恋人として?
今日も目覚まし時計に叩き起こされた瞬間に、やはり「『明日』なんて来なけりゃよかった」と思った。……一体これで通算では何回目だろう。いや、これに関してはいじめられるようになってから毎日思うようになったことなので、やっぱりカウントはやめとこう。
だが少なくとも、今日思うことになったのは無理もないと思う。
だって、これから名前しか知らない女子と付き合うことになってしまったのだから。
『いいですよ。お付き合い。これからよろしくお願いしますね、落城さん』
夕日の中での返事がよみがえり額に手を当てる。
……どう接すればいいのだろう。自分はこれから清崎さんと付き合う……ことになるのだが。
わからない。これまでの人生で彼女はおろか、女友達や好きな人すらできたことがないのに。
まだ清崎さんの人となりも知らないし、そもそも僕は清崎さんに恋愛的な感情を持ってるわけでもない。
かといって、今さら戸塚の命令で告白したんだー、とバカ正直に話すわけにもいかない。一度オーケーで話が纏まってしまった以上、絶体面倒なことになる。この点に関しては僕のミスだ。
『いいじゃん付き合っちゃえば。お前らお似合いだしよ』
あの告白の後、元凶である戸塚は気色悪い含み笑いをするだけだし、今宮と本山も以下同文。僕なんかと清咲さんのような美人のどこがお似合いなのか、許されるなら小一時間ぐらい問い詰めたい。
清咲さんは、連絡しようにもNINEも知らないしもらえるツテもないので、学校でしか話ができない。
連絡ができたら、何で僕の告白をオーケーしたのか問い詰めたかったのだが……。
「…………」
このあたりは昨晩布団で考えまくったのだが、ついに結論は出なかった。どう考えても僕と清咲さんは互いに好き合うほどの積み重ねもないし、実は幼少期に会っていたなんて都合の良い展開もない。
かろうじて思いついたのは『清咲さんはブス専であり、僕の容姿がその琴線にヒットしたから』だが、それも確率は低そうだし事実だったらそれはそれで傷つくので却下した。
結局対応としては、まぁとりあえず彼女の出方を見つつ適当に付き合う……である。
恋人(仮)への接し方としては不誠実の極みと言って良いだろう。
「頭痛い……」
まぁ考え続けてもしょうがない。どう言おうが、物事は勝手に野となり山となる。
布団から抜け出してリビングに来ると、母がいそいそと弁当の用意をしていた。
「あら栄静?おはよう、今日は天気が崩れるらしいから玄関に───」
足音を聞き付けると、母は振り返って口を開いたが、足音の主が僕だとわかると「なんだ」とだけ言って口を閉じた。
僕はそれを無視して、自分でさっさと食パンにバターやハチミツを塗ってレンジに放り込む。しばしキッチンでウロチョロしていた僕に母は「邪魔」すらも言わず、淡々と弁当の具材を切っていく。
僕も無言のまま朝食をコーヒー牛乳で流し込み、さっさと洗面所へ向かった。
コンプレックスが多い自分の顔を見ながら肌を洗って髭を綺麗に剃り、まだ目元に絡み付く眠気を目薬で霧散させる。鞄に湿布と頭痛薬を補充すると、もう登校準備完了だ。
戸塚から呼び出しのNINEが来てないことを確認すると、悠々と学校へ向かうことにする。家を出る直前、ふとテーブルの上に目を向けると、色違いの赤と青の弁当の包みがあった。
「おや」
珍しいこともあるものだ。僕に弁当が用意されているなんて。一昨日取られた金額的にしばらく昼飯は抜きになると思ってたからありがたい。
たまには運も向いてくるものだ、と思いながら、いつも兄が使っているのは赤の方なので青の包みを取ろうとする。
瞬間、それまで僕と目を合わせようともしなかった母が声を発した。
「淘辞、それはあなたのじゃないわよ」
「え?」
聞き返した瞬間、ニュッと横から長い腕が伸びて赤い包みを取っていった。見ると、後ろに僕の兄である落城栄西が立っていた。
僕と似ても似つかない筋の通った鼻や、大学生特有のちょっと洒落たファッションが高身長の身なりによく似合っている。
「驚かさないでよ」
「……じゃ、行ってきます」
抗議を無視して、兄はさっさと出ていってしまう。
「行ってらっしゃーい気を付けてねー」と母さんが言い終わるまで待ってから、改めて僕は尋ねた。
