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変態の定義  作者: 椿楓
1/6

午後 三時四十分

 とうとうここまで来てしまった。

 もう後には引き返せそうもない。

 僕は生唾を飲み込み、そろそろと机に手を突っ込んだ。

 机から取り出したのは、一本のリコーダーケース。もちろん中身は詰まってる。夢と希望とリコーダーが、だ。

 氏名欄には、皆笠(みなかさ)(めぐみ)と書かれている。僕が想いを寄せているクラスメイトだ。

「これが、恵ちゃんのリコーダー……ッ!」

 昂ぶる気持ちを抑えられない。いや、抑える方法を知らなかった。

 これをなめれば、僕はめでたく〝変態〟の仲間入りとなる。

 もちろん、僕はすでに変態だ。その自信だってないわけじゃない。

 だけれど、それは「人間の中では」という一言で片付けられてしまうような、何の変哲もない、はかない称号にすぎない。

 簡単に言えば、女湯をのぞき見るやつと、女に踏まれて喜ぶやつは同じ変態だ、ということである。

 変態なんて、探す必要もなく、通りに出ればすぐに見つけられてしまう。

 家族は変態だ。

 友人は変態だ。

 恋人は変態だ。

 鏡を見れば、そいつも変態だ。変態じゃない人間なんているか。自分は変態じゃない、とか言うやつは嘘つきだ。それくらいありふれた、ありきたりなものなのだ。

 真の〝変態〟とは、リコーダーをなめ、忘れ物の体操着のにおいをかぎ、上靴のにおいをかいだ後、顔に靴の底をこすりつける。女湯はのぞき見るのではなく、残り湯でご飯を炊くのが定石だ。

 そういった行為をするのは、もはや人間ではなく、情欲に流された獣の類だ。普段は人間の皮をかぶって生活をしているが、正真正銘の〝変態〟である。

 ……皮をかぶって、という表現は、何か包茎に通ずるものがありそうだ。なるほど、獣になる時だけその姿を現すというのだから、僕も当てはまりそうだ。

 ちなみに、パンツを盗んで頭からかぶる、階段の下からのぞいて脳内保存するどころか盗撮する、夜道で女性を襲うなどは、異常者という点では似ているが、こちらはただの犯罪者なので、まったく異なる生物だ。

 僕は〝変態〟へと進化するために、リコーダーに唇を近づける。関節キス。つい口にしたくなる、美しい響き。なんて甘美で切ない言葉だろうか。

「いやでも待てよ。やっぱり、やめたほうがいいんじゃないのか……ッ!?」

 この意気地なしめ、と自分自身を罵った。紅林(くればやし)孝太(こうた)よ、まさか、ここに来て諦めるってのか。ちょっとなめるだけだろ。弱気になるなよ。

 でも……確かに今ならやめられる。リコーダーをしまって帰れば、問題ないだろう。リコーダーをケースに戻すべきか否か、僕は躊躇していた。

「それでもけれどだがしかし」

 リコーダーを手にし、あとはなめるだけ、という時になってから、こうも葛藤することになるとは。

 まだまだ僕は甘すぎる。

 先人たちに笑われるぞ。

 自分と想い人のリコーダーの頭部管を交換するやつだっているんだ。僕にだってできなくはないはずだ。

 そうは分かっていても、決意しては逡巡をくり返し、だんだんと深みにはまってしまうのだった。

 今回の計画は、一週間前から決めていたことだった。

 一年四組の音楽の授業は、木曜と金曜に行われる。連続しているため、大半の生徒はリコーダーを教室に置いて帰っていた。恵ちゃんも例に漏れず、置きっぱなしだった。

 前々から、リコーダーには注目していた。でも、手を出す勇気がなかった。

 今回やる気になったのは、リコーダーを使う授業がもうすぐ終わるからだ。

 ……のだが、実のところ、昨日は手を出せず、そのまま帰宅してしまった。本来ならば、今日はリコーダーを持ち帰ってしまったあとのはずだった。

 なのに、恵ちゃんのリコーダーは、今ここにある。

 どういうわけか、忘れて帰ったのだ。僥倖だ。まだチャンスは残されていたのだ。

 だとしても、土日は休みなのだから、今日が最後のチャンスに違いはない。月曜になってもリコーダーを忘れて帰る、なんて甘い考えは捨てるべきだろう。

「でも、ホワイトデーの日にこんなことするなんて……妙に興奮するな」

 先月のバレンタインに、僕は恵ちゃんにチョコをもらっていた。クラスの男子全員に配っていたから、義理チョコだとは分かっている。

 それでも、みんなに手作りのチョコを贈ったのだとしても、僕は幸せだった。あの日以来、僕は毎日少しずつチョコをなめていた。そのチョコはまだ、ポケットに入っている。

 お返しのために持ってきたクッキーは、まだ渡せてなかった。渡す勇気よりも、リコーダーをなめる勇気を出してしまった僕は、すでに〝変態〟へと近づきつつあるはずだ。

 けれど、クッキーはクッキーで、ちゃんと渡さないといけないな。

 ……なめる決心がつかない。どうしても、余計なことばかり考えてしまう。ここぞという時に決断できないのが、僕の悪い癖かもしれない。

 とりあえず、一応あいつら(、、、、)に相談してみるとするか。あまり頼りにならないけど。

 ――リコーダーをなめるべきか否か、天使と悪魔よ、答えよ!

