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第一話:常陸(ひたち)の境界線

霧を抜けた浪紫零夜はしれいやが最初に感じたのは、肌を刺すような冷たい雨と、都会では感じることのない土の臭い。そして、暴力的なまでの「静寂」だった。

 つい先ほどまで耳の奥にこびりついていた、喧騒けんそうや車の走行音が、まるでスイッチを切ったように消失している。

「……何だ、これは」

 視界を覆う霧が引いていく。足元を見れば、磨き上げられたジョン・ロブの革靴が、黒い泥に深く沈み込んでいた。見渡す限り、そこは原生林のような深い森だった。ビル群も、街灯も、執拗しつようなスマートフォンの通知音も、すべてが消え失せている。

 浪紫は震える手でポケットを探った。スマートフォンがない。鞄もない。あるのは自宅の鍵と、小銭入れの端金はしたがねだけだ。

 彼はプロのコンサルタントとして、脳内で強制的に「パニックを抑えろ」と命じた。深呼吸を一つし、五感を研ぎ澄ます。

 現在地、不明。状況、不明。

 誘ったはずの猫の姿もない。

(局所的な記憶喪失か。あるいは何らかの薬剤による拉致か。いずれにせよ、私の身に異変が起きているのは確かだ)

 その時、草木をなぎ倒すような荒々しい足音が複数、近づいてくるのを察知した。浪紫は咄嗟とっさに大樹の陰に身を潜めた。

(何者だ?この状況で迂闊うかつに姿をさらすのは愚策)

 呼吸を整え、気配を殺す。コンサルタントとして培った危機管理能力が、ここが尋常な場所ではないと本能的に告げている。

 現れたのは、十数人の一団だった。

 その姿は無惨むざんというほかない。具足ぐそくはへこみ、あるいはひもが切れ、足を引きずっている者もいる。錆びた鉄の臭いと、重度の汗臭さ。敗残兵――その言葉が浪紫の脳裏に浮かんだ。

(この格好……時代劇の撮影か? いや、それにしては皆の表情が真剣すぎる。それにこの血の匂いは……本物だ)

 脳内で「現代ではない」という非論理的な推測が浮かび上がり、それを即座に打ち消そうと試みる。

(まさか。タイムトラベルなど、物理学的な飛躍が過ぎる。これは、どこか地方の過激な宗教団体か、あるいは……)

 しかし、彼らの持つ刀剣、その具足の意匠、そして顔に刻まれた土や血の汚れは、あまりにも生々しい。浪紫は冷静さを装いながらも、必死に思考を巡らせた。

(ここはどこだ?なぜ私はここにいる?一体何が起きている?)

 一団が浪紫の潜む樹のそばまで来たとき、一人の家臣が、わずかに揺れる木の葉に気づき、鋭く叫んだ。

何奴なやつだ!そこに隠れるは誰だ!」

 間髪入れずに、何本もの刀がさやから引き抜かれる。「キンッ」という金属音が森に響き渡り、白刃しらはが浪紫の目に突きつけられた。

「くっ……!」

 反射的に両手を上げて降伏の姿勢を取る。首筋にひやりと冷たい切っきっさきが当てられ、浪紫は初めて本物の死の恐怖に直面した。

(まずい。この状況で殺されるのは、最も非合理な結末だ!)

 その時、殺気立つ家臣たちを制したのは、一団の先頭にいた泥まみれの男だった。

「待て待て、菅谷すがや。見てみよ、その奇妙な装束を。刺客がそのような目立つ格好をするものか。それに……」

 男は浪紫の目の前まで歩み寄ると、その瞳を覗き込み、悪戯いたずらっぽく笑った。

「……その方、ひどく腹を空かせておるような顔をしておる」

 男の言葉は、現代の日本語とは微妙に異なる抑揚を持っていた。だが、不思議と意味は通じる。浪紫の頭の中で、彼の知識と目の前の光景が急速にリンクし始めた。

「菅谷?」

 その名に聞き覚えがあった。ゲームの画面で、あるいは歴史の資料で何度も目にした名だ。小田家の重臣、菅谷政貞すがやまさただ

 そして目の前の男の顔を凝視する。整っていないひげ、日焼けした肌、そして場違いなほどの朗らかな笑顔。ゲームのドット絵やイラストとは似ても似つかないが、その「雰囲気」だけが、浪紫の記憶にある人物と重なった。

「失礼だが……ここは、どこだ。今は何年だ」

 浪紫は、自分でも驚くほどかすれた声で問うた。

 男は可笑おかしそうに笑った。

「ここは常陸ひたち、小田の領内りょうないよ。年は永禄えいろくの世。見ての通り、わしらは今、上杉の軍に城を追われ、山狩りを逃れておる最中よ」

 永禄。

 常陸。

 上杉による落城。

 すべてのピースが、最悪のパズルのように組み合わさっていく。

(嘘だ。私は、野良猫を追っていたはずだ。それがなぜ、四百年も前の戦場いくさばにいる?)

 激しい眩暈めまいが浪紫を襲った。情報の精査を誇りとしてきた彼の脳が、処理限界を超えて悲鳴を上げる。目の前の「現実」は、あまりにも非合理的すぎた。

 膝をつきそうになった浪紫の前に、男が歩み寄った。

「まあ、案ずるな。城はまた取ればよい。命さえあれば、常陸の風はまた吹く」

 そう言って男が差し出したのは、竹の皮に包まれた焦げた米の塊だった。香ばしい匂いが、これが「現実の食べ物」であることを浪紫の胃袋に突きつけた。

「食え。名は……何と申す。わしは小田氏治おだうじはるという」

 浪紫零夜は、自身がタイムスリップしたという狂気の現実を、理性では信じられないまでも、直感的に理解せざるを得なかった。そして同時に、目の前の「最弱にして不死鳥」の、あまりに人を惹きつける非合理な魅力に、一抹の興味を覚える。

 まずは、この時代で生き残る。そのためには、目の前の男の力を借りるのが最も合理的な判断だった。

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