目覚め
本気で書籍化を目指す。全ての始まりはここから。
構成は全10章の予定。
「プレイボール!」
審判が右手を晴天に突き上げる。「ウゥゥゥゥーーー」サイレンが高らかに鳴り響き、俺の脈拍を加速させる。縫い目に指をかけ、ゆっくりと投球動作に入る。両腕を上げ、グローブを後頭部まで持ってくる。上半身を捻り、右足を高く引き上げる。見える景色は光のミットと相手打者の鋭い視線。あいつはいつも通り笑っていて、アイコンタクトをマスク越しにした。汗が垂れる。何故か俺も口角が上がり、武者震いした。マウンドからの情景はアドレナリンの分泌を加速させる。「ダンッ!」右足を勢い良く目の前の土に下ろす。スパイクが地面を噛む感覚が足裏全体に伝わってきて、俺の体は完全に投げる準備に入る。重心を前へと移動していく。グローブを胸元に持ってくる。練習を思い出し、自分のやってきたことを再確認する。この瞬間、俺は左手の人差し指と中指に全ての感覚を集約させる。「ヴォォォン!」左腕が大きな風切り音を立てた。今この瞬間、俺は自らの手で試合の火蓋を切った。
水槽の中で静かに目を閉じて丸まっている。遠くから何かの呼ぶ音がする。でも正体は解らない。いや、解りたくないのかもしれない。ゆっくりと水中から引き上げられて、外に出る感覚に陥る。重く閉じていた瞼が僅かな筋肉を使って開いた。アナログな目覚まし時計が1人で騒いでいる所に俺は割り込んで黙らせた。憂鬱な入学式当日がやってきてしまったのだ。もし三途の川だったのなら戻って引きずり込まれたい。いっそ永遠の眠りにつかせて欲しい。それだけ人生はつまらない。新しい生活が始まるのだ。俺は目を擦り、自分の単純な生活リズムに嫌悪感を抱きながらも、それを変えようとも思えない自らの意思に逆に感心してしまった。しかしその生活リズムも今日で崩すことになる。築10年程の比較的新しい10階建てのマンションに住んでいる俺だが、間取りは2LDKでごく普通だ。不満は特に無い。むしろ母には感謝してもしきれない。ベッドから降り、自分の部屋から出てダイニングへと向かう。キッチンでは母が無心でトマトを切っていた。猫の手は相変わらず律儀に作っていて、料理初心者の様に見えるが、長年やってきからだろうかスピードは料理番組に出ているタレントにも引けを取らない。テーブルの上にはいつもと同じトーストとヨーグルトが並べてあった。母が切っているトマトの横にガラス製の皿が見えた。レタスとスライスされたゆで卵が入っていたので、俺はサラダだろうなと思った。トマトを入れて完成という訳だ。俺は洗面台に行くついでに母に軽く「おはよう。」と声をかけた。母も小さな声で「おはよ。」と返してきた。母とは父が他界してからまともに会話をしていない。と言うよりも母が心を自ら閉じていき、それに俺も影響されて自然と会話をすることが難しくなっていたのだ。テーブルの前の棚の上に置いてあるテレビではお天気キャスターがすごい笑顔で曇りのち晴れの予報を伝えていた。リビングにあるソファには母が着るであろう入学式用のセレモニースーツとバラのコサージュが置いてあった。洗面所へ行って歯を磨き、顔を洗う。口をゆすいで水を吐き出し、鏡を見つめる。中学を卒業し、今日から高校生活をスタートさせるであろう俺の顔があった。本当に生きているのかと俺自身も思ってしまうほど無機質な顔をしていた。取り換えたばかりの歯ブラシとつい見比べてしまう。くっきりとした二重瞼で鼻筋も比較的通っているが、外出をほとんどしないせいで悪い方向にその特徴が際立ってしまっている。真っ白で痩せ細った病人のような風貌を見て、ふと父の最期を思い出した。まだ俺が小学校5年生の時、父は亡くなった。9月の残暑が厳しい日の昼下がりだった。父は生まれつき持病を患っており、度々入院をしていた。病名は忘れた。いや、思い出したくないだけかもしれない。お見舞いには弟と母とよく3人で行っていて、顔を見るなり父は毎回少しの笑みを浮かべ、俺たちに抱きついてくれた。「最近どうだ?」「学校は楽しいか?」「運動会は見に行くからなあ」父は俺たち兄弟に毎回近況を聞いてきて、それが俺たちにとっての最大の楽しみだった。