序章:氷の執行官(しっこうかん)と路地裏の徴(しるし)
戦国時代、常陸の国に小田氏治という奇妙な武将がいた。
「戦国最弱」と呼ばれながらも、城を奪われては取り返し、領民や家臣に愛され続けた不死鳥のような男である。
史実では時代の波に消えた彼のもとに、一人の男が迷い込む。
浪紫零夜。現代の冷徹なエリートコンサルタントであり、弱小勢力でのゲーム攻略を愛する変人だ。
「この男を天下人にプロデュースする。それが一番の難問だ」
知略と現代知識、そして「お人好し」な本性を武器に、浪紫は最弱軍団の経営再建に乗り出す。
これは、合理主義者が非合理な主君と共に、歴史を塗り替えていく異聞録である。
結末がどうなるかは、まだ誰にも分からない。
浪紫零夜という男を語る際、その同僚たちは一様に「精密機械」という言葉を口にする。
外資系コンサルティングファームにおいて、彼が手掛ける企業再生案件に感情の入り込む余地はない。赤字部門は切り捨て、余剰人員は冷酷に整理する。眼鏡の奥にある切れ味の鋭い眼光は、常に数字の裏側にある「真実」だけを射抜いていた。
「浪紫さん、流石にこの解雇案は……」
震える声で進言する部下に対し、浪紫は万年筆を置くことすらなく、淡々と返した。
「感情で会社が救えるなら、僧侶を雇うべきだ。私は経営を立て直すためにここにいる。違うか?」
その声には抑揚がなく、まるで冬の夜の底を流れる風のような冷たさがあった。
しかし、そんな彼にも「無駄」としか言いようのない時間が二つある。
一つは、帰宅後の深夜。高層マンションの自室で、彼は戦国時代のシミュレーションゲームに没頭する。選ぶのは常に、誰もが匙を投げる弱小勢力だ。今回のターゲットは、常陸の「小田氏治」。
「……非合理的だ。なぜこれほど負け続けて、家臣が一人も離れない。この男のパラメーターには、現代の経営学では説明できないバグがある」
画面の中で何度も落城する小田城を眺めながら、浪紫は誰に見せるでもない愉悦の笑みを、微かに口元に浮かべるのだ。攻略難易度が高ければ高いほど、彼の脳は活性化する。
もう一つの無駄は、退勤時の路地裏にある。
その夜、港区のビル群を抜ける冷たい雨が上がった頃だった。浪紫はオーダーメイドのスーツを泥跳ねから守りながら、駅への近道を歩いていた。
ふと、ゴミ捨て場の影で、痩せた一匹のキジトラ猫と目が合った。
「……またお前か」
浪紫は周囲を素早く確認した。誰もいない。
彼は無表情のまま、高級な本革の鞄から一袋のパウチを取り出した。コンサルタントとして常に最悪を想定する男は、いつこの「クライアント」に遭遇してもいいよう、常に最高級の猫用ウェットフードを携帯している。
「今日は築地直送のマグロだ。感謝しろ」
屈み込み、皿代わりの紙を敷く。だが、いつもはすぐに食らいつく猫が、今夜に限っては浪紫をじっと見つめたまま、一歩、また一歩と路地の奥へ歩き出した。
「おい、食わないのか」
立ち去ればいい。時間の無駄だ。
だが、浪紫の足は、吸い寄せられるようにその猫の後を追っていた。
路地の奥には、不自然なほどの深い霧が立ち込めていた。都会の排気ガスの匂いが、一瞬にして消える。
猫の尻尾が霧の彼方に消え、浪紫がその一線を越えたとき――世界から音が消えた。




