婚約破棄されたその場で、この国いちばん縁談を断ってきた宰相閣下に求婚しました ~断られましたので、明日も参ります~
「お前を貰う男など、この国のどこにもいない」
婚約破棄の夜会で、元婚約者ジルベール様はそう言って笑った。
二十三歳、伯爵家の嫡男。金の前髪を額から撫でつけ、招待客の輪をゆっくり見回す。シャンデリアの光を受けた青い目は、私よりも、周りの反応を楽しんでいるように見える。
「声の大きい女は伯爵家の品位に合わん。破棄されて当然だ」
扇の陰から、くすくすと笑う声が広がる。ついさっきまで甘かった葡萄酒の匂いが、今は喉のあたりに重くまとわりつく。
私はマリエット、二十歳。子爵家の三女で、声が大きいのが取り柄です。
算盤も得意だ。父の帳簿の誤りを、子どもの頃から見つけてきた。役に立つ声なのに、そばにいるのは駄目なのかしら。胸の奥がきゅっと冷え、ドレスの中で背中が心細くなる。
この国のどこにもいない。――本当かしら。いちばん縁談を断る方が受ければ、国じゅうを探す手間が省ける。
「確かめてまいります」
「は?」
「宰相閣下に伺います」
ドレスの裾をつまみ、すぐに歩き出す。背中へ飛んできた声は、さっきよりよほど大きい。
「俺の話は終わっていないぞ!」
「私の話を始めてまいります!」
私の声は、広間の端の楽師まで届く。弦の音がひとつ、ぷつりと途切れる。
壁際で一人、葡萄酒の杯を持つ黒髪の方。宰相オーレリアン閣下、二十八歳。家同士の縁談を百回断った、この国いちばんの独身だ。
私は広間を横切り、その前で膝を折る。磨かれた床にドレスの裾が広がるのも待たず、まっすぐ手を差し出す。
「閣下。私と結婚してくださいませ」
広間が凍りつく。閣下は眉ひとつ動かさず、身をかがめて私の顔をのぞく。近づいた灰色の目に、差し出した手まで見透かされそうだ。
「断る」
即答。断られた途端、目の奥がぱっと明るくなる。こんなにはっきり断ってくださる方は、初めてだ。笑うためでも、周りに聞かせるためでもない、私への返事。
「では明日も、求婚に参りますね」
閣下が、口元へ運びかけた杯を戻す。招待客は口を開けたまま、誰も次の息を思い出せないようだ。先に声を取り戻したのは、ジルベール様だった。
「正気か! 閣下は、百回断った方だぞ!」
「はい! ですから、確かめ甲斐があります!」
灰色の目が、ジルベール様から私へ戻る。今度は私も、まっすぐに見返す。
「子爵令嬢。確かめたいのは、あの男の言葉だろう?」
「はい。閣下ご本人に伺うのが早いでしょう?」
「その反証に、私との結婚は使わせない」
「では、反証でなくなったら?」
「……そのときに聞く」
低い声なのに、不思議とよく通る。私に向けられた最後の響きが、耳の奥に残ってくすぐったい。
「でしたら、お話を伺う時間をくださいませ」
閣下の指が、杯の脚から離れる。細い硝子に添えられていた指先へ、つい目がいく。
「始業の鐘前なら、門で聞こう。朝八時半から、九時の鐘までだ」
「八時半ですね! 鐘より先に参ります!」
「……早すぎる」
差し出した私の手は、空のまま。それでも、下ろす指先はもう冷たくない。閣下の言葉の先には、明日の朝、私が訪ねてよい門がある。
「閣下、明日は花束を持ってまいりますね」
◇
翌朝、王宮の東の端にある宰相府へ。朝露の残る石畳が光をはじく。花束を抱えて急ぐたび、みずみずしい葉の匂いが胸元から立ちのぼる。
門前には、書記たちの人垣。私の花束に気づくと、みんなが少しずつ横へずれていく。花より先に、私の顔をのぞき込みながら。
「本当に来たぞ! 道を空けろ!」
人垣が横へ横へと伸び、門までの道だけが細長く空く。ずらりと並ぶ顔のあいだへ、私は花束ごと進んでいく。
「今日も来たか!」
人垣の先頭で、白髪の老人が手を振る。耳元の髪がぴょんと跳ね、その勢いに合わせて大きな袖が揺れる。六十歳の国王陛下だ。袖からは、札まではみ出している。
