第六話:城中の毒、外の牙
奪われた本拠、小田城。
その本丸の一室で、上杉家の将・柿崎景家は、届けられた報告書を前に眉をひそめていた。謙信の信頼厚い勇将である彼は、戦場の風を嗅ぎ分ける鋭い感覚を持っていたが、今、城内に漂う空気には妙な「澱み」が混じっている。
「……呪い、だと?」
「はっ。麓の村で兵糧を検分した斥候たちが、一斉に腹を下し、這走して戻りました。村人たちは『小田の守護神が祟りをなした』と怯え、兵たちの間にも動揺が広がっております」
景家は、報告にきた兵を下がらせると、窓外の城下を見下ろした。
そこには、浪紫が放った「行商人」たちが、巧妙に噂の種を蒔いていた。彼らが売るのは、村で採れた新鮮な野菜や魚だが、それには必ず「小田の呪いを受けぬためのまじない」という話が添えられていた。
一方、山中の砦。
浪紫は、戻ってきた工作員たちから、城内の詳細な情報を吸い上げていた。
「……なるほど。城内の上杉勢は、連日の霧と湿気に加え、この奇妙な腹痛騒ぎで、士気が著しく低下しているわけですね」
浪紫は、手元の帳面に、城内の兵力配置と不満の溜まり具合を独自の記号で書き込んでいく。
「小田殿、機は熟しつつあります。ですが、まだ足りない。上陸の将、柿崎という男は相当な切れ者のようです。単なる噂話だけでは、城を棄てさせることはできないでしょう」
「ほう、柿崎か。確かにあの男、力攻めでは到底敵わぬ強者よ。……して、浪紫殿。次は何を仕掛ける?」
氏治は、浪紫が描く図面を面白そうに覗き込みながら、小皿に盛られた「焼き味噌」を舐めた。香ばしく焦げた味噌の香りが、窮乏の中にある一行の結束を、言葉なく繋いでいた。
「『情報の格差』を利用します。柿崎は今、この『呪い』の背後に誰がいるのか、必死に正体を掴もうとしているはずです。ならば、彼に『偽の正体』を掴ませ、こちらが望む場所へ引き摺り出します」
浪紫の口角が、わずかに上がった。
「菅谷殿、城内の協力者に伝えてください。『小田城の地下に眠る古き神の祠を、上杉が陣を敷いたことで汚してしまったのが原因だ』と広めるのです。そして、その怒りを鎮めるための祈祷を、特定の刻限に、城外の『ある場所』で行わねばならない……という筋書きを流すのです」
「……祈祷だと? そんなことで上杉が動くものか」
政貞が吐き捨てるように言う。
「いえ、動きます。柿崎のような男ほど、兵の不安を払拭するために、表向きは祈祷を許しながらも、裏ではその場に現れるであろう『呪いの主』――すなわち私の正体を暴こうと、自ら網を張りに来るはずです。その時こそ、彼が城を空ける瞬間であり、我々が『真の正体』を突きつける時です」
浪紫は、自らの眼鏡を指先で直した。
敵の知性に敬意を払い、その知性ゆえに陥る罠を仕掛ける。それが彼の流儀であった。
静寂が支配する砦の夜。
浪紫は、この泥臭い戦国の空気に、自身の冷徹な計算が浸透していくのを感じていた。




