第二話:泥中の信義(しんぎ)
降り続く雨は、小田氏治一行の軍靴から体温を奪い去っていく。
逃げ込んだのは、常陸の湿地帯にひっそりと佇む、半ば崩れかけた無人の堂宇であった。
堂内には、重苦しい沈黙と殺気が充満している。
「さて……」
濡れた具足を外した氏治が、焚き火の微かな光の中で、浪紫をじろりと眺めた。その目は、先ほどまでの楽天的なものとは一変し、戦国大名としての鋭い「品定め」の光を帯びている。
「お主、何者だ。その奇妙な装束、そして聞いたこともない口調……。どこぞの他国から参ったのか? この状況でわしに近づくからには、それ相応の理由があろう?」
(……ここで不審を買えば、次の瞬間には首が飛ぶな)
浪紫は眼鏡の奥で、自身の生存確率を瞬時に計算した。今は小田氏治というこの「駒」を利用し、まずはこの戦国時代という地獄で安全圏を確保することが最優先だ。
「小田殿、今すぐその焚き火を消すべきです」
浪紫は、感情を排したビジネスライクな声で告げた。
「煙は雨の中では低く停滞し、上杉の追手に場所を教える目印になります。今のあなたに必要なのは、根拠のない希望ではなく、あと数刻を生き延びるための『隠蔽』です」
「隠蔽、だと?」
「私は『物の価値』と『理』を計算する者です。小田殿、私は無駄死にが嫌いでしてね。あなたがここで討たれれば、私まで巻き添えを食う。私があなたを助けるのは、それが私の生存にとって最も合理的だからです」
「貴様ッ! 我が殿に対し、なんたる不遜な言い草か!」
傍らに控えていた家臣、菅谷政貞が激昂し、抜刀した。鋭い切っ先が浪紫の喉元に突きつけられる。他の家臣たちも一斉に殺気を放った。正体不明の男が、自分たちの敬愛する主君を「利用する」と言い放ったのだ。当然の反応であった。
だが、浪紫は瞬き一つせず、政貞の刃を冷ややかに見返した。
「……殺したければお好きに。ですが、私を斬れば、あなた方はこの数刻以内に上杉の包囲網に捕らわれ、全滅するでしょう。私を斬るという『感情』を取るか、生き延びるという『実利』を取るか。判断するのは、家臣のあなたではなく、主君である小田殿です」
「……待て、政貞。剣を引け」
氏治が静かに制した。
「面白い男だ。己の身を守るためにわしを利用すると、こうもはっきり申すか。政貞、この男の眼鏡という奇妙な細工に映る、迷いのない目が気に入った。……して、隠密に逃げ延びる策があると言うのだな?」
「『逆』を突くのです」
浪紫は、家臣たちの不満を押し込めるように、地図を指差した。
「追手は小田殿が土浦の堅城へ向かうと踏んでいます。だからこそ、我々はあえてその逆、最も険しく、かつ彼らが逃げ道ではないと断じる湿原を抜けます。植物の群生を見れば、地盤の硬さは判別できます。殿、私を信じろとは言いません。ですが、私の見立てが正しければ、あと半刻で雨は上がり、月が出る。その月明かりを頼りに、私が先頭に立ち、沈まぬ道を示しましょう。もし私が間違え、泥に沈めば、その時は私の首を跳ねて捨てて行かれればよろしい」
夜明け前、浪紫の読み通り雨は上がり、一行は誰一人沈むことなく追手の包囲網を抜けた。
辿り着いた安全圏の砦で、浪紫は泥まみれのまま、そっと懐から一粒の焼き米を口にした。「戦の後の静寂」のような、滋味深い苦味が広がった。
(まずは第一段階クリア、といったところか……)
浪紫は、氏治の背中を見つめながら、次なる「生存戦略」を練り始めた。