稀に退院をしていて、そんな日には公園に行ってよく一緒に遊んだ。当時の俺は配慮が出来ず、病状の心配は一切せずに公園へ連れて行っていた。とても優しく、それでいて強い父だった。肉体的な強さなどという単純な強さではなく、「生きる」強さを持った父だった。鬼ごっこをした。キャッチボールをした。かくれんぼをした。多くのことをしてきた。父はいつかは完全に退院して、病気が治ると俺は思っていた。そんな中での父の死は俺の心に大きな穴を開けた。良くも悪くも父とずっと一緒にいたからだろうか。亡くなる前日まで毎日病院に通っていたはずなのに、徐々に衰弱していく父の姿に当時の俺は気づけなかった。悟られぬように父が配慮していたのかもしれないが、この世に居ないことには何も分からない。9月の上旬、残暑の影響で気温は30度をゆうに超えていた。訃報を知らされたのは5時間目の授業中だった。社会の授業中だった気がする。担任に呼び出されてわざわざ職員室まで連れていかれたのを覚えている。担任の口から「お父さん」という単語が出てきた瞬間、油汗と冷や汗が同時に毛穴という毛穴から吹き出した。気づけば俺は病院のベッドで横たわった父の遺体を見つめ、大粒の涙を流して立ち尽くしていた。11歳の少年には大きすぎる痛手だった。これまでに無いほどの声で叫び、泣き続けた。周囲の様子など一切気にせず、泣いた。母も弟も同じ気持ちのはずなのに、あたかも俺が1番の被害者であるかのような感覚に陥った。夏祭りの金魚すくいに父と行ったことがあった。水槽に入っている金魚を好きなだけすくい、袋に入れて貰った。その金魚は今も家の水槽の中で泳ぎ、生きている。自分の父も母もどこにいるのか分からないまま、水槽の中でゆっくりと何も変わらない毎日を過ごし、死をひたすら待ち続ける。直人は昔のことを思い出しているうちに時計の針がさっきと比べて40°も傾いていることに気がつき、我に返った。既に母は料理を作り終え、黙々と朝食をとっていた。弟はまだ寝ているようだった。母を追いかける形で俺も食事を始める。家から自転車で15分程度の距離にある俺の高校は公立で比較的学費は安く、そして何よりも通いやすい。新調した制服は中学の学ランとは異なりブレザーだった。少し新鮮な気持ちになりながらも特に何もする予定が無い学校生活には決してワクワクしなかった。最低限の荷物をまとめ、俺は玄関へと向かう。母は小さく「また後でね。」と食器を片付けながら言った。何も変わらない新しいスタートを切ろうとしている。しかし俺はこの入学を境に、第2の人生が始まろうとしていたことなど知る由も無かった。
春風に当たりながら俺はゆっくりと自転車を漕ぐ。なんの楽しみも無い学校生活が始まるのだ。都会では無いが田舎とも言い難い中途半端な地元は、思ったよりも快適で、通っていた中学とさほど高校までの登校時間は変わらない。俺は改めて自転車は文明の利器だなと実感した。母の懐を心配して公立に入学したが、結局家から1番近いので結果オーライだ。昨日の入学式は本当につまらなかった。校長のお祝いの言葉、新入生代表の挨拶、数えだしたらキリが無いほどの無駄でベタな言葉の羅列が俺の耳を通過していった。クラスに入るのは今日が初めてで、予め何組かは知らされている。クラスメイトの名前が印刷された紙も貰ったが、目は通さなかった。どっちにしろ絶対に関わりは持たないと決めていたからだ。高校入学を機に新しい自転車を買ったため、今乗っているものは傷1つなく、ギシギシと音をたてることも無い。3年間俺の唯一の相棒として役目を果たしてもらう予定だ。よく父と一緒に練習するために乗った自転車は、今もマンションの自転車置き場に置いてある。捨てたい訳ではないが、できるだけ視界に入れたくない。思い出の品であるはずが、目にする度に何かが心のどこかで蠢き、俺の心臓を大きく揺らしてくる。強かった父は決して弱音を吐かなかった。「明日には退院して、直人たちと遊んでやるからなぁ。」と亡くなる前日も言っていた。今思い返してみると、父は弱かったのかもしれない。怖さを紛らわすために、当時の幼かった俺に強い父を演じていたのかもしれない。真意は解らないが、その日を境に俺は他人の言う事全てに疑いを持つようになった。