灰の瞳の学生、命題を受ける
未来都市ラグス・セントラル。天頂に向かって伸びる透明な塔の群れが、空を割って浮遊する雲の間を抜けていた。
シノンはその中でも古い意匠を残すセントラル大学のキャンパス内を、静かに歩いていた。
哲学学部、時空体験課程。通称「思索跳躍」。
その名の通り、過去の歴史に没入することで哲学的命題と向き合う、国家指定の教育プログラムだった。
学生たちは生身の身体を椅子に預け、五感すべてを仮想世界へと預ける。そこでは匂いも味も痛みも、時に死さえも「本物」として存在する。
「……君の番だ、シノン君」
声をかけたのは白髪混じりの教授、マルセロ・イェーガー。
彼の後ろには、白く光る装置が鎮座していた。
それは卵のような楕円形のシェルに包まれ、入った者の神経系統すべてと同期する装置だった。
脳波、心拍、腸の蠕動、性的反応、さらには夢にいたるまで──すべてが仮想内で再現され、記録される。
「今日から始まるのは、縄文時代。約1万年以上前の日本列島に生きた人々の暮らしと、彼らの思索に触れてもらう。
君がこれから見るものは、すべて『現実』だと思っていい。そこでは迷い、痛み、時に愛することさえ起こる。
だが、忘れないでほしい。これは《問い》だ。君が君自身に投げかける、根源的な問いなのだよ」
「……わかりました」
シノンは静かに答えた。
灰色の髪が装置の光を受けて、かすかに青く揺れた。
彼の瞳は黒曜石のように深く、だがどこか脆さを孕んでいた。
哲学学部に所属する学生の中でも、彼はひときわ静かで、優しかった。誰に対しても壁を作らず、他者を受け入れる。
だがその奥には、「まだ何かに触れていない」空白があった。
「君に与えられる命題はただ一つ──『人間はなぜ死を悲しむのか』」
その言葉を聞いた瞬間、シノンのまつげがわずかに震えた。
「仮想とはいえ、そこにある死は現実と同じ重みを持つ。
君の精神が壊れる可能性もあるが……それすら、我々は学ぶ価値があると考えている。
用意は?」
「あります。行きます」
シノンは一歩、装置の中へと足を踏み入れる。
シェルが静かに閉じ、内部の神経同期が始まる。視界が暗転し、身体の感覚が消えていく。
風の音が、遠くでざわめいた。
それは人工的な冷気ではなかった。土の匂い、草の揺れ、太陽の熱。
──ここは……
「縄文時代──だ」
裸足に伝わるのは、湿った森の大地。
空を見上げると、木々の間から射す光がまるで黄金の糸のように揺れていた。
シノンの人生で初めて、彼は「文明がない世界」に立っていた。
彼の問いはここから始まる。
この地で、何を見て、誰を知り、何を失うのか。
答えは、まだ何もわからない。だがそのすべてが、これから彼の血肉となっていく。
「……いってきます」
シノンは誰にともなくそう呟き、森の奥へと歩みを進めた。