「……で、これは誰の分なの?」
「お隣のミネコさんとこの娘さんの分。朝忙しいらしくて、頼まれちゃったのよ。あんたこれから出るんだから、ついでに届けてあげなさい」
「……して、僕のお昼は?」
「適当に自分で済ませて」
「……あーい」
結局いつも通りだった。
ただし一瞬でも希望をちらつかされた分、いつもより落胆は大きい。
暖かくて美味しいそうな匂いを放つ包みに、思わずため息が出た。
「……じゃ、僕も行ってきます」
母は答えなかった。
返事を期待したものじゃなく単なるルーティンとしての言葉だったので、こっちは特に落胆もなかった。
嫌な出来事は重なるもの。
こんな日に限って僕は日直だった。
できるなら朝の内に清崎さんと話しておきたかったのだが、板書を写すのが遅い子に合わせて黒板を消したり、戸塚に学級日誌を窓から投げ捨てられたりしていると、とても自由な時間は無かった。
特に学級日誌の件は大変だった。いくら日誌程度といえども学校の備品を紛失するのはシャレにならない。そして戸塚は『飽きた頃に戻す』なんてことはせず、飽きたら知らんぷりの放ったらかしなので、必死に探し回る羽目になった。探して、中庭のハスが浮かぶ池の真横に落ちていたのを発見したときはさすがに肝が冷えたものだ。
「はー……」
休み時間も絶えず動いていると、三組を覗く暇もなくあっという間に昼休みになる。身体中のエネルギーを使いきったような感覚だった。きっと普通に昼飯があれば、さぞ美味しく感じられただろう。
「らくじょー、早く迎えに行ってやれよホラ」
丸くなっていた背中を物理的に押される。
振り返ると、ガラガラと周りの机が動かされる中、自分の机の上に腰かけた戸塚たちがニタニタと笑っていた。昨日までと同じ、見世物でも見るような笑みである。
「三組の、お前のカノジョさんをさ」
その台詞のせいで、低かったテンションが更にただ下がった。というか、本来肝が冷えるべきイベントだったのはこっちだった。
「……誰だっけ」
なんとなく、せめてもの抵抗の意を込めてすっとぼけてみる。だが精一杯の抵抗も、戸塚の「あぁ?バカかお前」という太ももへの蹴りであっさり返される。
「キヨサキに決まってるだろうが。ちょっと考えたらわかるだろ。今日は記念すべきカップル一日目なんだから、昼飯ぐらい迎えに行って一緒に食ってやれよらくじょーくん」
「……お金無いんだけど」
「あ?」
「清崎さんと一緒にお昼行こうにも、僕今日はお弁当じゃないし……学食で何かを買うこともできないんだけど。……今お金ないから」
できる限り「あんたらのせいで」と言外に滲ませたつもりだったのだが、
「は?んなもん俺らに言われても知らねぇし」
「借りればいいじゃねぇか。カ・ノ・ジョ・から」
「ぶふっ!交際初日で彼女に金せびる彼氏とか……ドン引きー」
無駄な抵抗、無意味なやり取り。
そもそも会話にならなかった。なぜだろう。同じ言語同じ常識で話しているはずなのに。
まだ異星人の方が会話ができそうだ。
「『カレカノ』なんだからさぁ。ちゃんと一緒にいてやれよ?」
僕と同じ種族であるはずの戸塚は、横にいる今宮たちと笑い合うだけ。
……完全に他人事扱い……てか、実際他人事だと思ってるんだろうな。自分が元凶だという自覚も無いのだろう。
ああ、頭痛い……。昨日までの清咲さんは面倒事のタネで、今日の清咲さんは頭痛のタネだ。
本当になんでこんなことに……いやもちろん何割かは自業自得なんだけど。
……まぁ、このまま駄々をこね続けるわけにもいかない。
戸塚の機嫌を損ねすぎれば罰を受けることになる。昨日確認するとハッキリ痣の残っていた腹は、今も鈍く痛んでいる。
無闇に傷を増やすのはごめんだ。それが嫌なら、戸塚の作った盤上で素直に踊るしかない。
『手の平の上で踊る』というのはよく悪い意味で使われるが、僕としてはそれは弱い者が生存するための立派な戦略のように思う。予定通りに踊り大人しく見世物になっていれば、少なくとも指揮者に飽きられるまでの安全は保証される。
たまに指揮者の気分一つで殺されるが、それは結局手の平から逃げ出しても同じこと。
ならやることは一つ。今日を無事に過ごすために、戸塚の操り人形になるだけだ。
僕は席を立って、三組に向かった。