 物心ついた時から、僕は天使と悪魔の声を聞くことができた。

 幽霊と会話してる、幻聴を聞いてる、とバカにされていたが、紛れもなく天使と悪魔だと思う。違うにせよ、何かの声が聞こえてるのは事実だった。

 包容力のある、女性のように美しい天使の声が聞こえてきた。

 ――そんなことはしてはいけません。今すぐリコーダーを元の場所に戻し、それから皆笠恵さんに土下座で謝罪し、首をくくりなさい。

 ……ん?

 ――あなたは女性の敵で生きる資格も価値さえもないのだから、地獄に送られて永遠の責め苦を味わうべきでしょう。ではごきげんよう。

 ――分かった。お前はどうしても僕に死んでほしいんだな!

 いつもこうだ。天使のくせに、言ってることがひどすぎる。どんな相談をしても、結局最後は僕が死ぬべきだと説くのだ。いったい僕が何をした。何で僕が死ななくちゃならないんだ。

 次いで、ぞっとするような恐ろしい声で、悪魔が言った。

 ――ほら、なめちまえよ。なめろって言ってんだろ! へへへ、いいぜ……。やりゃできるじゃねえか。上手いな……これが初めてってわけじゃねえだろ。噛んだりしたら、承知しねえからな……。

 ――お前はお前で何やってんだ!?

 ――うらやましいか、小僧。

 ――うらやましいに決まってんだろ!

 まったく。僕がリコーダーをなめようか迷ってる時に、どこのどなたさんにナニなめさせてんだ、この悪魔は。〝変態〟め!

 あいつらは本当にどうしようもない。みんなは本能的にそれを理解してるから、あいつらの声を聞かないのかもしれない。僕だって別に声を聞きたいわけじゃないけど、たまに聞いてやらないと怒るから、こうして構ってやってるのだ。

「くそっ、僕はどうすりゃいいんだ……ッ!」

 目を閉じ、頭を抱えた。

「そのリコーダーをなめ、それから死んじゃうってのはどう?」

「……ある意味、それが正解なのかもしれないな。なめたまま屋上から飛び降りるという手も――って、ん?」

 天使と悪魔の声じゃない。僕は顔を上げた。

 そこには、ウサギさん(、、、、、)がいた。ウサギってエロの象徴だよな……なんて思ってると、衝撃が顔面を襲う。

「ふぐおッ!」

 靴底だった。

 ということは、あれはパンツの柄だったのか。聞き覚えのない声だから、同じクラスの女子じゃない。

 まさか、リコーダーをなめようとしていたところを、見られたりしてないだろうか。見られてたら非情に困る。

 しかし、それにしても、ウサギさんのぱんつなんて履いてるJKがいるとは。そんなおこちゃまの顔はぜひとも確認しなければならない。

 靴で踏まれるのも悪くないが、一旦靴をどけ、立ち上がる。

 目の前にいたのは、気が強そうな女の子だった。とてもじゃないけど、ウサギさんのプリントパンツを履いているようには見えない。

「いつからウサギさんパンツを履いていた!」

 いつからそこにいた、と訊こうとしたら間違ってしまった。案の定蹴り飛ばされた。靴底のにおいから、さっきトイレに行ったばかりだと分かり、少し興奮した。

「そんなの教えるわけないでしょ!」

 その子はプリプリと怒っていた。身長がそこまで小さいわけでもないのに、怒るとハムスターみたいなかわいさがあった。

「いつからそこにいた」

「さっきからだよ。帰ろうとしたら、隣のクラスからぶつぶつと変な独り言が聞こえてくるしさ。ちょっとのぞいたら、変なことしようとしてるあなたを見つけちゃったし、最悪な日ね」