陛下が掲げた札には、〈宰相は今日、求婚を受けるか〉とある。
「昨夜は余が宰相を連れ出したのじゃ。余が遊戯卓へ退いた間に、面白いことをしてくれたのう! 今朝は玉座の間で賭けを始めたぞ!」
「まあ、札までご自分で!」
「そなたも賭けるか? 娘」
「いいえ! 私は求婚する側ですので!」
「わっはっは! それはそうじゃ!」
門前いっぱいに響く笑い声を割って、聞き覚えのある、得意げな声が飛ぶ。
「『断る』に金貨十枚。俺の見立ては外れない」
人垣の後ろで、ジルベール様が金貨を並べる。硬い音が重なり、朝日に歯が白い。昨夜と同じ、返事を知っているつもりの笑い方だ。
「今日で諦めろ。これ以上は恥の上塗りだぞ」
「恥なら、昨夜のうちに全部かいてまいりました!」
人垣がどっと沸く。笑い声に押されるように、花束の葉先まで軽く揺れる。
私は門に立つ閣下へ、花束を差し出す。今朝も眉ひとつ動かない静かなお顔。朝の光の下では、灰色の目が昨夜より少し淡く見える。
「今日も結婚を申し込みます! 花もどうぞ!」
灰色の目が、私より先に花へ移る。一拍。花の香りが、私たちのあいだを満たす。
「断る」
陛下が札を伏せる。ジルベール様の笑みは、もう隠す気もなさそうなくらい大きい。
「断ると言った」
「はい。ですから明日も」
花束を受け取った閣下の手に、きゅっと力がこもる。薄い包みが鳴る音まで、すぐそばで聞こえる。
「なぜ諦めない?」
「閣下が断った縁談は百回。私が閣下に断られたのは、まだ二回です」
「返事を帳尻で決めるつもりか?」
「決めるのは閣下です! お花は、飾っていただけますか?」
閣下は私と花束を、黙って見比べる。返事を待つあいだも、私の目はどうしても花を持つ手へ戻ってしまう。
「……君も入れ。花瓶があったはずだ」
「私も探します!」
門の外で、ジルベール様の笑顔が固まる。私は招かれるなり駆け込み、執務室の戸口でつんのめる。顔を上げると、閣下はもう、一周目に入っている。
一日目は花束だ。閣下はそれを抱え、花瓶を探して執務室を三周する。
紙とインクの匂いがする部屋を、大きな花束が三度通り過ぎていく。書類の山からのぞくお顔は、ずっと無表情のまま。
「花瓶でしたら、閣下の机にございます」
「……見えている」
「三周なさいました」
「数えるな」
書記さんの肩が小刻みに震える。閣下は机の花瓶へ、一輪ずつ花を移す。茎の向きをそろえる指先は、驚くほどていねいだ。さっきまで花束を抱えていた私の手は、空になっても同じ形のまま、下ろす場所を忘れている。
こんな手で、花を扱う方なのね。断る声だけ聞いていたら、知らないままだった。
◇
二日目は、手作りの昼食を持っていく。
「今日も来たか!」
朝八時半の門で、陛下が私へ親しげに手を振る。人垣は昨日よりひとまわり厚く、その向こうから背伸びする顔まで見える。
「して、今日は何を持ってきた?」
「昼食です! 陛下の分はありません!」
「なんと!」
ジルベール様は、昨日の勝ち分をそっくり札の前へ積み直す。金貨を置く手つきまで、見せびらかすようにゆっくりだ。
「昨日の倍を『断る』に積む。余裕だ!」
「今日のお返事はいかがですか? 私は、閣下と結婚したいです!」
閣下は口を開きかけ、閉じる。私は包みを抱えたまま、その唇がもう一度動くのを待つ。
「断る」
札が伏せられる横で、私は包みを掲げてみせる。まだ聞いていないことがある。
「きゅうりはお好きですか?」
「好きだ」
「では明日も、閣下のお好きなものを教えてくださいませ」
昼休み、招かれた執務室。閣下は机の上の包みを、両腕で抱え込んでいる。私が結び目へ手を伸ばすと、その腕にぎゅっと力がこもる。ほどきたい紐が、遠くなる。
「その包み、ほどきますね」
