開けられなかった手紙。私の方が先に好きだったのに。
先日投稿した『最後の一年は封も開けられませんでした』のバッドエンド版です。救いがないのでご注意ください。
プリシラ・フォン・アルヴェインは、三年ぶりに祖国の土を踏んだ。港に降り立った彼女を出迎えたのは、懐かしい潮風と、見慣れた王国の街並みだった。
「……帰ってきたのね」
二十一歳になったプリシラは、感慨深そうに港を見渡した。
アルヴェイン侯爵家は代々、王国の外交や国外での建設事業を担ってきた名門貴族である。プリシラも十八歳のとき、父の命を受けて海を隔てた隣国へ赴任した。
当初は一年程度で帰国する予定だったが、現地での事業が難航したこともあり、結局三年もの歳月を費やすことになってしまった。
異国での生活は決して楽なものではなかった。
言葉も文化も異なる土地で、時には現地の貴族と衝突し、時には工事の遅延に頭を悩ませ、夜遅くまで書類と向き合う日々が続いた。
それでも彼女が最後まで頑張れたのは、祖国で待っている一人の青年の存在があったからだ。
ジュリアン・フォン・エルディス。
プリシラより二つ年上の幼馴染である。
二人は幼い頃から親しく、互いの屋敷を行き来しては一緒に遊んでいた。十年以上の付き合いの中で喧嘩をしたこともあったが、ジュリアンはいつだってプリシラに優しかった。
そして、彼女が隣国へ旅立つ前日のことだった。
『何年でも待つよ。プリシラが帰ってきたら、僕と結婚してくれ』
『……本当に?』
『もちろん。僕が君に嘘をついたことがあるかい?』
『ないわ』
『だったら信じてくれ。僕は君を待っているから』
そう言ってジュリアンは彼女の手を握り、優しく微笑んでくれた。
プリシラはその約束を、一日たりとも忘れたことがない。
赴任先からは毎月のように手紙を送った。
現地での出来事や仕事の苦労、珍しい食べ物の話。それから、ジュリアンにどれほど会いたいと思っているか、どれほど彼を愛しているか。
遠い異国と祖国を結ぶ通信手段は、船便による手紙しかない。返事が届くまでには長い時間がかかり、天候によっては船が遅れることも珍しくない。
それでも最初の一年間は、ジュリアンからも頻繁に返事が届いていた。
『君がいなくなってから、屋敷が随分と静かになった気がするよ』
『こちらも仕事が忙しいけれど、君の帰りを楽しみにしている』
『どうか身体には気をつけて』
そんな何気ない言葉が、遠く離れた地でのプリシラの唯一の支えだった。
ところが、一年が過ぎた頃から少しずつ返信が減り始めた。
二通に一通、三通に一通……と、徐々に返事の頻度が減り、やがて数ヶ月に一度しか返事が届かなくなった。
寂しくないと言えば嘘になる。
しかしジュリアンも王国で公務を担う貴族の青年であり、いつまでも手紙ばかり書いていられるわけではないだろう。
実際、最後に彼から届いた手紙にはこんなことが書かれていた。
『なかなか返事ができなくてすまない。けれど君の手紙にはいつも元気をもらっているよ』
その一文を読んだとき、プリシラは嬉しくて何度も手紙を読み返した。自分の手紙が彼の励みになっている。それならばこれからも書き続けよう。
彼が忙しくて返事を出せないのなら、自分が二人分の気持ちを伝えればいい。
そう考えたプリシラはどれほど仕事が忙しくても毎月欠かさず手紙を書き続けた。
そして三年目の冬が来た。
ようやく帰国の目処が立った彼女は、最後の手紙にありったけの想いを込めた。
『愛しいジュリアンへ。
ようやく帰国できることになりました。
三年間、本当に長かったわ。あなたに会いたくて何度泣きそうになったか分かりません。
でも、もう少しの辛抱です。
帰ったら今度こそ結婚しましょう。
あなたのお嫁さんになって、毎朝あなたの隣で目を覚まして、夜には一緒に眠りたい。
これから先の人生を、ずっとあなたと過ごしたいのです。
愛しています、ジュリアン。
あなたのプリシラより』
手紙を書き終えたプリシラは、恥ずかしさに頬を染めながら封を閉じた。
