第七話:算盤(そろばん)と隠し道(みち)
深夜の筑波山麓、古神の社を包む霧は深い。
柿崎景家は、殺気を放ちながら配下の僧兵が執り行う祈祷を眺めていた。景家は迷信など信じていない。だが、兵たちの間に広まった「腹下し」という実害を抑えるため、形ばかりの儀式で場を繋いでいた。
「……阿呆らしい。誰も現れぬではないか」
景家は周囲の闇を睨み据えた。伏兵を配し、今か今かと獲物を待っていたが、境内には静寂が満ちるばかりである。一刻が過ぎ、景家の胸に妙な胸騒ぎが去来した。
(何かがおかしい。わしを嘲いに来る者がいるならば、もう現れて良い刻限だ。……まさか、ここへ留めておくこと自体が奴らの狙いか?)
そう直感した瞬間、城の方角から微かな「音」が風に乗って届いた。それは戦の叫びではなく、不気味なほどの静寂を破る動揺の気配であった。
「戻るぞ! 祈祷は中止だ!」
景家が叫び、全速力で山道を駆け戻った時には、すべてが手遅れであった。
一方、小田城内。
夕刻に運び込まれた「接収物資」を囲んだ守備兵たちは、次々と腹を押さえて崩れ落ちていた。浪紫が仕込んだ、野老のエキスを極限まで濃縮した毒塩。上杉軍の補給路に直接打ち込まれたこの「策」は、文字通り城内の抵抗力を根底から奪っていた。
「……今です」
城のすぐ近く、湿原に隠された秘密の入り口。
浪紫は、氏治と政貞に向き直った。氏治はかつて遊んだ庭を歩くように、迷わず暗い穴の中へと進む。
「浪紫殿、わしはこの城の隅々(すみずみ)まで知り尽くしておる。政貞、参るぞ!」
小田勢は、城門を力で破る必要などなかった。毒塩によって骨抜きになった城内へ、古来の「隠し道」から音もなく侵入したのである。
一刻後。
肩透かしを食らって城下へ戻ってきた景家は、本丸に再び翻る「小田」の旗を見て、愛槍を地面に叩きつけた。
「……何事だ! 誰か、説明せよ!」
そこへ、青い顔をした守備兵の生き残りが、命からがら駆け寄ってきた。
「柿崎様……! 城の要所を小田勢に押さえられ、私も命からがら逃げ出した次第にございます。城内には、我らの知らぬ道を抜けてきた軍勢が……!」
「……小田の軍勢だと? あのような小勢、どこにそれほどの力があった!」
景家が吼える。兵は震えながら、さらに不気味な報告を口にした。
「それが……。逃げ出す最中、見たこともない奇妙な装束の男が、小田勢にあれこれと指図をしておるのを目撃しました。あの男が声を上げると、小田の兵たちがまるで別人のように整然と動くのです。小田には、恐るべき軍師が潜んでおります!」
景家は歯ぎしりし、暗闇に沈む城を見上げた。
あえて姿を晒し、敵に「未知の脅威」を刻みつけた浪紫の警告。景家の脳裏には、小田氏治という凡将の背後に、計り知れない「影」が潜んでいるという不気味さが焼き付いた。
高みの本丸からその様子を冷徹に見つめる浪紫は、手元の帳面を閉じた。
(……やはり、姿を晒したのは悪手だったか)
景家の性質上、これでしばらくは無謀な攻めを控えるだろうが、同時に「浪紫」という個人が標的になるリスクも跳ね上がった。合理的に考えれば、影に徹し続けるべきだった。
(小田殿という『神輿』を担ぎ、生存の確率を上げるつもりだったが、このままだと私が神輿を動かす糸そのものに見えてしまうな。……さて、どう身を処すべきか)
眼下で悔しさに震える景家の姿など、浪紫にとってはもはや路傍の石に過ぎない。彼の意識はすでに、奪還した後の「現実的な算盤」と、己の安全な居場所をいかに構築するかという、次なるフェーズへと向いていた。




