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間の良いことに、やってきたベンチにはちょうど誰もいないようだった。
背中に手を添えたまま彼女をゆっくりと座らせ、飲み物が置けるぐらいの距離を空けて僕も隣に座る。
正面に目を向けると、銀色の柵がありその先にプールのように水があるのが見えた。どうやら、ここは最初に見た大水槽のちょうど真上に位置しているらしい。水の表面からはあの大きなエイやサメの背中がうっすらと見えていた。
……清咲さんはまだ何も話さない。
することもないので、僕は揺らぎと共にボヤける魚を眺めていた。次第に周りにいる客たちの声が遠くなり始める。
「……さっきは、すいませんでした」
水面に映る魚が視界を四往復ぐらいしたあたりで、ようやく落ち着いてきたらしい。清咲さんはゆっくり口を開いた。
まだ視線は伏せ気味ながらも、さっきよりかは声に生気が戻ってきている。
「僕は別に大丈夫ですけど……えっと、清咲さんは……」
言葉を投げると、清咲さんは再び俯く。
僕は、まだ正確にマッピングができていない地雷源を歩くように慎重に言った。
「清咲さんは、一体どうしたんですか?なにか……僕の態度に気に障った部分があったとかなら、謝ります。良ければ、教えてくれませんか?」
疑問符をつけた言葉だったのだが、彼女からの返答はなかった。ただ黙って、自分の膝を見るだけである。
(……言いたくないことなのかな)
予想はしていた。それならそれで深追いするつもりはない。
人間誰しも、他人に知られたくない弱点や秘密を抱えている。僕だって、今戸塚たちに情けなくいじめられてることを小学生の頃の友人には絶対知られたくない。清咲さんに知られたくないことだってある。
自分の思考に、反射的に左手首を抑えた。
「……恐怖症なんです」
そうしていたせいか、彼女が発してくれた言葉に反応するのが遅れた。
「……えっ、えっ?すいません、なんて言いました?」
完全に意識を離していたので、つい聞き直してしまう。
清咲さんは自分の膝を見たまま、それこそ告白でもするように言った。
「……私、先端恐怖症なんです」
「あー……」
言葉を認識すると同時に納得感が湧く。
先端恐怖症。人間が陥る恐怖症の一種。
「特にこれといったきっかけがあったわけではないんですけど……子供の頃から、尖った物が視界に入るのがダメなんです。目が痛くなって、気分が悪くなってしまって……」
一応小学生の時、友達の友達の友達に同じ先端恐怖症の子がいて、話だけは聞いたことがあった。
先端恐怖症の人は、尖ったものを目の前に向けられると、その尖ったものが突然飛んできて目を貫いてしまうのではないかと恐怖してしまうらしい。
実際はそんなことはありえないと本人たちもわかっているのだが、どうしてもそう思えてしまうようだ。というか、危険はないとわかってても恐怖してしまうから恐怖症なのだが。
尖った物……つまりさっきは、それが僕の指だったということか。
先ほど、僕は怯えた清咲さんを『ナイフを向けられたよう』と評していたが、彼女にとってはまさにその通りだったらしい。
「……すいません」
知らなかったとはいえ、彼女を怖がらせてしまったことに罪悪感を感じた。
「いっ、いえいえ!謝る必要はないですよ!そもそも、私が教えていませんでしたし……」
ようやく顔を上げる清咲さん。その顔には「こちらこそ申し訳ない」というような言葉が滲んでいる。
「……なんで、教えてくれなかったんですか?教えてくれたら……」
言いかけたのだが、自分で言い訳みたいに感じて口をつぐんだ。
だが、そんな言葉にも彼女は気を悪くした様子はなく、
「……面倒な奴だ、と思われたくなかったんです。さっきも言いましたけど、別にきっかけも理由もない恐怖症ですから」
「…………」
「打ち明けて落城さんに迷惑をかけてしまったり、変な奴みたいに思われたら、どうしようって……」
まぁ結局打ち明けずに迷惑をかけてしまったんですが、と彼女は自嘲した。
