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歴史短編小説 雪月(せつげつ)記

作者: 水本爽涼

 極寒の吹き荒む風は凍て、夜の冴えた虚空にはガス灯が下弦の月をひっかけ、蒼白く存在している。この先、ガス灯はもうない。

 今日もあの一団は、またしても襲撃を企てるのか…。森川荘八郎は警邏で巡る道すがら、わずかな不安におびえていた。それゆえ、サーベルすらも心なしか腰に重い。

 最近、巷では、旧士族の徒党を組む事件が頻繁に横行していた。この界隈とて例外ではないのだ。寸分の油断すらできない。

 荘八郎は元郷士であった。郷士とは名ばかりの下級武士である。今からもう何年前になるのだろうか…、長かった戊辰の役が終り、近代日本の夜明けは幕開いたが、この頃の荘八郎は生活の糧を得るために、やむなく百姓を強いられていた。歩きながら、ふとその残像が脳裏を過ぎっては消える。

 少年期の荘八郎は、あるとき尊皇攘夷の思想に出会う機会を得た。別にお上への不満はなかったのだが、幼馴染の脇田惣兵衛から黒船以降の世情を聞かされるにつけ、ついには、そのとりことなっていったのである。そんな既にもう遠く過ぎ去った追憶が、荘八郎の胸に走馬灯の如く巡るのだった。

 確かに、今はこうして維新政府のしもべとなり禄をんではいる。もし御維新ごいっしんがなければ、恐らく自分は飢えていて、下級武士のまま惨めな一生を終えていたに違いない…と、荘八郎には思えていた。

 谷町筋を右折した頃、風はわずかな雪の鱗粉りんぷんを含み、冷たく荘八郎の頬を撫で始めていた。その時である。ザザッ! っと音がして、行く手の路地を黒い数名の人影が動いたように思えた。

「何者だっ!」

 荘八郎は刹那、大声を発していた。警部である上司、牧山源輔から、「ここ数日中に、必ず高林の一派が動くから警戒を怠るでない」と密命を帯びている。

━奴らは、政府要人を誅殺ちゅうさつせんと画策す━

 そうも云った牧山の声が甦った。

 不平士族の反乱が、ここ数年のうちに全国各地で起きていることは知っている。その勢いが次第に増幅されているようにも荘八郎には思えていた。一派の内偵は進んでいたが、未だ襲撃の情報は得られていない。さきほど動いた黒い影は鳴りを潜め、今は何事もない。ふたたび虎落笛もがりぶえが悲しげに雪を含んで哭いている。

━なにも起こらねばいいが…━

 実はこれが荘八郎の本心であった。内務卿がお通りになるから警護を厳重にしろ! と、牧山が署を出る前に下達していた。同僚の鴨居又八と、ふた手に分かれてもう四半時 (しはんとき)が経つ。卿がお乗りの馬車はもう来る頃だ。それにしても…、荘八郎には今の黒影が気に掛かった。小走りに、あちこちを荘八郎は探った。だが、ふたたび黒の動く気配は感じられない。不気味な静けさを打ち消す風が哭く…。既に辺りは白い化粧を身に纏い始めていた。

━先生に拾って戴いておらねば、私はもう世を捨てていたのかも知れん、或いは命までも…━

 荘八郎は戊辰のいくさの後、木戸孝允に拾われ邏卒らそつとなった。ゆえに彼は木戸を信奉していた。全てが全て、先生のためならば…と思える節もある。そして、ふた月もしないうちに、筆算役を仰せつかった。荘八郎はあり難くもあり難いと、真に思った。その後、数ヶ月を経ずして組織は改編され、荘八郎は一等巡査に昇格した。偉くなったような、そうでもないような改編であったが、妙に気分は高鳴った。そして、護身の六尺棒はサーベルへと変化した。こうして今、我が身を東京に置いてはいるが、郷里の長州一帯は不穏の空気に包まれている。つい二ヶ月前、萩の前参議・前原一誠、豊津の杉生十郎は、宮崎車之助ら秋月士族二百五十余名とともに同盟を結び、秋月の乱を起こしていた。明治九年十月のことである。自分も長州にいて先生に拾われなければ…と、荘八郎は運命の皮肉を肌に感じるのであった。

 尊皇攘夷の思想に傾倒して木戸を知り得たことが、荘八郎には救われた想いだった。ここ東京で、先生の一兵卒として不平のやからを退治せん! と自分はしている。彼は自分が誇らしくもあった。

  高林 静忠よしただは、旧水戸藩の浪士であった。御維新ごいっしんの前は天誅組に一時、加担したこともあったが、━高林の一派━と、牧山が釘を刺した如く、この時期、彼の周りには約二十名の同士が集結し、幾組かに分かれ政府要人を、つけ狙っていた。荘八郎は決して彼らが憎かったのではない。ましてや高林一派は一面識もない荘八郎を怨みに思う筈もなかった。

 両者…といっても、荘八郎は一人、相手方は数人とみられた。まともに渡り合って、荘八郎に勝ち目がないのは一目瞭然であった。だが、漆黒の闇を照らすわずかな月明かりと雪を含む虎落笛もがりぶえが、荘八郎に何故か勇気を与えていた。何も恐れるものなどないような気がした。ふところに入れる、特別に手渡された、ただ一つの呼子も、それを補っていた。万一、徒党の動きがあったときは吹く手筈となっている。少し前、影が動いたとき、実のところ荘八郎は迷った。呼子を吹くべきかと…。だが、結局吹かなかった真意は、それがおとりとも考えられるからだった。呼子を吹けば鴨居は恐らく駆けつけるだろう。それは、高林一派の計略かもしれない。手薄となった警護のすきを突いて、内務卿を別の場所で襲うことも考えられる。だから吹かなかった。ただ、それだけのことである。

