十万キロの約束
エンジンをかけると、例の「コトコト」という異音が、また聞こえてきた。助手席の娘が、不思議そうに耳を傾ける。
「パパ、この音、また鳴ってる」
「あー……ちょっと車がね、歳とってきたんだよ」
ごまかすように笑って見せると、娘は「ふーん」と言って後部座席に転がっていたぬいぐるみに気を取られた。
走行距離、ちょうど十万キロを超えた。
五年前に中古で買ったときは、六万キロだった。最初に店で見たとき、この車はちょっと古びていた。けれど、後部座席が広くて、ベビーカーも積めて、なによりそのときの貯金でギリギリ買える車だった。
それから四万キロ。
保育園の送迎、週末の買い物、実家への帰省、海、山、熱を出したときの夜間病院……この車と一緒に、家族の時間を積み重ねてきた。
「タイヤ、そろそろ限界ですね」
このあいだ点検に出したとき、整備士がそう言った。スリップサインが出始めていて、雨の日には危ないらしい。この夏、タイヤを替えなければいけない。四本全部で、十数万円。
でも――それが、なかなか出せない。
夏のボーナスは予想よりも少なかった。エアコンの修理、保育料、光熱費の高騰。それに、妻の実家のほうでも支援が必要になってきた。贅沢をしているつもりはない。でも、ぎりぎりだ。
買い替え、なんて夢のまた夢。新車は手が届かないし、中古車も年々高くなっている。
それでも、手放す気にはなれなかった。
この車で、娘は初めて遠出をして、初めて海を見た。眠ってしまったときのために、ブランケットをいつも積んでいた。助手席のドリンクホルダーには、小さなキズがついていて、それは娘がジュースをこぼしたときに焦って拭いたせいだった。
「パパ、海行こうよ、ひさしぶりに」
助手席で、娘が言った。
「え、海? 今日?」
「うん!」
僕はバックミラーで後部座席のチャイルドシートを確認しながら、ふっと笑った。
「よし、じゃあ行くか。遠回りしないと高速は混んでるけど……この子、まだがんばってくれるかな」
エアコンの風は少し弱かったけど、外は晴れていた。
僕はアクセルを踏み込んだ。少し遅れて反応する車体。でも、その重たさにも、もう慣れた。
この車は、もう少し走ってくれる。いや、走らせてみせる。タイヤは替えよう。異音の修理も必要だ。いくらかかるか、怖いけど――でも、大丈夫だ。たぶん。
助手席の娘が、景色に目を輝かせている。
「ねえパパ、この車、いっつも海に連れてってくれるよね」
「そうだな。十万キロ、いろんなとこ行ったからな」
「次はどこ行くの?」
その問いに、僕は言葉を選びながら答えた。
「うーん……もうちょっとだけ、この車と一緒に、いっぱい行こうな」
娘は笑った。
その笑顔を、ミラー越しに見ながら、僕は静かにハンドルを握りしめた。
十万キロの車と、十万キロの思い出。
それは、まだ少し先の未来へ向かって、走り続けていた。