自分に全面的に非があると思ってるような、弱りきった表情だった。
それを見ていると、僕まで気分が落ち込みそうになった。あまり、そんな顔はしてほしくない。
「別に、変じゃないですよ」
だから僕はそう言った。
本心だった。
「恐怖症でしたら仕方ありませんし、驚きこそしましたけど特に被害を受けたわけでもないんで、僕は気にしてませんよ」
清咲さんが顔を上げる。
「理由が無いけど嫌なものなんて誰にでもあります。ほら僕だって、特にトラウマがあるわけでもないけどゴキが苦手ですし」
「……そう言ってもらえると、助かります」
おどけたように言うと、ようやく清咲さんは苦笑まで戻ってくれた。……相変わらず表情に力は無かったし、また顔を下げてしまったけど。
とりあえず伝えたいことは伝えられたため、しばらくは清咲さんの回復を待つことにした。
だがその時、
「……小学生の頃」
「はい?」
「小学生の頃、打ち明けたんです。当時の友達に」
顔を微かに上げ、彼女は口を開いた。
唐突な語りだったが、何か意味があるのだと思い黙って聞く。
「その子は優しい娘で……私以外にもたくさん友達がいるような娘だったんです。……私は人付き合いが苦手で、その娘しか友達がいなかったんですけど」
当時を思い出して薄く笑った後、「……今もさして変わらないか」と呟いた。
「その娘はよく一緒に遊んでくれて……私はその娘を信用していました」
「…………」
「だから……ある日、その娘と遊んでいたとき今と似たような騒ぎが起こって……その時に打ち明けたんです。そうしたら……」
『えーなにそれ?尖ったものが苦手なんて、きよさきちゃん変なのー!わたしは全然平気なのに!』
『きよさきちゃん、指差されるの嫌なの?うーんわかった、これからは気を付けるね!』
『えっ、きよさきちゃんこれもダメなのー?ぜんぜん尖ってないじゃん』
『え、コレも?うーむ難しいなぁ……』
『コレも無理なんだ?ふーん……じゃあコレは?』
『コレは平気なラインでしょ!?え、無理?あー無理かー、ちぇっ賭けはヒロミちゃんの勝ちかぁ』
『あははっ、これも怖いんだぁ?ほんと清咲ってさぁ……逆に尖ってるもの何なら平気なのよ』
『あ、そだ見てよ皆。この清咲って、尖ったものが苦手らしくてさ。向けると面白い反応すんのよ。ほらっ!』
「…………」
「……たぶん、最初は単純に、私のために気を付けようとするためのものだったんでしょうね。でもきっと、その内めんどくさくなってしまったんでしょう。私が苦手なものが多すぎて……」
自虐するように清崎さんは笑った。
「驚愕から心配へ。心配から呆れへ。呆れから興味へ。興味から……」
「……嘲り」
清崎さんが言いにくそうにしたのを僕が引き継いだ。
彼女は肯定も否定もしない。
「学年が上がって中学に進むにつれて、彼女は私への接し方に見下しを色濃く出すようになり、先端恐怖症のことを他の人たちへも広めだしました。その中で、私は何度も『ライン』を測るために尖ったものを向けられ続けて……それで」
「……なるほど」
あれほどの彼女の怯え様に納得がいく。
意図的にしろ偶然にしろ、トラウマを下手に刺激した場合は、人によって克服しかけるかより酷くなるかの二択になる。彼女は後者だったらしい。
「そんなこともあったので……嫌われるという不安以外にも、また怖い目に遭うかもしれない、という気持ちまであったんです」
そこで彼女は顔を上げ、棄権した選手のようにベンチに背を預けた。
「……できれば、知られたくなかったなぁ」
言葉は広場の喧騒の中へと溶けていった。
「……じゃあ、なんで今、教えてくれたんですか?僕に」
純粋な疑問として訊く。
別にあの騒ぎなど、やろうと思えばいくらでも誤魔化すことができた。
なんなら黙っていればよかった。僕は追求しないつもりだったし。
にもかかわらず、なぜ清咲さんはこうして弱味を明かしてくれたのか。
「……私にも、わかりません」
その答えを最も知っているはずの本人は、ぼんやりとしたあやふやな声音で言った。本当にわからないらしく、僕と目を合わせると困ったような顔をする。