三年間、ずっと待ち望んでいた日がもう直ぐそこまで来ているのだと思うと、嬉しくて仕方なかった。
そして三ヶ月後。
ようやく彼女は祖国へと帰ってきたのである。
◇
「お嬢様、本当に侯爵邸へ戻らなくてもよろしいのですか?」
ガタゴトと揺れる馬車の中で侍女のエマが尋ねた。
「ええ。お父様には帰国の報告を済ませているもの。それに、どうしても先に会いたい人がいるの」
「ジュリアン様ですね」
「もう! 分かっているなら聞かないでちょうだい」
プリシラが頬を赤らめると、エマは楽しそうに微笑んだ。
「三年間、ずっと楽しみにされていましたものね」
「ええ……ジュリアン、驚くかしら」
「きっとお喜びになりますよ」
「……そうだといいのだけれど」
プリシラは胸元に手を当てた。心臓が早鐘のように鳴っている。
三年ぶりの再会に、彼はどんな顔をするだろう。少し背が伸びているかもしれない。髪型も変わっているかもしれない。自分のことを見て、綺麗になったと言ってくれるだろうか。
そんなことを考えているうちに、馬車はエルディス家の屋敷へ到着した。
「……着いたわね」
プリシラは深呼吸をすると、馬車から降りた。
門番に名を告げると、すぐに屋敷の中へ通された。
昔から何度も訪れている屋敷である。使用人たちも彼女の顔を覚えており、久しぶりの帰国を喜んでくれた。
「ジュリアン様はご在宅かしら?」
「はい。旦那様は奥様とご一緒に、応接室にいらっしゃいます」
「……え?」
プリシラは思わず聞き返した。
「奥様? ジュリアンのお母様がいらしているの?」
「いえ、ジュリアン様の奥様でございますが……」
使用人は不思議そうに首を傾げた。
プリシラは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……ジュリアンの、奥様?」
「はい。マリアンヌ様です」
「マリアンヌ……?」
聞いたことのない名前だった。親戚だろうか。
あるいは自分の知らない間に、何か事情があったのだろうか。
頭の中でいくつもの考えが浮かんでは消えたが、どれも答えにはならなかった。
「……会わせていただけるかしら」
「もちろんでございます」
使用人に案内され、プリシラは応接室へ向かった。
扉の前に立つと、中から聞き覚えのある男性の笑い声が聞こえてきた。
ジュリアンだ。
三年間、ずっと会いたかった人の声。
プリシラは思わず笑みを浮かべかけたが、先ほどの使用人の言葉が頭をよぎり、表情を強張らせた。
そして扉が開かれた。
「ジュリアン様。アルヴェイン侯爵令嬢がお見えでございます」
「……えっ?」
応接室のソファに腰掛けていた青年が、驚いたように顔を上げた。
金色の髪に整った顔立ち。三年前とほとんど変わらない、懐かしい顔だった。
「プリシラ……?」
「……ジュリアン」
「帰ってきたのかい? いやあ、驚いたな! 久しぶりじゃないか!」
ジュリアンは嬉しそうに立ち上がった。
しかしプリシラの視線は、彼の隣に座っている女性へと向けられていた。
淡い栗色の髪をした、可愛らしい顔立ちの若い女性だった。
その腕には、小さな赤ん坊が抱かれている。
「あら、お客様かしら?」
女性が微笑んだ。
「ジュリアン、この方は?」
「ああ、紹介するよ。僕の幼馴染のプリシラだ。三年間、隣国に赴任していたんだよ」
「まあ、そうでしたの。初めまして。マリアンヌ・エルディスと申します」
女性は赤ん坊を抱いたまま、上品に会釈した。
「ジュリアンの妻ですわ」
プリシラは何も言えなかった。
さっきまで何度も頭の中で反芻していた言葉が、今はどこか遠い響きのように思えた。
ジュリアンの妻。
聞き間違いであってほしかった。
しかし女性は当たり前のようにジュリアンへ微笑みかけ、ジュリアンもまた、その肩に優しく手を添えた。
「それから、こちらが僕たちの娘のリゼットだ。もうすぐ一歳になるんだよ」
「……娘?」
「ああ。可愛いだろう?」