 遠くから馬のひづめの音がかすかにする。それは風音に打ち消されて微弱ではあるが、確実に近づきつつある。この刻限なら卿の乗られた馬車にまず間違いはない…。荘八郎の体躯は寒さのためではなく、緊張ゆえか打ち震えた。

 やがて荘八郎の両眼が、前方より近づく馬車を小さく捉えた。その点のような素描は、わずかづつではあるが輪郭を鮮明にして大きくなる。

 その時だった。馬のいななきがしてひづめの音が途絶えた。何らかの異変が起きたことは、まず間違いがない。荘八郎は駆けた。

 前方には三名の刺客が、まさに馬車を襲おうとしていた。馬はいななき暴れている。

「待て~ぃ!」

 荘八郎は絶叫して、馬車の右扉を開けようとする黒影に一声を発した。そして、咄嗟とっさに腰のサーベルを引き抜き、その影を振り払っていた。

  一瞬、「ウッ!」と、呻き声が漏れ、その影は(ひる)んだ。生憎(あいにく)、頼みの提灯が風に消え、明かりといえば(わず)かに積もった地の白い畳である。月は疾うに雪雲に姿を奪われていた。薄ぼんやりと刀の切っ先が鈍い光を放つ。体勢を立て直した右扉の影が持つ(やいば)の光だ。荘八郎は一歩下がって呼子を手にし、力の限り吹き鳴らした。高く尖った鋭い音の響きが闇夜に(こだま)した。

 その時、体勢を立て直し、左扉に近づいた第二の影は、車窓から刀を内にめがけて突き刺した。

「ウムッ! …」

 低い呻き声が響く。荘八郎は突進し、右扉の影は(ひる)んで下がる。その(すき)に右扉へ張り付いた荘八郎は、

「大事、ございませぬか?」

 と、視線を影から離さぬまま訊ねる。

「なんの、これしき…。左脚をやられたが、大事ない…」

 ふり絞った気丈な声で卿は返した。

 馬車は内側から施錠されている。左扉の影は扉が開かない無益を悟ると、先ほどと同じように遮二無二(しゃにむに)(やいば)を突き刺す。だが既に卿は右へ移動していて、切っ先は届かない。右扉は荘八郎が警護する。馬丁(ばてい)は逃れようとし、数メートル先であっけなく第三の影に斬られた。絶叫して地にドッカと倒れる姿が感じ取れる。(ようや)く、呼子を聞きつけた鴨居が、サーベルを振り(かざ)して第三の影を一撃した。第三の影は眉間から血を流して倒れた。荘八郎に、その状況は暗くて見えないが、倒れた物音は分かった。右扉が開けられようとする。

「卿、恐れ入りますが、今暫(しばら)く、このままにて!」

 必死に荘八郎は、おし(とど)めた。その瞬間、第一の影が動いた。

「ウゥッ! …」

 荘八郎は腹部に激痛を感じた。一瞬の間合いであった。

「もりかわぁ゛ー!」少し離れて第二の影と刃を交えていた鴨居が異変に気づく。荘八郎が片膝を地につき左手を腹部に宛行(あてが)ったとき、次の袈裟斬りが襲った。かろうじて、荘八郎は払い退ける。ふたたび第一の影の刃を受ける"カキィーン!”という鋭い金属音がした。双八郎は、その返す(やいば)で、影の左足を払った。

 そして無心で、つんのめった第一の影を突き刺した。確かな手応えはあった。しかし、突き刺したサーベルが抜けない。貫通した刃を片手で握る影が、必死の形相で今度は荘八郎を下から刺し貫いた。荘八郎は呻きとともに、地に崩れ落ちた。影もまた、それ以上に一撃を加える余力はなく、仰向けのまま大きく息を吐く。。そこへ、やっとのことで第二の影を仕留めた鴨居が駆け寄り、第一の影にとどめを刺した。

「おいっ! もりかわぁ~、大丈夫かっ!…」

  大声で助け起こそうとするが、荘八郎は既に息、絶え絶えである。

「私…より…卿は……」

「卿は御無事だ! 安心しろ!」

  次第に意識が朦朧もうろうとしていく。内務卿は馬車から出たが茫然自失となり、かがんで荘八郎をうかがう。

  荘八郎は幻覚を見ていた。それは遠い昔、木戸孝允に見出された折りの光景である。

  木戸が笑っている。なぜ私のようなものを? と訊ねる自分が見える。だが木戸は、それに答えようとはせず、ただ笑っている。

  ━ そうだ…あの日から私は先生のしもべとなったのだ… ━

  ふと正気に戻ると、荘八郎は鴨居にしっかと抱きかかえられていた。長州征伐のさなか家族を惨殺され、生き残った荘八郎は自分も死のうと思った。それをとどめたのが偶然に居合わせた木戸であった。それ以降、森川荘八郎は、参議の木戸孝允に命を預けたのである。

  虎落笛もがりぶえは既におし黙り、静寂しじまが戻った辺りには、わずかに舞う雪が無音で地へ落ちている。

「逝く前に…雪を…すこうし…」

  血糊でベットリと赤く染まった右指で荘八郎は唇を指し示した。

「なにを気弱な…、もう助けが来る。しっかりせい!」

  そう云って、鴨居は地面に敷かれた少しばかりの雪片を荘八郎の口元へと運んだ。荘八郎の口で、その潤いの雪片が快く溶けた。荘八郎は微笑んで、静かに瞼を閉じた。

  いつしか淡雪は止み、雲の切れ間から煌々と、下弦の月が、ふたたび荘八郎を照らしていた。   


                                         完

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