だから、関わることをやめた。ただ生きているだけ。これが俺の人生であり、運命だったのだろう。そんなことを想起しているうちに自転車を漕いで10分ほど経過していた。俺は目を疑った。1人の小柄な俺と同じ制服を着た生徒が手ぶらで走って学校へと向かっていったのだ。しかもローファーではなく運動靴だったように見える。何年生かは解らないが、160センチメートル程しか無かった。まあそんなことはどうでも良い。どのみち関わることは無い。そうこう考えを巡らせているうちに俺は学校に到着した。午前8時3分を俺のデジタル腕時計が示していた。校門の横には大きく〇〇県立東城陽高校と書いてある。この時間は生徒がたくさんいて歩行者の波ができていた。俺は自転車から降り、大人しく押しながら歩いた。校門をくぐり、駐輪場へと向かう。すると入ってすぐの花壇の前で例の小柄な生徒が何かを指導されていた。どうやら校門の前で生活指導の先生が身だしなみをチェックしていたようだ。荷物無しで学校に来た挙句ローファーではなくランニングシューズで登校してきたら無理も無い。そう思いながら駐輪場へとゆっくり自転車を押していった。1番校門から近い駐輪スペースの端に自転車を停め、俺はイヤフォンをポケットから取り出した。耳に装着し、外部からの音を遮断する。他人の会話は聞きたくないからだ。いつもこうやって俺はイヤフォンに救われている。昨日の入学式は退屈すぎて着けそうになったが、それはそれでどこかもどかしかったのでやめた。下駄箱まではさほど時間を要さない。ジャージを着た筋肉質な先生にまだ例の生徒は叱られていた。短髪でクリクリした目。質量的な大きさは無いが何か異質な明るいオーラを放っていて、妙な包容感を感じた。正義感という言葉が似合うだろう。父の顔が不意に過る。こういうタイプは苦手だ。横を通り過ぎ、下駄箱へと向かう。下駄箱までの道中には中庭があり、かなりのサイズの大木が植えてある。巨大な幹が地面のコンクリートに亀裂を入れて顔を出している。その木を中心として周囲にはベンチが置いてあり、木が無数に広げている枝とその葉々はベンチに覆い被さるように大きな影を作る。この東城陽高校への入学の決め手となったのはこの大木だ。1人で昼食を食べるのに最適だと思ったからだ。少なくとも俺が死ぬ前には絶対に死なないこの大木は、良い話し相手になってくれるだろう。存在そのものには嘘など無い。校舎の入口に着いた。下駄箱はすぐ目の前にあって、多くの生徒が靴を履き替えていた。履きなれないローファーにはどこか違和感を感じていたが、全員が履いていたのでそこまで気にならなかった。そういえば朝のチビだけは履いていなかったか。俺は1年1組で、5階に教室があると伝えられていた。入学式の最後に教頭がフロアの説明をしていた時だけ軽く耳を傾けていて正解だった。クラスは各学年8クラスずつあり、4階が2年生、3階が3年生のフロアだ。玄関は東側に位置していて、朝日が開放された扉から差し込んでいる。俺は上履きに履き替え、階段へと向かう。下駄箱の前の廊下は左右に伸びていて、階段がどちらにも見えた。北階段側に1組はあるらしいので、俺は右へと歩き出し、周囲の環境を軽く確認した。部活動の勧誘ポスターや熱中症対策の呼びかけなど、何年掲示したままなのか分からない紙がいくつもあった。校舎自体はそこまで古く感じず、20年程度の年月を経ているらしいが気にならなかった。階段を一段一段上り、イヤフォンから流れてくるクラシック音楽の方にフォーカスする。ヴィヴァルディの「四季」で「春」だ。俺の心の鎖は何故かこの曲にギシギシと揺らされる。何故かは分からないが、聞いていくうちに落ち着く。気づけば5階に来ていた。少し息が荒れているのが分かる。運動不足以外の理由は考えられない。1組ということもあり、階段のすぐ目の前に教室があるため近くて良いなと思いつつ、別になんの楽しみも無い教室の扉をゆっくりと開けた。「ガラガラガラ…」少しの視線が俺に注がれるが、すぐに元に戻る。入ってみると20人程の人がいた。1クラスあたり40人なので半分位だろうか。初日のはずなのに数人はたわいも無い会話をしているようだった。