高校生にとって他のクラスの光景というのは物珍しく映るものである。
といっても、広さやら床の材質やら机の配置やらに違いは無い。個性が見える部分といえば、黒板の『日直』の書き方や掲示物の配置程度なのに、不思議なものだ。
後ろにあたるドアから覗いた三組は、人が多い一組とは違いえらく寂しかった。どうやら三組単体ではさほどグループが形成されていないらしく、ほとんどが別の教室か学食かに行っているようだ。
しかし、そんな閑散とした教室の中に清咲さんの姿は見当たらなかった。あの綺麗な目と長髪は僕の脳内に鮮明に残っているので、見落すことはない。
一体彼女はどこに行ったのだろう。
「……あのー」
とりあえず、近くで一人弁当を食べていた女子に聞いてみる。
「清咲さんってこのクラスだよね?どこに行ったとか……知らない?」
「キヨサキ……ああ、アイツか。さぁ?田原たちもいないし、固まってどっか行ってると思うよ」
田原……知らない名だ。どうやら清咲さんは昼食はどこかへ移動してグループで取ってるらしい。
どうしようか。頭を捻るが、女子のグループが集まって食べる場所など僕には学食ぐらいしか思い浮かばない。探すのは困難だ。
増してやグループで動いてるなら、その輪にいる清咲さんに声をかけるのは邪魔でしかないだろう。となると、捜索はここらで打ち切って明日へ先送りするか。
しばし考え、今日の内に清咲さんとNINEを交換しとかなきゃまためんどくさいことになるし、交換ぐらいなら会ってすぐできるだろうと結論付けた。
どうせ食べる昼飯がなくて時間は余っている。探せるだけ探そう。
そうしてまずは学食に行こうと廊下に出た。
「……あ」
すると、廊下の端の女子トイレの前にいた女子生徒……都宮良子が声を上げた。
僕と目が合いそうになると慌ててそらす。
その仕草に嫌な気持ちになったが、せっかくなので彼女にも一応聞いてみる。
「あのー、都宮さん」
「……なに?」
「三組の清咲時瀬って人、どこにいるか知ってる?」
「清咲時瀬……さぁ?知らないけど」
「そっか。ありがとう」
特に期待はしてなかったためあっさり引き下がる。
すれ違う際、都宮は眼鏡の位置を直しながらやたらと僕の方をチラチラ見てきていた。おそらく、僕が何か面倒なことをしているのかと疑っているのだろう。ご苦労様だ。
彼女の視線を無視して、僕は学食へと向かった。
結局、この昼休みで清咲さんは見つけられなかった。
その後の五、六時間目は思い切り爆睡してしまった。授業内容はおろか、合間の休み時間の記憶さえない。
どうやら僕が考えていた以上に精神的疲労は溜まっていたらしい。相当深く眠っており、教師が呼び掛けても起きなかったようだ。……さすがに少し恥ずかしい。
ただぶっちゃけて言うと、今日清咲さんに会うような事態にならなかったことを、心のどこかで安心してもいた。
いや、別に今日たった一日清崎さんに会えなかっただけで根本的な問題が解決したわけではない。ただ先送りになっただけ、憂鬱な月曜日が警報で休みになったようなものなのだが───それでも幾分かは精神が回復した。
ちなみに、僕を起こせなかった教師はその後無言で手帳に何か書き込んでいたらしいのだが、そっちは特に危機感は感じなかった。どうせ今さら真面目に生活したところで、戸塚たちによって根付いた『課題をよく忘れ、授業もサボる不真面目な生徒』という教師からのレッテルはもう覆せないだろうし。
帰ってから寝過ごした部分の復習をやると決めて、さっさと掃除をして放課後になる。
清崎さんと合流できなかったことを聞いた戸塚は、
「はーーお前本当使えねぇな。そんなんだから童貞なんだよ。明日は絶対やれよ」
と言ってさっさとバスケ部の練習に行ってしまった。なんでも、今日は顧問が最初からいるらしい。
彼らのような人種にとって、教師からの信頼は自分が動きやすくなるための重要なステータス。変に失うわけにはいかないのだろう。
なので、今日の僕は珍しく自由になった……というとそういうわけでもない。
「それでは、五時までに提出してくださいね」
「……はい」
他の学校ではどうだか知らないが、暗寧高校は職員室の隣に図書室がある。だから、もし提出した課題に不備があって返却された場合、隣の図書室ですぐに書き直すことができ便利だ。
