【前を向きたくなる3分小説】壁際の約束
入口から1番奥、壁際のテーブル。
俺はこの場所が好きだ。
この店は街路樹が綺麗な道に面しているため、大体の客は窓際目当てで来店する。
だけど俺はこの場所が好きだ。
何故なら「一風変わった客」になることができるから。
もしくは「ごく当たり前の一般客」にも成りうる。
妻との待ち合わせはいつもこの場所と決まっていた。
仕事終わりにこの席で、もう片方が終わるのを待つ。
とても幸せな時間。
だけどある日から、妻はこの席に座らなくなった。
窓際の席で、いつも外を眺めている。
声をかけても上の空。
かと思えば突然立ち上がり帰路に着く。
ため息と共に。
店の中にも雨音が聞こえてきそうな、冷たい冬の夜。
俺は壁際の席で妻を待っていた。
残業をしているのだろうか。
いつになっても来ることはなかった。
「遅くまですみません、ご馳走様でした。」
店員さんは閉店作業に忙しいのか、返答がくることもなかった。
重たい足取りで店をあとにしようとした時、妻とすれ違う。
「なんだよ、遅かったな!今日もお疲れ様!」
安堵で胸を撫で下ろしたのも束の間。
「あの…。もう、大丈夫です。今までありがとうございました。」
妻と店員さんが、ノドに何かを詰まらせたかのような声で会話をしはじめた。
「あの席…あの壁際の席。最後に少しだけ、いいですか?」
今にも泣き出しそうな声。
店員さんは小さく頷くと、塩キャラメルラテとコーヒーを持ってテーブルに置いてくれた。
そうか。
俺はすでに「一風変わった客」でも「ごく当たり前の一般客」でもなかったんだ。
コーヒーをひとくち飲むと妻は少し驚いた顔で、そしてすぐに涙を流した。
「あなた…私はもう大丈夫。これからは、壁際でも窓際でもない、真ん中の席に座りますね。」
待つことも、探すこともしない。
それは前へ進むための覚悟だった。
俺もそろそろ、上へ進んでいいのかもしれない。