入学式で仲良くなったのか、小中が一緒かのか、定かではないが、俺は自分の席を探す。出席番号は19番なので真ん中あたりだろう。幸運なことに6列あるうちの窓側の方の3列目の後ろから2番目の席だった。出席番号順の座席も悪くない。俺は荷物を机の横にかけ、「春」の演奏を聞くことに没頭した。目を閉じて椅子に腰をかける。色々な景色が想像できる。草原を駆け巡る大きくて立派な白馬、地面から生えている草を無心で食むヤギ、リスが木の実を取って頬に溜め込む様子、象の出産の瞬間、考え出したらキリが無い。何故世界はこんなにも広く美しいのに、人間という生き物は同じ種族同士としか対話を試みないのか。自然界のような嘘偽りのない世界の存在を聴覚という五感のうちのたった一つで伝えてくれる。「春」はそんな曲だ。気づけばもう8時27分になっていた。ホームルームは8時30分かららしい。あと3分だ。周囲の人間は次々と自己紹介を始め、談笑をしていた。またどこからか「え、今日このまま帰りにハンバーガー食わね?」という声もしてきた。俺からすれば全部嘘に聞こえる。どうせ表面上の付き合いだ。8時29分、席はいつの間にか全部埋まっているようにみえた。担任も入ってきて、何かの準備を始めている。教室の時計の秒針は8時29分42秒を指していた。その時、勢いよく扉が空いた。イヤフォンを外し、俺は音の発生源に冷たい視線を送った。そこには今朝の小柄な生徒がいた。「おはよう!」開口一番でこれだ。下に視線を移すとスリッパを履いているように見えた。来賓用だろうか、高校入学初日で上履きを忘れるとはなんというやつだと思った。ということは昨日の入学式も上履きではなくスリッパを履いて出席したのか、頭の中が疑問で埋めつくされる予感がしたので、考えるのを辞めた。彼の視覚的な熱気は俺の視線を正面から否定してきた。考えうる最悪のシナリオが今目の前で現実になろうとしている。席はもう無いはずなのに、そう思っていた矢先だ。完全に盲点だった。後ろの席だけが空席だった。あいつは俺の後ろの机に向かってスキップしながら近づいてきた。スリッパがさらにその足音を増大させる。無駄にうるさいやつだなぁと心の中で囁いた。「ガタガタガタ…」椅子を引く音がした。隣のやつに「よろしくなぁ。」と声をかけていた。後ろの騒がしさにこれから毎日耐えていかなければならないのかと思うと鬱だった。初めてのホームルームが始まる。「えー、まず改めてね、入学おめでとう。今日から君たちはこの東城陽高校の一員だ。これから3年間、たくさんの思い出を作っていって欲しい。おっと、自己紹介がまだだったな。」そう言って担任はチョークを手に取り、黒板に自分の名前を書き始めた。俺は唐突な眠気に襲われた。単調な音が教室に鳴り響く。黒板と炭酸マグネシウムが擦れる音を子守り歌の代わりにして俺は机に突っ伏した。重い瞼がゆっくりとシャッターを切った。―――――――――――――――――――――――
「バンッ!」俺の運動神経は脊髄を経由せずに直接筋肉に信号を送った。体が一瞬椅子から浮く。顔を上げると前には誰もいない教室があった。黒板には書いてあったであろう担任の名前が地面に落とした生クリームのように乱雑に消されていた。背中の上部にヒリヒリとした痛みが徐々に伝わってくるのが分かった。誰かに叩かれたのか、視線を左右に移動させる。右側に何かがいる。足元には緑色のスリッパが見えた。もうあいつ以外考えられない。「おはよう!」またこれだ。寝起きの頭にこいつの声は痛みをもたらす。状況が掴めないが、とりあえず適当に返事をする「おう。」するとこいつは、「みんなはもう教科書を買いに行ったよ。」こいつは何を言っているんだ。「は?」思わず声に出てしまった。「今日は教科書販売の日だよ。だからみんな体育館に行ってる。俺も行こうと思ったけど、君が一人でずっと寝てたから心配でずっと見張ってた。」なるほどそういうことか、だから誰もいないのか。いや、それよりこいつはなんで俺を置いていかなかったんだ。朝から行動一つ一つの目的を掴めない。「あ。」完全に忘れていた。教科書販売のお金を持ってくるのを忘れた。「どうかしたの、早く買いに行こう。」