ジュリアンは誇らしげに笑った。父親によく似た金色の髪をした赤ん坊。
小さな手に、柔らかそうな頬をしたその子は、母親の腕の中で幸せそうに眠っていた。
「……ジュリアン」
「ん?」
「貴方……結婚、したの?」
「うん? ああ、そうだよ」
あまりにもあっさりとした返事だった。
「……いつ?」
「二年くらい前かな? そうだよね、マリアンヌ」
「ええ。もう二年になりますわね」
二年前。
プリシラはその言葉を心の中で何度も繰り返した。
二年前。
ジュリアンからの手紙が減り始めた頃だった。
「……どうして」
喉の奥からかすれた声が漏れた。
「どうして……教えてくれなかったの?」
ジュリアンは困ったように眉を下げた。
「いやだってさ。君、向こうで大変そうだったじゃないか」
「……え?」
「手紙にも書いていただろう? 仕事が忙しいとか、なかなか帰れないとか。そんなときに僕が結婚したなんて知らせたら、君が落ち込むと思ったんだよ」
「…………」
「だから、君のためを思って黙っていたんだ」
ジュリアンはそう言って、優しく微笑んだ。
昔から何度も見てきた笑顔だった。
けれど今は、その笑顔が恐ろしかった。
「……私の、ため?」
「君は僕に手紙を書くことを励みにしていたみたいだからね。それを急に取り上げるのも可哀想だろう?」
「……取り上げる?」
「そう。手紙では、僕に会えるのをずっと楽しみにしていたみたいだったからね。だから気を利かせて、しばらくは返事も書いていたんだよ」
プリシラは震える唇を噛みしめた。
「……じゃあ、あの手紙は?」
「手紙?」
「私が……毎月送っていた手紙よ。あなたが好きだって、愛しているって……何度も、何度も書いた……」
「ああ、あれか」
ジュリアンは懐かしそうに笑った。
「いやあ、あれはなかなか気分が良かったよ」
「…………え?」
「だって、あんなに情熱的に愛を語られることなんて、そうそうないだろう? 自分がどれだけ愛されているか、長々と書かれているんだからさ。読んでいて気持ち良かったよ」
プリシラの目から、ポロポロと涙がこぼれた。
「……そんな」
「まあ、さすがに毎月となると少し重かったけどね」
ジュリアンは苦笑した。
「でもまあそのお礼にと思って、しばらくは返事もちゃんと書いていただろう?」
「……ジュリアン……私たち、約束してたよね?」
「約束?」
「帰ってきたら……結婚しようって……」
「ああー……」
ジュリアンは軽く頷いた。
「そういえば、昔はそんなことも言ってたね」
その瞬間、プリシラの胸の奥で何かが崩れ落ちた。
「……そんなこと?」
「いや、あの時はお互い若かったね。当時はもちろん本気だったよ? でも三年も経てば環境も変わるからね」
「……私は、私は……変わらなかったわ」
プリシラは涙を拭うこともせず、彼を見つめた。
「ずっと、あなたのことが好きだった。あなたと結婚するために……早く帰ってこられるように、必死で仕事をしていたのよ……?」
「そうか……頑張ったんだね」
ジュリアンは穏やかに頷いた。
「本当にお疲れ様。君のような人に好かれて、僕も幸せだったよ」
プリシラは言葉を失った。
彼は何も分かっていなかった。何も伝わってはいなかった。自分が何を言っているのか。私が今、どうして泣いているのか。
ジュリアンにとっては三年ぶりに再会した幼馴染が、突然現れて身勝手に騒いでいるようにしか見えないのだろう。
「……手紙を」
「ん?」
「私の手紙……返して……ちょうだい」
「ああ、いいよ。どこかにしまってあると思うから」
「……全部、返して」
「全部かあ〜」
ジュリアンは少し困った顔をした。
「さすがに全部残っているかは分からないな。古いものは捨てちゃったかもしれないし」
「…………っ」
「まあ、探してみるよ。ちょっと待っていてくれ」
そう言ってジュリアンは応接室を出ていった。
部屋に残されたのはプリシラとマリアンヌ、それから赤ん坊だけだった。
しばらく沈黙が続いた。