「待て。これは私にくれた分だろう?」
「開けてくださいませ! 私の分は、こちらです」
「……ならば、隣へ」
並べたのは、焼き鶏ときゅうりを挟んだパン。香ばしい匂いに、きゅうりの青い香りが混じる。閣下は黙って、ひと口ずつ確かめるように食べる。隣にいると、飲み込むまでの間まで気になってしまう。
「閣下、今、お顔がちょっと緩みました!」
「緩んでいない」
「緩みました! 目尻が、ほら、こう!」
閣下は答えず、次のひと口を運ぶ。包みの上のパンが小さくなり、最後のひとかけまで、きれいになくなる。
「まあ、全部! 嬉しいです!」
「……全部、美味かった」
閣下は空の包みの端をそろえ、丁寧に畳む。その指を見ていた私の前へ、今度は机から予算表が出てくる。
「明日、会議の数字を頼みたい。君の声と、確かめる目を借りたい」
「数字も声も、私に任せてくださいませ!」
「……声は、ほどほどでいい」
「ほどほどは、苦手です!」
「……知っている」
胸が、どきんと鳴る。頼まれた。この声を、閣下が。予算表の数字がいつもよりくっきり目に入る。明日は私の声で、この方を助けられる。
翌朝も同じ時刻、同じ門へ。見慣れ始めた道なのに、門が見えると足が急ぐ。
「今日も来たか!」
陛下が人垣の中から、私を手招きする。その勢いだけ見れば、すっかり私の味方に見える。
「さ、さらに倍だ! 今日も俺の勝ちだ!」
「まだ答えていない」
ジルベール様の口が、開いたまま固まる。言いかけの得意げな声まで、そこに引っかかったようだ。
「ど、どうせ断るくせに!」
「黙っておれ、今よいところじゃ!」
「今日こそ、私と結婚していただけますか?」
目が合う。閣下は視線を外さない。私も外せず、返事を待つ。三つ数えても、まだ。抱えてもいない花束の代わりに、指先がそっと丸くなる。
「断る」
閣下の「断る」が、日ごとに少しずつ遅くなっている気がする。待つ間に胸が忙しくなるのは、私だけなのかしら。
札が伏せられ、九時の鐘が鳴る。朝の空気を震わせる響きに、門前のざわめきが重なる。
「見物は終わりじゃ、仕事へ戻れ!」
私も閣下について、近くの貴族院へ。午前からの会議で、閣下が街路の修繕予算を説明する。隣では聞き取れる低い声も、広い議場の後ろの席までは届かない。
「後ろまで数字が届かん!」
「では、後ろの方まで届けます!」
「聞こえる! そこの令嬢、次の項目も頼む!」
「はい! 続けて、石畳の張り替えです!」
算盤をはじき、小計と総額を合わせる。珠の乾いた音が、指に心地よい。閣下の指が表の数字を差し、私は頷いて声を張る。天井の高い議場に声が跳ね返り、後ろの席へ吸い込まれていく。
三日目、私は閣下の隣で数字を声に出す。予算は一日で通った。
夕方の退出口には斜めの光が差し、議員たちが次々に礼を言いに来る。傍聴していたジルベール様は、その列に入れず、壁際で腕を組むばかりだ。
そこへ裾を揺らして陛下が現れ、閣下の顔を下からのぞき込む。私はまだ予算表を手にしたまま、足を止める。
「宰相、あの娘を断る理由を三つ言え」
「……一つ、声が大きい」
「それだけか? 二つ目は?」
「…………陛下、お待ちを」
陛下がさらに身を乗り出す。逃げ場のなくなった閣下の耳が、うっすら赤い。夕日のせいかと思って、つい見つめてしまう。
「ないのだな!」
「……その一つ目に、今日は助けられました」
「その声を頼んだのは閣下です!」
「君に頼んでよかった」
顔が熱い。もう用は済んだはずなのに、足が帰り道へ向かない。役に立てた嬉しさだけなら、こんなふうに言葉を探さなくてもよいはずだ。確かめるために通い始めた門の向こうに、今は、この方のお顔ばかり思い浮かぶ。
「では明日も、閣下に会いに参りますね。確かめるためではなく、閣下に会いたいのです」
「マリエット。……また、君と話したい」