こいつはなんでわざわざ俺を連れていこうとするのか。「いや、なんでもない。」平然を装い、こいつに先に行ってもらうように促す。「先行ってて、後で行くから。」「いや、君が準備出来るまで待つよ。」誰もいない教室での会話は遮るものが無いため良く響く。特にこいつの声は。「…」仕方なく俺は本当のことを言った。もう足掻いても結果は同じような気がしたからだ。するとこいつは「君、いくら今持ってる?教科書の合計金額なんだけど22180円なんだよね。もしかしたら俺の予備と足せば足りるかもしれない。」俺は自分の財布の中身を確認した。祖母から貰った財布は折りたたみ式でコンパクトだった。合皮だが本物の皮そっくりに作られているためかなりの迫力がある。小銭は521円、札は1000円札が2枚、予備の1万円札が隙間に入っていた。こいつに見せると、「お、丁度良いや、俺の予備の1万円を足せばギリギリいけるね。」初日からこいつに借りを作ってしまうとは、とんだ失態だ。階段を2人で下り、体育館へと向かう。こいつは早速話し始めた。「君、名前は?」「…」俺は黙った。できれば教えたくない。「どのみち名簿見たら分かるんだから、言っちゃいなよ笑。」その通りだ。「醍醐直人…」「だいごなおとかぁ、良い名前だ、俺はね、土井光っていうんだ。土に井戸の井、そんで光。簡単で覚えやすいでしょ。」土井光。見た目通りの名前だ。光という1文字のために生まれてきたのだろうか。しかしこいつの行動は少々荒っぽい。光と闇は紙一重のようだ。背中に刻まれた光の手型はイチョウの葉のようになっていることだろう。触れてみたが、ヒリヒリと痛む。「あぁごめん、痛かったよね。でもこれが1番良い起こし方だと思ったんだよね。気合い入るし笑。」生粋の脳筋だ。正反対の人間のオーラが隣から漂ってきている。4年前のあの日以来、俺に話しかけてくるやつなど1人もいなかった。常に下を向いて一点を見つめていたからだろうか。それなのにこいつはなぜか生振り構わず誰にでも話しかける。「タッタッタッ…」階段を下りると1階に着いた。南階段側に廊下を突っ切ると屋根と通路があり、体育館の入口と繋がっている。隣からは「パタパタパタ…」とスリッパの音がして少しイラつくが、この能天気具合を見るに本人は一切気にしていない様子だ。体育館にはもうほとんど生徒がいなかった。片付けが始まっているスペースもあったので俺たちは急いで全ての教科書を買いに走った。
重い教科書を抱えながら2人で並んで歩く。こいつの話にはなぜか引き込まれる。いや、人との対話がここまで面白いということを忘れてしまっていただけなのかもしれない。耳から入ってくる情報は基本的にクラシック音楽だけだったので、こうして俺1人に対しての肉声を聞くのは家族以外では本当に久しぶりだ。教員との会話は一切意識せずに脳死で返事をしていたため、意味を成さない。光が口を開く。「直人って、部活入るの?」少し真剣な眼差しで聞いてきた。もう既に下の名前で呼んでくる。周囲の基準が分からないが、俺からしたら異常なスピードだ。もっと仲良くなってからだろう、普通。「入らないよ。学校行って、バイトして、家帰って寝る。」光は目を細めながら言った。「何それ、超つまんなそう笑。」「うるせぇ笑、人の人生評価する前に上履きとカバン持ってこい笑。」「上履きのことは触れないでよまじで笑。」どうでも良い会話にも意味はあるのかもしれない、そう思った。この短時間で光の世界に取り込まれていった。俺が築いてきた壁は一瞬にしてこいつに破壊されたのだ。本当は凄く人肌が恋しかったのか、いやそんなはずは無い、心の中で自問自答する。しかし光の会話を楽しんでいる自分がいる。「聞きたいこと山ほどあるわ。どれから聞こうかなぁ、…」気づけばあの大木の下のベンチで光と教科書を山積みにして夕方まで話をしていた。もうあの思春期の延長線上にあったプライドは消え去った。父のこと、音楽のこと、将来のこと、この大木を気に入っていること。俺の人生の軌跡全てを辿り、光に話した。そしてそれは光も同様だった。驚いたことは、あいつも片親だったということだ。俺とは逆で母を早くに亡くし、今は父と2人で暮らしているそうだ。