舞踏家
〈雷はゼウス指したる地に落ちし 涙次〉
【ⅰ】
テオは思ひ出してゐた。舞踏家、Oさんの事を。丁度野方の町會場が建て替はつた時、こんなビッグネームが本当に來てくれるのか疑ひつゝも、Oさんを招聘して踊つて貰ふ事になつた。Oさんは御歳80を超え、杖を突いて歩行の補助としてをられた。だが、ぴんぴんに健常なだけがダンスの礎となるボディではない。これはOさんが實際に云つてをられた事だ。詩を書き始めてゐたじろさん(朗讀)との共演。じろさん「私なんか、素人でお恥づかしい」と云つてゐたが、Oさん、「私も踊りを始める時必ず素人に還るんですよ」と優しい言葉。
【ⅱ】
Oさんはテオの事が殊の外氣に入つたやうだつた。テレパシーのコツも、随分早く會得してをられた。このにやんこさんみたいな秘書が居たらなあ、と仰つてゐた。實の秘書は長子のTさんであり、惡いね、とテオが云ふと、たゞ優しげに笑つてをられたのを思ひ出す。
それも3年前。今、【魔】として向き合はなければならぬOさんと、その3年間と、は何だつたのだらう、とテオ、臍を嚙んだ。
【ⅲ】
このヤマは上総情が持ち込んだものだ。カウボーイハットの下で、上総が思つた藝術の【魔】。今、テオが敵として向き合ふ【魔】。それらは全くぴつたりと符合する物なのだらうか? 分からない。だが、お弟子さんたち多數を魔界に突き落とした、Oさんは頑として存在する。大體、「弟子は取りません」と云つてゐた3年前。これでは(Oさんが【魔】に目醒めて以來、と云ふ點で)魔界送りにする為、弟子を募つたとしか思へない。
⁂ ⁂ ⁂ ⁂
〈出不精や雑司ヶ谷遠くなつたなと我が戀神の鬼子母神思ふ 平手みき〉
【ⅳ】
上長に逆らふのはテオのやり方ではなかつた。だが今度ばかりはカンテラに出て來て慾しくなかつた。カンテラとてモダン・アートの信奉者である。事務所の部屋には各々、現代繪画の粋が飾られてゐる。だが彼は斬つてしまふだらう。だつてそれ以外に、魔道に墜ちたお弟子衆を救ふ手はないのだから。
【ⅴ】
カンテラ、すらりと拔刀‐ だが、そこから先がいつもと違つた。じろさんにバトンタッチしたのである。自分は飽くまでじろさんの護衛。じろさんが繰り出した技は、「秘術・身代はりの術」。Oさんとお弟子衆は、不思議な事に一瞬の後に入れ替はつてゐた。【魔】側から誰か見張りが出てゐたとしても、その仕組みは分からなかつたゞらう。で、術の種明かしをすると、* 鏡に籠もつた【魔】を引き摺り出すやうに、お弟子衆をOさんの脊後にぽつかり開いた魔界の入り口から抽き出し、その替はりにOさんを魔道に突き落とす‐ じろさんにしてみれば、容易い事なのである。お弟子衆には、前もつて「シュー・シャイン」が「お触れ」を出してゐた。
* 前シリーズ第28話參照。
⁂ ⁂ ⁂ ⁂
〈これも夏今日雷で明日涼し 涙次〉
【ⅵ】
「ふん、詰まらん仕事だ」カンテラはさう云つた。確かに、これでも優しい處置なのである。荒つぽいいつものカンテラのやり口とは違つてゐたゞらう。じろさん「まあまあ。Oさんと云ふ日本藝術界の至寶を失つたのには變はりがないよ」。依頼料は、父親の行ひに困り果てゝゐた、Tさんから出た。短いが、お仕舞ひです。