僕も今まさにその恩恵にあずかっている。
(こうなるってことは、ここのsinθは三十度になるから……答えは二分の一か)
昨日に解いた数学の問題をもう一度解いていく。本来は今朝が提出期限であり、そして実際に提出したはずの課題だ。
しかし、教師の手に渡ったときには何故か僕の物だけ失くなっていたらしく、未提出扱いとなってやり直すことになった。
どうして僕のだけ消えてしまったのだろう。不思議だ。教師に渡す前の回収役が本山だったのが何か関係あるのだろうか。
「…………」
脳に浮かんでる文字をアウトプットするのが面倒になり、ペン回しを始める。しかし僕の技量が低いせいか、ペンは四回転したとこであっさり手元を離れ、机に落ちて芯が折れてしまった。
ますますやる気が無くなり、手の上に顎を乗せる。
くだらない。
なんかもう、なにもかもが。
戸塚のグループはこんなことまでして何が楽しいんだろう。さっさと部活に行ってしまうんだったら今こうして嫌がらせの結果を受けてる僕の姿は見れないではないか。なのになんの意味があるのだろう。
ソシャゲのデイリーイベントみたいに、習慣というか片手間みたいに嫌がらせされても困るのだが。
せめて嫌がらせするならちゃんと目的を持ってやってくれ。
「……はぁ」
ペンを持ち直した。
くだらないが、これのせいで貴重な時間を無駄にしていくのはもっとくだらない。
さっさと終わらせよう。
問題数が多かったり答えを忘れていた部分もあったため、終わったのは三十分後だった
職員室入室の際のマナーを二回ほど指摘されながら、ようやく再提出が完了する。
廊下に出る。
既に学校の各地からは部活の声が上がり始めていた。この時間帯以降の学校には、帰宅部の人間の居場所はない。
窓から見える陸上部生徒の姿に夕日以上の眩しさを感じ、僕は早々に立ち去ることにしよう。
靴を履き替え、自転車に鞄を乗せる。武道場の剣道部の掛け声に後ろ髪を引かれる思いになりながらも、僕は一人で校門を抜けた。
学校から自宅までの気ままな一人旅。一緒に帰る人はいない。カースト最下位の人間に、そんな相手がいるわけない。
幸いというか、孤独を苦に感じる性格ではなかったため、別に構わなかった。
だから、今日も僕はいつものようにほどほどにスマホに目を落としながら帰る。
……はずだった。
「落城さん」
校門を抜けた瞬間、背中に声がかかった。反射的にブレーキをかける。
なんだまさか戸塚が練習を抜け出して来やがったか、と思いながら振り向いて、呼吸が止まった。
「……えっ?」
視界に入ったのは、女子用のブレザーと吸い込まれそうな目。
「清咲とっ……と、時瀬さん?」
「はい。今度はちゃんと覚えててくれましたね」
校門の脇に立っていたらしい清咲時瀬さんが、薄く笑った。
「よろしければ、一緒に帰りませんか?」
なんだこれは。
徒歩通学らしい清咲さんに合わせて自転車を降りて押しながら、僕の脳内は洗濯機のように渦巻いていた。
「今日は特に肌寒いですね、落城さん」
「ま、まぁもう十月ですしね。これからもっと寒くなりますよ」
清崎さんが隣にいる。
憂鬱な事柄が明日に延期したと思ったら、勤務時間外に突然襲いかかってきた。色々と感情やら疑問やらが多すぎてどれから言及すればいいのかわからない。
ただまぁ、とりあえず彼女が隣にいて思うことは。
(……やっぱり間近で見ると綺麗だなこの人)
悟られない程度に横目で彼女を盗み見る。
中庭で初めて会ったときと、その次の日と嘘告白の日と。なんだかんだで清咲さんと顔を合わせるのは四回目になるのだが、何にも急かされず見られず落ち着いて会うことができたのは今回が初めてなので、長いまつ毛や小さい顔、スリムな体型といった美点を正確に認識することができた。
特に、幾度と言っているように瞳が非常に綺麗なのだ。磨き上げられた宝石のようというか、見られるだけで淀んだ心が浄化されるというか……とにかくずっと見つめていたくなる。
なぜこれほど好きになったのかは自分にもわからない。今まで把握してなかっただけで、実は自分には眼球フェチの気があったのだろうか。
しかもそれだけでなく、さっきから清咲さんの香水の匂いが風に乗って、僕の鼻腔をくすぐって止まないのだ。今までまともに女子と接したことがないため、女子ってこんなに良い匂いがするのかと心臓が情けなく悲鳴を上げている。