「今日が楽しかったから……つい、肩の力が抜けてしまったのかもしれませんね」
ポシェットを掛け直しながら、彼女は僕の方を見て言った。
あの綺麗な瞳に、僕が映る。
思わず目をそらした。
……その言葉には、どんな感情が籠っていたのだろうか。字面通り、額縁通りに受けとるのは簡単だ。しかし、その裏に含まれた思いまで読み取るには、頭を使わなければならない。
それができない僕には、ここであまり迂闊な発言をしない方が良かったのだろう。
だけど……困ったように、どこか寂しそうに笑う彼女姿を見ていると。
曲がりなりにも秘密を知ってしまった僕は、こう言うべきなんだなと思った。
「……言いませんよ。誰にも」
ボソボソとした言い方ながらも、ちゃんと聞こえるように言う。
自分自身に宣言するように。
「誰にも言いませんし、今後は、なるべく気を付けます。尖ったものを清咲さんに向けないように」
「…………」
「ちゃんと、墓まで持っていきますので。だから、あの……清咲さんは、安心してくれて、大丈夫です」
半分見切り発車で紡いだせいか、途中詰まりまくってしまった。
格好つけていたつもりはないのだが、格好がつかないなと肌が赤くなる。
そんな僕を、清咲さんは無言で見つめていた。
パチパチと数回瞬きをする。
そのまま微動だにしないので、もしかした台詞の選択を間違えたかと冷や汗が流れかけたが───
「……そうですか。なら、安心ですね」
やがて、彼女は笑ってくれた。
僕の補正がかかっているのでなければ……それはこの日において、間違いなく一番の笑顔だった。
その瞬間、体の中の何かが、音を立てて跳ねた。
空気がつっかえたように、息が詰まる。冬にもかかわらず、体は暑くなっていた。
今まで感じたことのない大量のエラーが体に起きている。
自分でもわからない不調に、僕はどう対処すればいいのかと混乱していたのだが、清咲さんはそれに気づかずに立ち上がった。
「落城さん、私お腹が空いてきました」
「えっ?あ……」
スマホを取り出し、電源をつけて時間を見る。パターン化されたその動作すら、今は正確に体に指示を出さねば上手く行えなかった。
「えっと……十時半前か。確かに、そろそろ小腹が空いてくる時間帯ですね」
「ですよね」
すると、彼女はさっき僕が見つけた売店の、更に先を指差した。
「あっちの方のお店で、メロンパンやホットドックを売ってるらしいんですよ。よければ行きませんか?」
「あー……いいですねそれ。行きましょうか」
僕もベンチから腰を離す。
正直メニューにはそこまで惹かれない。さっきから渦巻き続ける動機を静めるには、座るよりも動いていた方が良いかと思ったのだ。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
紆余曲折あったが、また僕たちは並んで歩き出す。
……隣にいる彼女が今どんな気持ちでいるのか、相変わらず僕にはわからない。
だけど。
『……私、先端恐怖症なんです』
先程の言葉が反芻される。
先端恐怖症。彼女にとっては弱点そのものである、誰にも知られたくない秘密。
そんな秘密をなし崩し的にとはいえ、彼女は僕に打ち明けてくれた。
そして曲がりなりにも、『僕が他人には話さない』ということを、彼女は信用してくれた。
……きっとそこに、本当の意味での『友情』だとか『信頼』なんてのは無い。
そんなのはわかっているのだけれど。
「あ……普通の売店もあるんですね」
「みたいですよ。ジンベエザメのぬいぐるみとかも売ってるみたいで。後で寄りますか?」
「そうですね、それもいいかと……ぷふっ」
「どうしたんですか清咲さん?」
「い、いえっあの……あの看板に、変なキャラクターが描かれていて……!」
「変なキャラクター……あ、あのエイのキャラですか!?」
「はい……なんかっ、変というか適当というか……!二秒で考えたみたいというか」
「ですよね!やっぱり変なデザインですよねアレ!」
気づけば僕は、用もないのに彼女の横顔を見つめてしまっていた。
水族館の出口に着き、彼女と別れたその時まで。