やがてマリアンヌが、静かに口を開いた。
「……あの、プリシラ様」
「……はい」
「お気持ちは分かりますけれど、あまり主人を責めないでいただけます?」
プリシラは顔を上げた。
マリアンヌは困ったように微笑んでいた。
「だって、お二人は正式に婚約されていたわけではないのでしょう?」
「……それは」
「でしたら、ジュリアンが誰と結婚しようと自由ではありませんか」
その言葉にプリシラは反論できなかった。
確かに、正式な婚約は結んでいなかったからだ。
両家の間では以前から縁談の話が出ていたものの、具体的な手続きを進めようとした矢先、プリシラの国外赴任が決まったのだ。
帰国したら改めて婚約を結ぼうと、そう話し合っていた。
だからこそ、ジュリアンも待っていてくれると信じていた。
「……おっしゃる通りです」
プリシラは小さく頷いた。
「私たちは、正式な婚約者ではありませんでした。ですから、ジュリアンが他の方と結婚したことを責める権利は……私にはないのでしょう」
「ええ、そうですわね」
「……でも」
プリシラは膝の上で拳を握りしめた。
「私たちは……愛し合っていたと、信じていたのです」
声が震えた。
「十年以上、一緒に過ごして……将来を約束して……三年間、ずっと彼のことを想っていました。だから、結婚したのなら……せめて、教えてほしかった。それだけなのです……」
マリアンヌはしばらく彼女を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「ふふっ」
「……え?」
「いえ、ごめんなさい。確かに随分と情熱的なお手紙でしたものね」
プリシラの呼吸が止まった。
「……手紙?」
「ええ。ジュリアンから聞いておりましたわ。毎月毎月、どれほど愛しているか、どれほど会いたいか、それはもう熱心に書いていらっしゃったとか」
「…………」
「ふふっ。素敵ですわね。そこまで一途に男性を愛せるなんて」
マリアンヌは口元に手を添えて笑った。
「私にはとても真似できませんわ」
プリシラは青ざめた。
手紙の内容を……自分がジュリアンだけに宛てて書いた、誰にも知られたくない恋文を、この女性は知っている。
「……ジュリアンが、あなたに?」
「ええ。夫婦ですもの。色々なお話をしますわ」
「……そんな」
「もちろん、悪気はありませんのよ」
マリアンヌは赤ん坊を優しく抱き直した。
「それにしても、正式な婚約もしていない男性を三年間も待ち続けるなんて……少し思い込みが激しかったのではありません? お気の毒だとは思いますけれど、いつまでも初恋に夢を見ていないで、そろそろ大人になられてはいかがですか?」
プリシラは何も言えずに俯いた。
もっと怒って、泣き叫びたかった。自分が今どれだけ酷い裏切りを受けたのか、どれだけ悲しいのか、どれだけ彼の事が好きだったのか叫びたかった。
けれど、目の前の女性はジュリアンの妻であり、その腕には彼の子供がいる。
何を言ったところで、もう失った時間は戻らない。
何よりジュリアン自身が彼女を選んだのだ。
三年間、自分が必死に働いている間、彼の帰りを待ち望んでいる間に彼は別の女性と恋をして、結婚し、子供まで授かっていた。
その事実はもう変わらなかった。
「お待たせ!」
その時、明るい声とともにジュリアンが戻ってきた。
両手には何通もの手紙を束ねたものが抱えられている。
「いやあ、結構あったよ。全部かどうかは分からないけど、とりあえず見つかった分を持ってきた」
ジュリアンがテーブルの上に手紙を置くと、プリシラは震える手を伸ばした。
見覚えのある封筒。自分が選んだ便箋。書いた宛名。封蝋。一通一通、どれも大切な想いを込めて書いたものだった。
「……あれ?」
プリシラは手を止めた。
束の下の方にある封筒はどれも封が切られていなかった。一通、また一通と、次々と確認していく。
最後の一年間に送った手紙はすべて未開封だった。
「……ジュリアン」
「ん?」
「……これ、読んで、いないの?」