「で、蹴ったと。ひどい話だ」

「あなたがしようとしてたことよりマシでしょ」

「どういう理屈かさっぱり分からん」

 まあ別にいい。言葉責めも蹴りも嫌いじゃない。僕は状況に応じてSにもMにもなれるから、大喜びだ。

「……あなた、あたしのパンツ見たでしょ」

「当然だ。だが、僕はおこさまパンツなんかじゃ興奮はしない。もっと大胆でセクシーな――」

 ぶっ飛ばされた。蹴られたわけでも殴られたわけでもないのに、急に身体(からだ)が吹っ飛んだ。いったいどうやったんだ? 壁にめり込むとか、初めてだ。

「イテテ……」

「よっぽど死にたいみたいだね」

「半殺しまでなら大丈夫だ。だが、公衆の面前での半殺しはやめてくれ。社会的に死にたくないからな」

 そんなことをしたら、〝変態〟への道は閉ざされてしまう。あくまでも、表向きは人間、だけど実は〝変態〟の獣でありたいのだ。

 僕は立ち上がり、彼女に一歩近づいた。

 だが、彼女は後じさる。

 僕はもう一歩踏み出す。

 またも彼女は後じさる。

 これはこれで面白くなってきた。引かれれば近づきたくなってしまう。これは一種のゲームだ。僕はぐいと彼女のほうに大きく踏み出した。

 その時だった。

 机の脚につまずいて、転んでしまった。その際、彼女まで巻き込んで倒れてしまった。

「きゃあっ!」

 彼女を押し倒してしまい、僕は興奮した。

 彼女の首筋から漂うほのかに甘いスメル。手には何か柔らかいもの(、、、、、、、、)をつかんでるし、シャンプーのにおいがくすぐったい。

「って、僕はいったい何をつかんでるんだ――ッ!?」

 押し倒したはずみで、胸をつかんでしまった! リコーダーをなめるとかじゃなく、胸を、揉んでしまったのだ! 不可抗力とはいえ、何てことをしてしまったんだ。

 でも、びっくりするほど胸は真っ平ら。揉む胸があったのか、ってレベル。少し面白いかもしれない。

 もう少し揉んであげたら大きく成長するのだろうか。そのほうがいいだろう。巨乳のほうが好きだけど、よし揉もう。

 次の瞬間には、僕は違う教室にいた。

 いや、天井を突き抜け、上半身だけ上階の教室にあるのだと思う。下から見たら、きっと間抜けなことになってることだろう。

 とにもかくにも、僕の視界には今、二年四組の教室が見えている。そして、そこにいる人たちも。

「えっと……どういう状況だ?」

 視界の先には、将棋盤を囲んだ二人の男がいた。

 たぶん、将棋部の連中なんだろう。それは分かる。

 分からないのは、真剣な表情で将棋を指している彼らが、何故かパンツ一丁だということだ。

 奥からもう一人の男が歩いてきた。計測係なのか、ストップウォッチを持っていた。彼は言った。

「負けたら一枚ずつ脱いでいく、脱衣将棋をやってるんだ」

「女子もいないのに、そんなことして楽しいか?」

「……哀しいよね」

 うちの将棋部は、大会に出ても毎回予選落ちだ。部員も少ないし、文科系の部活では唯一部室を与えられてない、と聞いた。毎回、空いている教室を使ってるらしい。

 で、やってることが脱衣将棋か。何とも哀れである。

「ふはは、王手だ!」

「バカめ、こちらにはコイツがある。逆王手だ!」

「やるではないか! 我も負けぬぞ」

 二人の戦士を見て、僕は感服した。彼らは、ただひたすらに、純粋に、社会のルールに立ち向かっているのだ。そんな二人をバカにした自分は、なんて愚かだろうか。

「僕はもう帰るよ。じゃ――君も頑張れよ」

「うん」

 彼はガッツポーズを取った。彼はすでに全裸だから、何も頑張ることなんてなさそうだけど。

 下に戻ると、まだ彼女は仁王立ちして待っていた。着地するなり、鋭い視線を向けてくる。

「悪かったよ。わざとじゃないんだ」

「どちらにしても、あなたを殺さないと気がすまないから!」

「それは困るよ。僕はまだ、ただの変態のままだし」

「じゃあ、社会的に殺してあげる。覚悟しておいてよねっ」

「え? それはマジで困るって。考え直してくれよ」

 彼女は僕の言葉なんて聞いておらず、そのまま教室を出て行ってしまった。追いかけることもできなかった。これ以上、何を言っても無駄な気がした。

 まずいことになった。

 殴られたり、蹴られたり、ぶっ飛ばされたりするくらいなら別に構わない。むしろ、喜んで臨もうとするだろう。

 だけど、社会的に殺されるのだけは、阻止しなければならない。

 そういえば、彼女は何ていう名前なのだろう。訊いておけばよかった。答えてくれないと思うけど。

 ただ、学年は分かる。

 彼女は、一年の学年色である、青いラインの入った靴を履いていた。つまり、僕と同学年だ。

 あとはクラスを調べれば分かることだ。ウサギさんパンツの子なんてすぐに見つかるさ。

「……はあ、社会的に殺されるのか、僕」

 こんなことにもつい興奮してしまうのだから、やはり僕はとんだ変態野郎だ。

 ふいに、教室のドアが開かれ、女教師が顔を出した。教師の顔を見て、思い出した。今日は美化委員会の日だった。

「紅林、ちょっと職員室まで来い」

 こんな時に説教か。なるほど面白い。僕は急いでカバンにリコーダーを突っ込み、教室を出た。


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