初めて、名を呼ばれる。いつも聞いている自分の名なのに、胸の奥へ届くまで息ができない。返そうとした予算表を、閣下の手が下から支える。紙を挟んだ指先から、私もまだ手を離せずにいる。
◇
朝、喉が焼けるように痛い。息の通り道に熱がこもり、いつもの声が出てこない。風邪で休むと家から宰相府へ知らせを出し、寝台で一日を過ごす。
夕方、応接間の窓辺へ、仕事を終えた書記さんが見舞いに来る。窓から入る光は柔らかいのに、喉の奥はまだひりつく。私の声は、囁くのがやっとだ。
「閣下が『来ないのか?』とお尋ねでした」
「私を、ですか?」
「私めが『風邪だそうです』とお答えすると」
「それで、閣下は?」
書記さんは背筋を伸ばし、ひと言ずつ区切る。あの短い口ぶりをまねるつもりらしい。私は窓辺で、知らず前のめりになる。
「『……見舞いの作法を調べろ。今すぐだ!』です。お急ぎでした」
「続きを、早くお願いします!」
書記さんの話では、四日目の閣下は一日中、窓を見ていたそうだ。
窓を。私の来ない、門のほうを。あの灰色の目に映る景色の中に、今日は私がいない。
「……今日は、役に立つ声が出ません」
「見舞いは、働いたお礼ではありませんよ。閣下ご自身が、これを届けるようにと」
「閣下が……私に?」
「はい。作法の本を机に積み上げて、お読みになって」
差し出された包みへ、伸ばしかけた手が止まる。仕事の用では、ないのね。少し不器用に固くなった結び目まで、急いでほどくのが惜しくなる。
「……開けても、よろしいですか?」
「どうぞ。蜂蜜と、喉に効く薬草茶だそうです」
瓶の蓋をひねると、蜂蜜の甘い匂いがふわりと広がる。息を吸うたび痛んでいた喉の奥へ、柔らかなものがそっと届く気がする。
「陛下は『今日は求婚がない。勝負は明日じゃ』と、札を伏せられました」
「ジルベール様の賭けは?」
「今朝、小遣いを全部お積みになりました。勝ち負けがつかないので、山はそのまま明朝へ」
「閣下は、何か……?」
「陛下に背中を叩かれて、『待つだけでは会えんぞ』と言われておいででした」
窓の外、門の向こうに、そのジルベール様が立っている。夕方の静かな空気に、あの声だけが大きく飛び込んでくる。
「有り金を『断る』に積んだんだぞ! 今日に限って来ないとは!」
「お休み中ですので、窓を閉めます」
書記さんが窓枠に手を掛けると、門外の怒鳴り声が急に縮む。ジルベール様が門をくぐり、窓の下まで駆け寄ってくる。今度は声より、足のほうが忙しい。
「ま、待て、小声なら聞いてくれるか?」
「閣下のお話を、聞いているところです」
窓の下で、ジルベール様がぽかんと口を開ける。私は書記さんへ顔を寄せる。小さな声でも、これだけは聞き落とされたくない。
「では明日も、会いたいと閣下にお伝えください」
「今夜のうちに、お届けします」
閣下から届いた包みを、両手で大切に抱える。ほのかに、執務室と同じインクの匂いがする。声が戻る前に、伝えたいことができるなんて。喉はまだ痛いのに、明日のことなら声にしたくてたまらない。
◇
翌朝、八時半。玄関へ出られるくらいには、喉が楽になっている。息を吸うと、昨日より深く朝の空気が入ってくる。
扉を開けると、客を迎えていた父の隣に閣下が立っている。足が敷居のところで止まる。その後ろには陛下とお付きの従者、それから、なぜか馬を連れたジルベール様まで。
「今朝は宰相に『今日はそなたが行くのか!』と言うて、追って来たぞ!」
「閣下が、先に?」
陛下が大きく頷く。その袖からジルベール様が札を奪い取り、文字の前へ手綱を突き出す。
「今日は愛馬も『断る』に積む!」
「ジルベール様、その子は関係ありません!」
「関係ある! 俺の見立ての証人だ!」
栗毛の馬が鼻を鳴らし、きっぱりとそっぽを向く。閣下はそれを見もせず、父へ向き直る。
「お嬢さんとの縁談を申し込みに来た」
