第九話:家臣の誓い、影の牙
小田城の本丸に広げられた図面を前に、浪紫は熱弁を振るっていた。
「……遊水地を設けて泥濘を作り、街道を絞る。これは我が、いや、この城の存亡を懸けた大事業なのです」
つい口を滑らせた浪紫の言葉に、氏治は「おや」という顔をして、パッと目を輝かせた。その純粋な光を見た源鉄斎は、無言のまま静かにその場を辞した。
その夜、源鉄斎は氏治の居室を訪ねた。
「殿、夜分に失礼いたします」
人払いを済ませた密室で、源鉄斎は低く、重い声で切り出した。
「……殿。浪紫殿の智謀、もはや野に置くには惜しすぎます。これほど我が家の内実に深く入り込んだ男を、このまま客分として外へ放つは、小田を滅ぼすに等しい愚挙。今こそ正式に家臣へと召し抱えるべきにございます」
氏治が躊躇うように視線を泳がせると、源鉄斎の眼光は一段と鋭くなった。
「もし、首を縦に振らぬのであれば、災いの種として、我が手勢に命じて密かに処さねばなりませぬ。……その後の始末はお任せを」
翌日。氏治は、いつもとは違う真剣な面持ちで浪紫に向き直った。
「浪紫殿。わしは、お主にこれからも側にいてほしいのだ。小田の家臣として、わしと共にこの国を支えてはくれぬか」
氏治の背後に控える源鉄斎は、表情を一切変えない。だが、その冷徹な沈黙の中に、浪紫は「断ればこの城を出る前に消される」という、目に見えぬ殺気を鋭く察知した。
(……詰んだな。この提案は、慈悲であると同時に最後通牒だ。源鉄斎はすでに手を打っているであろう)
浪紫は眼鏡を直した。逃げ場のない戦国の論理が、自分を「小田」という組織に繋ぎ止めようとしている。
「……わかりました。お受けしましょう。ただし、私のやり方に口出しは無用に願います。」
浪紫の返答を聞くや、氏治は安堵したように顔をほころばせた。こうして正式に小田家の家臣となった浪紫は、菅谷勝貞ら若手武将とも親交を深め、最強の要塞造りを加速させていった。
だが、その夜のことである。
書庫で独り、記録を整理していた浪紫の背後に、不気味な気配が立ち上った。柿崎景家が放った刺客、「軒猿」である。
無言で闇から躍り出た忍びの刃が、浪紫の肩を裂く。現代人の浪紫に、武道の心得などあるはずもない。必死に逃げ回るが、突き出された刀が喉元に迫る。
(……こんな、計算外の暴力で死ぬのか!)
死を覚悟したその瞬間、ガキン! という鋭い金属音が響いた。
「浪紫殿、無事か!」
飛び込んできたのは、部屋の物音を聞きつけた菅谷勝貞であった。勝貞の剛腕が刺客を弾き飛ばし、鮮やかな一閃が闇を切り裂く。
「……助かり、ました」
腰を抜かし、荒い息を吐く浪紫を、勝貞は力強く立たせた。
「礼には及びませぬ。貴殿はもはや小田の宝。我ら武士が、命を懸けて守り抜いて見せましょう」
勝貞の大きな手の温もりに、浪紫の胸の中で何かが弾けた。
(……ただの『縛りプレイ』のつもりだった。だが、ここは本物の戦国時代なのだ)
恐怖は決意へと変わった。浪紫は眼鏡を拭き直し、暗闇を見据えた。
「勝貞殿、ありがとう。……さあ、上杉を完膚なきまでに叩き潰す計画、始めましょうか」




