左腕の可能性
直人の人生の分岐点、そこに待ち受けていた未来への希望。はたまたそれは絶望と隣り合わせなのか。
教室の壁に光の声が染み込んだ。俺の鼓膜の振動に異常があるだけだろうか、それとも脳みそがおかしいのだろうか。こいつは今「バッテリー」と言い放った。流石に俺もバッテリーは聞いたことがある。確か野球のピッチャーとキャッチャーのコンビのことを示す言葉だったはずだ。俺は聞き間違いの可能性を加味し、言った。「なんて言った今?もっかい言ってくれ。」キョトンとした顔をして光はもう一度言った。「いやだから、野球部入って、俺とバッテリー組もう。」馬鹿なのは俺の耳でも頭でもなかった。目の前にいるチビだった。「俺帰宅部の予定って言ったよなさっき。」「分かってる。でも予定だろ?」希望に満ちた目でこちらを見つめてくる。「あのなあ、スポーツなんて小学校からやってないし、俺まじでガリガリだぞ?この状態から野球始めたところで結果は見えてるだろ。」光は待ってましたとばかりにニヤけた。「直人さ、自分の身長何センチか知ってる?」こいつの言いたいことがわかった。「まあ185センチくらいかな。」俺は背だけは高い。ただ特に活かす場面も無く、今後もそういう機会は無いはずだった。光は少し胸を張って言う。「だろぉ?その身長を活かせば直人は絶対に活躍できる。それは俺が保証しよう。」えっへん、と威張る光を見て少し笑ってしまう。「身長だけでどうにかなったら苦労しないだろ。そんなんじゃ勝てない。てか、野球部入る予定のやつなんて山ほどいるだろ。」この東城陽高校は大体1000人程の生徒がいる。野球部に入るやつなど一定数はいるはずだ。すると光はまだ反論する。「身長だけじゃない。直人、利き手どっち?」こいつ、観察力がすごい。それともただの変態か?「左だけど…」「やっぱりね。朝下駄箱で見かけた時、ローファー左手でしまってたからちょっとワクワクしちゃったよ。」ただの変態だったようだ。俺の後ろをつけていたのか。「生活指導室に連れていかれる時に直人を見かけて、動作ひとつひとつをちゃんと確認した。そしたらビビッときたね、これはバッテリー組むしかないって思ったよ。」「別に利き手がどっちだろうが変わらないだろ?結局は努力なんだし。」「全然違う。左利きはすごい有利なんだよ。野球のベースはバッターから見て右側にファーストがある。そしてそのバッターはホームベースの右側と左側のどちらの打席にも立つことができる。頭の中でイメージしてもらうと分かるはず、ホームベースから見て右側、つまり左打席のやつの方がファーストに近いんだ。だからバッターは左打席が多い。それに対してピッチャーは右投げのやつはゴロゴロいる。でも左投げは10人に1人だ。打席の矯正はできても、利き手の矯正は流石に無理だろ?さらに左投げのピッチャーの球は左打席のやつからすると凄く打ちずらいんだ。宝の持ち腐れだと思わない?」俺は頭が混乱した。いっぺんにこんなことを言われても理解が追いつかない。それと同時にこいつはこんなに野球のことを考えていたのかと少し感心した。人は見た目に寄らないらしい。「なるほどな。要するに俺は最高にピッチャーに向いてる体つきってことか。」光はゆっくりと頷いた。校庭のノックの音が止み、ボールとグローブが擦れる音に変わった。キャッチボールを始めたのだろう。俺は教室の天井を見つめる。ほとんど日は沈みかかっている。「明日返事する、少し考えさせてくれ。」今この場で結論を出すのは難しい。光は「分かった、よく考えてくれよな。」そう言って手ぶらのまま教室を出て行った。階段にあいつの軽快な足音が響く。俺はすっかり暗くなった教室で自分の椅子に座り、野球というものについてよく考えた。校庭は4つ角にある大きなナイター用のライトに照らされていた。誰かの掛け声が聞こえる。スポーツとは何なのか、何のためにやるのか、なんであいつはあそこまで野球に本気になれるのか。ひとつひとつ、じっくりと自分なりに吟味する。
俺は空をボーッと眺めながら相棒と共に帰路に着いた。6時3分、かなりの時間あいつが帰った後に1人で考えていたようだ。午前中にやるべきことは終わっていたので、駐輪場には自転車がほとんど無かった。静まり返った校舎は朝とは表裏一体で、学校の怪談という言葉があるのにも納得した。朝登校する時は周りの景色にあまり焦点を当てていなかったが、改めて見てみると色々なものがあることに気づいた。特に気になったのはたい焼き屋だ。学校の校門を出て左に真っ直ぐ行ってしばらくすると商店街に出る。そこにポツンと位置していた。前を通り過ぎた時に小豆の甘い匂いと生地が絶妙に焦げた匂いが相まって俺の鼻を刺激した。位置も完璧なのでつい帰りに寄りたくなってしまう。何もしないで食べるよりも部活をしてから食べる方が何倍も美味しく感じるのだろうか、予想外の副産物が潜んでいる可能性が出てきた。そんなこんなでたい焼き屋のことばかりを考えていたら家に着いてしまった。まあ登下校の景色はこれから嫌でも見なければならないし、ゆっくり開拓していけば良い。駐輪スペースに相棒を預け、エレベーターに乗った。俺の住んでいるフロアは6階だ。周囲にはマンションが無いので見晴らしは相対的に良い。いつもはこのエレベーターでの移動も憂鬱に感じていたが、目的を持って生きると世界は変わるのかもしれない、光を見て今日そう思った。エレベーターから出て、602号室の扉を開ける。「ただいま。」いつもより少しだけ大きな声で言えた気がした。
