの空を見つめている横顔は、なかなか画になっていた。
まあ、それはそれである。今回の事件について考えるのは、僕一人しかいない。
「さて、と」
起き上がり、ポケットからメモ帳を取り出して開いた。
「起きたんだね」
「寝ている間に社会的に死ぬのだけは勘弁だからな」
天使と悪魔は絶対に僕を起こしたりしないだろうから。
少しくらい、やつらに訊いてみるとするか。さっきみたいに、天使が何かいいことを言ってくれるかもしれないし。
どうしようもないやつらだけれど、言うほど嫌いでもなかった。
――私は、あなたのことなんて大嫌いですけど。
――知ってるか? 好きの反対は嫌いじゃないんだぜ。
そう言うと、天使からの返答はなかった。
――小僧、やるじゃねえか。ミカを黙らせやがったな。
――ミカ? それは、天使のことか?
――ルシファー。安易に私の名前を呼ばないでください。悪魔とはいえ、あなたをいたぶり殺すことくらい、私にとっては容易いんですから。
――ちょっと待ってくれ。お前ら、知り合いだったのかよ。
――まあな。懐かしいぜ。あの夜のこと、オレは忘れたりしねえぜ、ミカ。
――いい加減黙らないと、本当にあなたを殺しますよ。
――なるほど、お前らは付き合ってたわけだ。
ドS天使と変態悪魔が、ねえ。意外なようで、そうでもなかった。
――オレがまだ天使のころにな。で、違う天使とヤったら、こいつ、ヒステリックになりやがってよ。そしたら地獄送りさ。
――そりゃあ、ひどい女だな。
――当然の報いです。
相手が浮気しているのを許さないくせに、自分がいざ浮気して問い詰められた時に逆切れするんだから、質が悪い。つくづく女って生き物は分からない。
――小僧、まあオレみたいにはならないほうがいいぜ。お前は、お前のなりたい〝変態〟を目指せ。たくさんの天使や悪魔と寝たが、お前みたいな生き方は、実に楽しそうだ。
僕は、両方勝ち取るつもりだ。〝変態〟になると同時に、それを隠して生き、いろんな女の子と遊びたい。〝変態〟は隠すべき嗜好だが、夜の遊びは普通に楽しんでいいだろう。
――ミカ、ルシファー。お前らには、感謝してる。いつもありがとな。
――感謝される筋合いはありません。さっさと去勢し、その後、社会的に殺してもらい、そのまま地獄に堕ちなさい。
その言葉責めも、この状況ではむしろ心強く感じた。
――早く終わらせるより、長く楽しんだほうがいい。何事も、そうだろう?
その通りだ。それは自分だけではなく、相手にも長く楽しんでもらえたほうがいい。
「よし!」
メモ帳を閉じ、立ち上がる。
「何か分かったの?」
「何も分からない。でも、何となく分かってきた」
「そこはかとなく矛盾を感じるけど、言ってる意味が分からないわけじゃないかも」
話が早くて助かる。腕時計に視線を落とす。午後五時四十五分。タイムリミットまで、あと十五分。
「さて、間に合うかな?」
「任せろ。絶対に真実を暴き、身の潔白を証明してやる!」