震える声で、プリシラは一通の封筒を持ち上げた。
「ああ」
ジュリアンはあっさりと頷いた。
「その辺りは読んでいないね」
「…………」
「ほら、リゼットが生まれてから色々と忙しくてさ。子供がいると本当に大変なんだよ」
プリシラは封筒の表面を指でなぞった。
薄く積もっていた埃が、白い指先に付着した。
最後の手紙だった。
三ヶ月前。
帰国が決まった喜びと結婚への想いを綴った恋文。
何度も書き直して、ようやく完成させた手紙。
あのときの自分はどれほど幸せだっただろう。
ジュリアンがこれを読んだら、きっと喜んでくれる。
そう信じていた。
けれど彼は、封さえ開けていなかった。
「……私……帰ったら、結婚しようって……書いたの」
「え?」
「……この手紙に」
ジュリアンは一瞬きょとんとした後、苦笑した。
「ああ、そうだったんだ。ごめんね、読んでいなくて」
「…………」
「でも、読んでいたとしても返事には困っただろうなあ。もうマリアンヌと結婚していたわけだし」
ジュリアンはそう言って笑った。
「いやあ、それにしても独身は羨ましいよ。プリシラはまだ自由に時間を使えるんだからさ。僕なんて子育てで毎日大忙しだよ」
「もう、あなたったら」
マリアンヌがくすくすと笑った。
「そんなことをおっしゃったら、プリシラ様に失礼でしょう?」
「ははっ、そうかな?」
「そうですわよ。ねえ、プリシラ様?」
二人は楽しそうに笑い合っていた。
その腕の中では、赤ん坊が小さな寝息を立てている。
プリシラは何も答えなかった。
ただ、埃を被った最後の恋文を胸に抱きしめた。
三年間、ずっと信じていた。
自分の帰りを待っていてくれる人がいると。
どれほど辛い仕事でも、いつか彼と結婚できるのだと思えば耐えられた。
けれど、その未来は二年前に失われていた。
自分だけが、それを知らなかった。
「……失礼、いたします」
プリシラは手紙の束を抱え、ゆっくりと立ち上がった。
「あれ、もう帰るのかい?」
「……はい」
「せっかく三年ぶりに会えたのに。もう少しゆっくりしていけばいいじゃないか」
「……結構です」
「そうか。まあ、またいつでも遊びにおいでよ。マリアンヌも歓迎するからさ」
「ええ、もちろんですわ」
マリアンヌはにっこりと微笑んだ。
「今度はぜひ、お茶でもご一緒しましょう」
プリシラは深く頭を下げた。
それ以上、二人の顔を見ることができなかった。
屋敷を出ると、待っていたエマが駆け寄ってきた。
「お嬢様! どうなさいました? お顔が真っ青です!」
「……エマ……馬車を、出してちょうだい」
「ですが、ジュリアン様は……」
「……お願い……もう、帰りたいの……」
エマはそれ以上何も聞かなかった。
馬車に乗り込むと、プリシラは膝の上に手紙の束を置いた。
その一番上には、三ヶ月前に送った最後の恋文があった。
封蝋は綺麗なままだった。
プリシラはそれを見つめていた。
やがて、ぽたりと涙が落ちた。
一滴。
二滴。
涙は次々と溢れ、封筒に小さな染みを作っていく。
「……ジュリアン」
彼女は誰にも聞こえない声で呟いた。
「……どうして、待っていてくれなかったの……?」
返事はなかった。
もう、どれほど手紙を書いても。
彼から返事が届くことはないのだろう。
三年間、彼女が帰る場所だと信じていたものは、最初からそこにはなかったかのように消えてしまっていた。
馬車はゆっくりと走り出した。
窓の外には、三年ぶりの懐かしい王都の街並みが広がっている。
帰国したらジュリアンと一緒に歩きたいと思っていた通り。
二人で訪れたいと考えていた菓子店。
結婚したら住みたいと夢見ていた、白い壁の小さな屋敷。
何もかもが、三年前と変わらずそこにあった。
変わってしまったのは、ジュリアンだけだった。
プリシラは最後の恋文を胸に抱きしめたまま、声を殺して泣き続けた。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