「まず、娘の返事を聞いてください」
父が一歩下がり、私の前を空ける。閣下とのあいだに、朝の光だけが残る。
「余は黙っておるぞ!」
「陛下、お声が」
従者に袖を引かれ、陛下が両手で口を押さえる。閣下が、私の目の高さまで身をかがめる。夜会でも、こんなふうに顔をのぞかれた。けれど今は、差し出す手より先に、胸の音を聞かれてしまいそうだ。
「百一回目は、私から言わせてくれ」
「私からの求婚は?」
「家からの縁談とは、別に数えている」
「閣下は、どうしてずっと独りで?」
閣下の手が、私の前で開く。朝の光がその掌を照らす。差し出される側になると、こんなにも指の置き場が分からなくなるのね。
「今までの縁談は、宰相の椅子と家の話ばかりだ。君から会いたいと聞いても、次の朝の求婚を待ってしまった」
私は開かれた手から、閣下のお顔へ目を上げる。灰色の目は、今日もそらされない。
「慈善市で、集金係が少なく記した売上を、君は算盤で確かめた。誰も言えなかった不正を、広場の端まで届く声で指摘する君を覚えている」
「あの場に、いらしたのですか?」
「その声と算盤で確かめる君に惹かれた。声が出ない日も、隣にいてほしい。私から会いに来ればよかった」
「……閣下」
続きが声にならない。喉の奥に、昨夜の蜂蜜の甘さがよみがえる。声が出なくても、ここにいてよいのだ。その言葉を胸の中でそっと確かめながら、差し出された手へ指を伸ばす。
「私に断られた人の気持ちが、今になって分かる。百回と、君の四回分だ」
「はい」
「だから、断るな」
「……閣下、私、断ったことがありません」
閣下の口が止まる。陛下は、口をぎゅっと結んだままだ。短い沈黙のあと、閣下は私に届くくらいまで声を小さくして、頼み直す。
「私と結婚してくれ、マリエット」
「はい。オーレリアン様と結婚いたします」
私が手を取ると、伸ばした指が温かな掌に収まる。その向こうで、父が目元を押さえる。
「……よかったなあ、マリエット」
「はい、お父様!」
その横から、札が突き出される。ジルベール様が〈受けるか〉の文字を、指で何度も叩く。そこだけ読めば何とかなるとでもいうように。
「宰相は受けていない! 申し込んだのだ!」
私は自分から、一歩前へ出る。喉の奥に残るひりつきより、もう一度伝えたい言葉のほうが強い。
「ジルベール、黙って聞け! 札を締めるのは、娘の声じゃ!」
「閣下。私と結婚してくださいませ」
「受ける」
「……受けて、いただけました」
目の奥が熱くなる。すぐそこの灰色が滲みそうで、まばたきさえためらう。ジルベール様の、札を持つ腕がだらりと下がる。陛下がその札を、ひょいと取り上げる。
「締まったぞ!」
積まれた金貨が、触れ合う硬い音を立てながら、従者の手へ渡る。
「その馬を余の厩へ連れてゆけ」
五日目、ジルベール様の愛馬は国王の厩へ向かう。
従者に手綱が渡る。門を出ていく馬の蹄が石を鳴らすと、ジルベール様が慌てて手を伸ばす。
「待て、おい!」
馬より先に、陛下が振り返る。白髪の跳ねたお顔は、朝の光の中で実に晴れやかだ。
「余もそなたの馬が気に入ったぞ!」
元婚約者様は私へ向き直り、唇を震わせる。あの夜会で招待客を見回していた青い目が、今は落ち着く先を探すように揺れる。
「……この国のどこにも、いないはずだったのに」
「確かめてまいりました」
オーレリアン様の手へ、私の手を重ねる。見上げると、灰色の目がすぐそこで細くなる。広間の端まで届けなくてもよい距離に、囁くような声がこぼれる。
「……今の声も、聞こえましたか?」
「聞こえる。君の隣だから」
重ねた指に、彼の指が応える。朝の風は少し冷たいのに、包まれた手は温かい。もう花束を抱える形のまま、宙に残しておかなくてよい手だ。
「では明日も、オーレリアン様に会いに参りますね」