「───すいませんでした」
その悲鳴のせいで、清崎さんの言葉を聞きそびれた。
「えっ、あ、な、何がですか?」
慌てて聞き返す。彼女は気を悪くした様子もなく、言い直した。
「昼休みに会えなかったことです。わざわざ教室まで来てくれたそうで……」
「ああ、そ、そのことですか」
空気を喉でつっかえさせながら答える。
そのことなら別に怒ってはいない。友達付き合いは大事だ。女子ならなおさらだろうし。
そもそもこの状況を俯瞰して見れば、一番謝るべき罪を重ねているのは僕だ。
「ちょっと、昼休みは用事があったんです。ごめんなさい……」
「いえいえ。前もって約束してたわけじゃないから、本当に大丈夫ですって。それに今こうして───」
会えたじゃないですかと言いかけて、ふと思考が止まった。なんだか違和感を感じたのだ。
何故、僕はこうもすんなりと清咲さんに会うことができたのか。何故、彼女の頬が若干赤色になっているのか。
「……すいません急ですけど、清崎さんって部活とか入ってますか?」
「本当に急ですね。……一応、写真部には入ってます。……今日は休みですけど」
「じゃあ、出し忘れた課題とかは?」
「特にありませんでした」
部活も課題も無かった。
だとすれば、彼女は本来学校に残る義理はなくさっさと帰ってよかったのだ。にもかかわらず、彼女はこうして校門から出たばかりの僕を呼び止め、共に帰路についている。
放課後になってから三十分も課題に時間をかけていた僕と。
改めて視線を向けてみると、清崎さんの手は微かに震えて赤くなっていた。
「……もしかして、ずっと校門で待ってたんですか?」
「はい」
あっさりと、あっけらかんと、清崎さんは頷いた。思わず僕の方が焦ってしまう。
「そんなっ、寒いでしょ!待つにしても校舎内で待っててくれればよかったのに!」
「いえ、それでもしどこかで入れ違いになってた困ってましたし……私はこれで良かったと思いますよ」
今こうして会えましたし、と清崎さんは続ける。
いやいやそういう問題じゃない。
バッグを漁る。もしマフラーや手袋があれば今すぐに貸してあげたかったが、生憎そんな戸塚に奪われやすいものは持ち合わせていなかった。
「気にしなくていいですよ。それこそ、前もって約束してたわけでもないんですから」
「いやいや気にしますって!」
室内を宛もなくウロウロさせるのと寒い屋外に放置するのとでは全然おあいこにはならない。
あーちくしょう。カイロの一つすらもありゃしない。なんて役に立たない人間なんだ僕。
「いや、あの、本当に大丈夫ですから……そもそも昨日の内にNINEを交換していなかったのが……」
必死すぎる僕に、逆に清崎さんの方が弱った顔になってしまう。
しかし、そこで彼女は何かを思い付いたように顎に手を当てた。
「じゃあこうしましょう。今回私を待たせた分の罪滅ぼしとして、落城さんは今から私のする質問に無条件で答えてください」
「……質問?」
「はい。そもそも放課後私が落城さんを待っていたのは、NINEを交換するのと、落城さんに聞きたいことがあったからなんです。その聞きたいことにちゃんと答えてくれるのなら、今回の件はおあいこということで」
ピッと指を立てながら言う。
また唐突だったが、別段メチャクチャな話では無さそうだった。質問に答えるだけなら、贖罪としてもちょうど良いかもしれない。
こういう時、やらかした側というのは許されるよりも軽くでいいから罰を与えられる方が楽になるものである。その罰と同時に清崎さんの目的も果たせるなら……。
「わかりました。それで、僕に何を聞きたいんですか?」
改めて清崎さんに向き直る。
すると、彼女は初めて柔和な笑みを少し変化させた。目線がブレるようになり、頬に寒さによるものとは違う種類の赤が差し込み始める。
それまで何事もなく笑っていたのに急にどうしたのだろう?と疑問に思っていると、やがて清崎さんは意を決したように背筋を伸ばし、
「その……落城さんは、私なんかのどこを好きになったんですか?」
「ぶふっ」
爆弾を落としてきた。
朝食べたトーストが喉から出そうになるほどの衝撃が襲う。
