⑦美唯とハジメ。
ハジメは、大学を卒業して社会人になった。
いや、正確には実家の酒類販売業を継ぐ為、正社員として【ゆうげん坂酒販】に入社した。
それを知った美唯はハジメの部屋で祝ったが、彼女の方も少しだけ変化が有った。
美唯は【カーサ・ゆうげんざか】を退去した。
駅から徒歩十分。しかも途中にコンビニや夜九時まで営業している少しお高いスーパーも有り、実に優良物件だったのだが、彼女はきっぱりと契約解除し、荷物を纏めて引っ越したのだ。
……勿論、隣のハジメの部屋に転がり込む為に、である。
「いーじゃん! 別に家賃タダで住まわせろとか言わないからさ~、ハジメもその方が色々いーんじゃない?」
「あのですね……うちの両親に何も言ってない内に同棲とか、流石にヤバいと思うんですが……」
やたら推しまくりな美唯とは違い、冷静沈着に対処するハジメだったが、しかし答えは明白だった。互いに住む部屋の間取りは同じで寝室が広く、住人が一人から二人に増えようと全く問題が無かったのである。
そしてハジメが抱いていた懸念は、彼の両親が美唯の転がり込んだ翌日にやって来た事で、見事に瓦解した。
「初めまして! 上場 美唯です! ハジメさんとお付き合いさせていただいて……その! キチンとご挨拶に伺わなかった事は申し訳有りませんでした!」
……そう。企業を代表する顔、と呼んでも差し支え無い【総合案内所】で鍛え上げられた圧倒的な対人スキルと、生まれ持った明るく朗らかな人柄を一体化させた美唯の面談能力は、ハジメの両親の警戒心と猜疑心、ついでに若干の年の差に対する抵抗感を見事に払拭した。ついでに母親の一枝とアドレス交換も済ませ、すっかり意気投合して顔合わせは終了した。
因みに父親の一郎の意見は「二人目の娘が出来たようなものだ」であり、特に誰も注目しなかった。
さて、こうして二人の関係は両親に開示され、残す婚約まで一直線……の、筈だった。
ここで突如、疾風の如く現れて事態に新たな波紋を巻き起こす者が、現れた。
……ハジメの妹、継美が大学受験に合格し、あろうことか兄と同じキャンパスへ通う事になったのだが……
「……お兄ちゃん? 確か隣の部屋、空きになってたわよね」
そう、まさかの隣室に入居を決めてしまったのだ。
「初めまして! 一 継美です! お兄ちゃん共々よろしくお願いしますね!」
つい先月まで女子高生だったとは思えない明瞭さで、継美は美唯に向かって箱入り引っ越し蕎麦を差し出した。だがしかし、引っ越し蕎麦の箱の向きは裏返しの上、ついでにガッチリと箱を力強く鷲掴みにし、何らかの圧迫感を漲らせている。
「え、ええ……はじめ、まして……」
美唯は差し出された箱を手に取るが、その箱は微動だにせず、継美から発せられる怨念をみじみじと伝達させ、滲み出る負のオーラを発していた。
「こらっ! 継美!! 初対面のヒトに失礼だろ?」
「えーっ? 私だけ初対面だから仕方ないじゃな~い!」
……これはある意味正論でありながら、明らかな言い掛かりであった。何故なら顔合わせの日が継美の試験前日になったのは、多忙な両親の都合で決められたのだ。ついでに継美に試験が終わったら是非来て欲しいと、美唯は両親を経由して誘っていたのだが、
【……試験前だから、集中したいです】
と、継美の方から突っぱねたのだ。その経緯が二人の間に広くて深い渓谷のような溝を掘り、今に至る。
「……継美ちゃんと、仲良くしたいけど……」
美唯は小さく呟きながら、しかし十歳近い年の差の小娘に、マウントを取らせるつもりは毛頭無い。
「ちょっとだけ、本気出しちゃっても、いいかな」
そう嘯く美唯の背中に、いつもとは違う何かを感じ取り、ハジメは小さく戦いた。
引っ越し初日から、子供じみた意地の突っ張り合いを演じてしまった事に、継美は深く後悔しながら溜め息と共にカップラーメンを啜り込んだ。
近い将来、自分の義理の姉になるかもしれない美唯に、明らかな敵意を剥き出しにしながら、宣戦布告をしてしまったのだ。
(……あー、穴があったら入りたいっての)
悲しい思いと共に縮れ麺を飲み込んだ瞬間、アパートの扉がダダダンダンと連打され、継美は飛び上がらんばかりに驚いた。
「ふぁいっ!! ちょと待て……って、あー」
「……こんばんは~♪ まだ起きてた?」
午後七時に寝る訳ねーだろと思いながら、予想通りに現れた美唯の顔を睨みつつ、
「……一体、何の用ですか」
と、だけ返答するのが、精一杯だった。
「いえね、未来の義妹ちゃんに差し入れ、持ってきたの!」
快活な声と共に美唯は部屋の中へ踏み込むと、まだ整理されていない段ボールの上に、持って来たお盆を載せた。
「……差し入れ、ですか。まあ、頂きますが」
そう言いながら手を伸ばそうとした継美だったが、その指先がお盆の上に載ったフキンを掴もうとした刹那、
「あら? そんなに急かさなくても大丈夫よ~」
さっ、とお盆ごと引き戻し、自分でフキンを取り除いた。そこには大きな皿に盛られた、香ばしく焼き上がった手羽先。そしてその隣にまだ湯気の立ち上るソーセージが、山のように載っていた。