物心がつく前に亡くなったようで、光自身はあまり傷を負っていないらしい。しかしその話をしている時だけどこか光の表情に陰りがあった。欠けているものがあるとつい強がってしまうのは俺も痛いほど分かる。こいつがやけに明るいのもきっと俺と方向性が違うだけで同じ理由だろう。点と点が繋がった気がした。デジタル腕時計は既に3時を回っていた。俺が背中に葉型をつけられたのが確か10時前後だっただろうか、大体5時間程度話をしていたことになる。「もうみんなとっくに帰っちゃったかなぁ。」光は苦笑いしながら言った。俺は言い返した。「どっかの過保護なチビが見張りなんかしてるからだよ笑。」「うわ、身長気にしてるのにぃ。」情けない声が帰ってきた。ハンバーガー屋に行こうと言っていたやつらはまだ店にいるだろうか。各々自己紹介をし合っていたやつらは今頃一緒にいるだろうか。会話がここまで時の流れを早くするとは思ってもいなかった。「そろそろ帰るか。」光が言った。教科書を抱えて5階に戻る。もう一度階段を上るのはかなり面倒くさい。俺の脚を構成している物質がH2OからPbへと変化していく感覚になる。光は俺とは違ってスイスイ上っていく。「どうしたぁ、そんなんじゃ男として強くなれないぞ!」俺は言い返す「ぜぇ、ぜぇ、お前と違って俺は、ぜぇ、…スポーツはやらないんだよ。」光は何も答えなかった。何か言いたげにしていたが、特に気には留めなかった。教室に戻った時には西日が窓に強く差し込んでいた。光は自分の机の上に教科書を置いた。「ドサッ。」かなりの量があるため、机がギシギシと泣いた。俺もいちいちうるさいやつの前の机に置いた。自然と汗が垂れてきて、目に入る。ハンカチで顔を軽く拭いた。光は窓を開け、沈んでいくもう1人の自分を見ていた。俺も同じように窓を開けて上半身を窓から乗り出した。校庭では各部活が練習をしていた。仮入部は明日かららしく、2、3年生だけが活動しているようだ、俺には関係ないが。サッカー部が白黒のよくあるボールを血眼にして追いかけ、陸上部がタータンにスターティングブロックを設置してスタートの練習をしていた。砂とタータン両方があるのは珍しいなぁと思った。「カキィィーン。」なかでも特に大きな音がしたのは野球部からだ。グラウンドの4分の1程度の広さを使い、フェンスを背にして監督らしき人がノックを打っている。金属バットの打撃音は心地よく、硬球と共に奏でられるメロディーは荒々しさを含みながらもどこか繊細さも兼ね揃えていた。窓の外から涼しい風が舞い込んでくる。「楽しみだなぁ、明日から。」光が急に口を開く。「何が?」俺は唐突な光の独り言に少し遅れて反応した。「いや、学校とか、あと部活とか。もちろん可愛い彼女も作っちゃうけどなぁ笑。」俺は嘲笑してやった。「お前じゃ無理だろ、ちっちゃいし笑。」「うわ、2回も言うとか最悪すぎる。てか光でいいよ、まだ1回も呼んでくれてない。」無意識に呼んでいなかったようだ。「まあ機会があったらな笑。」軽く濁した。全く楽しみでは無いはずだった俺の学校生活は、こいつのひと叩きに狂わされた。会って1日のやつとここまで仲良くなったのは初めてだ。最初で最後ではないだろうか。光は不自然にも少し真剣な表情を作り、俺に急に言葉を投げる。西日が顔を照らし、眼球の瞳孔が小さくなる。こいつの目は綺麗だ。虹彩が茶色に染まる。「直人さ、1つお願いがあるんだけど、良いかな。」「なんだよ。もう1発叩かせろとか言うなよ笑。」珍しく表情を崩さない。光は続ける。「いや、そんなことじゃない。それより、さっき貸した1万円のことなんだけどさ…」俺は察した。「あぁ、明日ちゃんと返すよ。お互い金銭面はきついしな。」「いやそれも違う。あの1万円は返さなくて良い。その代わりに俺の提案に乗ってくれ。」「ああ、まあこの階段もう1往復以外なら何でも良いぞ。」俺は勿体ぶる光にかなりの違和感を覚える。少し間を置いて目の前の160センチは声を轟かせた。
「俺とバッテリー組まないか?」
「パキィィィーン」ノックの金属音が5階の教室にまで木霊する。4月の空は沈みかけの夕日で赤紫色に染まっていた。
一歩目を歩み出す。