清崎さんの方もこの発言が破壊力のあるものだとは自覚していたのか、
「いえっもちろん、こんなことを尋ねるのが無粋だということはわかってます。でも、やっぱり気になってしまって……。落城さんとは、本当にこれまで面識があったわけではないので、一体いつ私が落城さんに好かれるようなことをしたのかと……」
「いやっ……まぁそりゃ、そうなりますよね」
心の中で三まで数えて落ち着きを取り戻す。
確かに、驚きはしたが苛立ちはない。
むしろ当然の疑問だ。僕が清崎さんの立場だって、きっとどこかのタイミングで似たことを聞いていただろう。
でも、だからといっていざその質問をされるのは非常に困る。
なにせ僕にもわからないのだから。
ただ戸塚に命令されたから、自分が傷つきたくない一心で告白したに過ぎないのだから。
「えー……えっと」
テスト中よりも脳をフル回転させる。
それらしい台詞……真っ先に思い付いたのは、『好きになるのに理由なんて必要ですか?』という古来からの便利な言い回しだ。しかし、嘘でもその台詞を使うのはなんとなく抵抗があった。
たぶんだが、それは本当に恋をしている人間しか言ってはいけないものだと思う。こんなところで、僕ごときが不誠実な使い方をするわけにはいかない(この嘘そのものが不誠実だというのはスルーの方向で)。
しかし、だとすれば何を言えばいいのかわからない。それでも何か言わなければ不自然なので、なんとか言葉を紡ごうとする。
「えっとですね……以前……そう。以前から、実は僕、清咲さんのことを知っていたんですよ」
「以前から……ですか」
この辺りから、ようやく脳と口が同時に働き始めた。
「それで……綺麗な人だなって思ってたんです。立ち振舞いというか、雰囲気というか……その、色々と。まぁぶっちゃけてしまうと、一目惚れっていうか……。そんなときにあの校庭でちょっと話したことも重なって」
三割ほどの嘘を真実で丁寧に包み込んでいく。実際にやったのは初めてだったが、予想以上にいい塩梅な話になってくれた。
「特に瞳が綺麗だと思ったんです。吸い込まれそうっていうか……丁寧に磨き上げられたみたいで、ずっと見ていたくなるっていうか」
「……そ、そうなんですか?」
真実の割合が強い部分になったためか、思わず語りに熱が入ってしまった。
……僕も悪かったとは思うが清崎さんよ、少し恥ずかしそうに口許に手を当てるぐらいなら最初から聞かないでほしい。
あなたも恥ずかしいかもしれないが、こっちはもっと恥ずかしいのだ。嘘なら尚更である。
……語りが終わると、なんとも言えない空気が僕らの間に流れ始めた。しまった。全然上手くいってなかったかもしれない。
「そっ、そういう清咲さんは、なんで僕からの告白をオーケーしてくれたんですか?」
とにかく空気を切り替えたくて、僕はそんな質問していた。
先に清咲さんが訊いてきたから僕も訊いて大丈夫だろうと判断したのもあるし、単純に僕が知りたかったことというのもあった。
だが、その質問を受けたとき。
さっきまで赤らんでいたはずの清咲さんの顔から、急速に赤みが引いていった。
四拍ほど押し黙り、瞬きだけをする。
不意にエラーが起きたロボットのような仕草に、僕が「清咲さん?」と声をかけようとしたあたりで、
「どんな人からでも、好意を向けられて嬉しくない人はいませんよ」
ポツリと、清咲さんは口を開いた。
台詞自体は微妙に答えになっていないような気がするが、さほど違和感は無い。むしろ男向けラブコメでよく聞くようなベタな台詞だ。
しかしそれを発したときの彼女の様子は、どこか違和感が感じられた。対人経験が乏しい僕では、その正体はわからない。
ただ心なしか今の彼女の目は……初めて会った───
「あ、すいません。私の家、こっちなんです」
明るい声が上がった。
いつの間にか、それなりの量を歩いていたらしい。僕と清咲さんはT字路へ差し掛かっていた。そこで僕の家とは反対方向への道を、彼女は指し示している。
どうやら、ここで解散らしい。
「それでは、また明日。話せて良かったです、落城さん」
そう言って、清咲さんは歩き去っていった。
「くしゅん」
小さな声が聞こえた。
振り返ってみると、口許のあたりに手を添えている清咲さんの後ろ姿。
「……やっぱり寒かったんじゃん」