朝日が顔を照らしてくる。瞳孔が急速に収縮する。朝だ。相棒はステンレスでできているちょっと豪華な仕様なので、雨に濡れても安心だ。気分は良くないが、カッパを着て自転車登校をするのも悪くない。俺は雨が好きだ。道草に滴る数ミリリットルの雫、カエルの鳴き声、アスファルトを叩く単調な音、晴れている時には存在しない世界を「聴く」ことができる。視点を変えてみると、人生は大きく変化し、豊かになっていくのだ。学校に近づくにつれ、生徒の数が段々と増えてきた。傘しか見えないので判断するのは難しい。例のたい焼き屋の前を通り過ぎる。俺はカッパがはじく雨粒を見ながら自転車を漕ぐ。「ビチャビチャビチャ…」後ろから何かが走ってくる音がした。ピッチはやや早めだ。俺は首を軽く捻り、後ろを見る。小さな巨人が立っていた。「おはよー、なおとぉ!!」朝から本当にうるさい。身体中の組織が身震いした。こいつは天気に関係なく走って学校に通っているようだ。光の継続する力を垣間見た。そこまでしてこいつは本気で野球に取り組んでいるのか、と心の中で呟く。今日は雨だが一応部活の仮入部の日だ。野球の道具は何一つ持っていないので体育着だけを持ってきた。もう覚悟は決めた。「俺、野球やるよ。」光は立ち止まり、俺の顔をじっと見つめた。「男に二言は無いぞ、俺とバッテリーを組むと誓ってくれるな?」周囲の雨音が消えた。「おう。いくとこまで一緒にいってやる。」光は大きな笑顔を作った。「やったよ、…………ゃん。」少し涙目になっているように見えたが、すぐに走り出した。「早くしないと学校遅刻するぞぉーー!」「お前が呼び止めたんだろぉがよぉーー!!」こんな馬鹿みたいな日々が俺の人生を大きく変えるなんて、この時はまだ知る由も無かった。
「朝の連絡は以上。各自授業の準備をするように。」担任の朝のホームルームが終わった。寝ていたせいで担任の名前はまだ知らない。勉強はそこそこできるので、心配はしていない。「直人ぉーー、勉強まじでわかんないから地獄なんだけどぉ。」「朝から文句垂れてもなんのもねえよ。はよ準備しな。」光は少しムスッとした。「俺この高校に入れたのたまたまだから、勉強に関しては頼るかもしれん。でも野球については全部任せてくれ。なんでも教えてやる。」自信に満ちた顔をしている。何故か分からないがこいつとなら何でもできる気がする。「キーンコーンカーンコーン……」あっという間に昼休みになった。光が泣きそうな顔でこっちに来た。「俺野球以前に退学になるかも。」かなり真剣な眼差しで俺を見てきたので思わず吹いてしまった。「馬鹿じゃねえの笑、やれば誰だってできる。」「言ったな?じゃあ150キロ投げられるようになってもらうぜ。」「あほか笑。」昼休みだ。俺らは1階の大木の下のベンチで飯を食うことにした。ここから3年間、世話になるだろう。俺は弁当箱を取り出し、蓋を開けた。唐揚げと卵焼き、ブロッコリーとプチトマト。完璧な弁当だ。白米と一緒に頂く。光はおにぎりのようだ。五目おにぎりだ。「うまそうな唐揚げですなぁ。」光が野獣の如く唐揚げを睨んでいる。「あげねえよ?。」俺はあいつから弁当箱を遠ざけた。「じゃあこうしよう、腕相撲で勝負して負けた方が相手の飯を貰える。どうよ。」「いいぜ、乗ってやるよ。チビは弁当無しにして反省しな。」
「はい、じゃあ今日の授業はここまで。」鐘の音が鳴り響くと共に、俺の腹も唸っていた。光は見た目とは裏腹に腕相撲が阿呆みたいに強かった。メソポタミア文明やらアステカ文明やら先生が言っていたがほとんど脳から抜け落ちた。おかげで俺のガリガリ具合に拍車がかかった。「しょうがねえやつだなぁ。」光はおにぎりを差し出してきた。「初回はハンデとしてあげるよ。部活あるのにぶっ倒れちゃっても困るからね。」そりゃどうも。目で語りかけた。「授業も終わったし、仮入部行くぞぉー!」ついに始まるのだ、俺の野球が。さっさと着替えて俺は初めて部活に参加する準備を整えた。「カチッ」歯車がハマった気がした。左腕が少しだけ熱くなった。ただ一つだけ気がかりな点がある。それは昨日光が言っていたことで、「サウスポーは心臓に少し近いから身体に負担かかるんだよね。」とボソッと呟いて点だ。まあ今はそんなことは良い。どこかに少し野球を楽しみにしている自分がいた。
「1年の仮入部、集合!」主将らしき3年生の先輩の呼び掛けがあった。俺ら以外にも何人かいたが、ごついと言えるようなやつは意外にもいなかった。たまたま今日はいないだけだろうと自分に言い聞かせた。「楽しみだなあ。」光は目を輝かせて明後日の方向を拝んでいた。主将らしき人は何故か見覚えがあった。中肉中背だが、スリーブの奥には筋繊維を感じた。まさに王道の野球少年のようだった。周囲には何人か野球部らしき先輩がいたが、10数人しかいないようだ。想像とは違う現実が広がっていて、複雑な気持ちになった。光は黙って話を聞いていた。その時だった、主将は思いっきり言い放った。
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「まず把握しておいて欲しいことがある!我が東高野球部には監督がいない!」、、、光と俺は目を合わせて言った。「は?」




