⑥ウワバミさんは必ず今夜も現れるだろう。
(……どーしちゃったんだろう、私)
帰宅してシャワーを浴びながら、美唯は独りで思考の迷路をさ迷っていた。
突如降って湧いた見合い話。
意識していなかった隣人の学生への想い。
二つは平行して訪れたが、どちらも美唯にとって重要な選択肢であり、決して避けて通る事は出来なかった。
しかし、送られてきた見合い相手の写真は、美唯の鷹揚でおおらかな美的センスから見ても……ぽっちゃりと言えるレベルではなかったので、パスしたい懸案だった。
対してハジメの事は……酒に飲まれながらとはいえ、ちょっとオトナの女性ポジションで事に臨みかけた訳であるし、美唯としては【アリ】かもしれない。いや、はっきり言ってしまえば、我が家にリアル版養老の滝が常時補完され続けるのである。優良物件以外の何物でもない。
そうと決まれば、美唯の行動は機敏だった。
まだ水の滴る髪をざっとタオルで拭い、ドライヤーで粗く乾かしてキュッとヘアゴムで束ね、裸体に巻いていたバスタオルを払うと……出来るだけ新しく、そして深めの色の揃いのショーツとブラを身に付ける。そしてタンスの中で唯一、ふんわり柔軟剤仕上げをしておいた白Tシャツと、これだけはいつもと同じデニムのスキニーを穿いて、最後にオトナの女性を格上げさせるブレスモアの粒を三つ、口の中へと放り込んだ。
……よし、戦闘準備はバッチリだ。
出来るなら、少しは何か口にして小腹位は満たしておくべきであるが、しかし生憎とツマミになるような代物しかアパートの室内には無かった。まさか……こんなタイミングで《ちょいと甘めのピリ辛イカスティック》とかをもむもむ咀嚼しながらハジメ宅に赴くとかは、絶対に避けたい。
結局、美唯は午後六時五十三分に築十三年のアパートメント【カーサ・ゆうげんざか】の扉を開けて直ぐ廊下を左に曲がり、隣部屋のハジメ宅へと一歩踏み出した。
(……どうしちゃったんだろう、俺)
夕方になり、塾講師のバイトに向かう恭也を見送ったハジメは、がらんとした自分の部屋の中で物思いに耽っていた。
彼女持ちの恭也に、ハジメは(それとなくぼやかしながら)美唯への気持ちを打ち明けると、意外でもなさそうな反応だったので、
「俺、そんなに態度に出てたの!?」
と無自覚なまま尋ねる。すると恭也はやや呆れながら、ハジメの行動や室内に顕在する様々な相違点を列挙し、
「……と、まあ……誰が見ても判る程度にな」
そう言われた彼は、恭也の前で項垂れたのである。
「でも、そういうのは悪くないぜ」
恋愛経験に乏しいハジメから見て、恋愛偏差値の高い(と思われる)恭也にそう言われると、何だか妙な勇気が湧いてくる気がするのだから、不思議なものである。
「……そうかなぁ」
「ああ、そうだよ。だって相手から見て判る位に【自分は相手を好きだ】って気持ちが顕れてるんだぜ。悪い気持ちになる訳ないじゃん」
ハジメはそんなものかと思いながら、言われてみればそうかもしれないと考える。そもそも、本当に顔も見たくない相手なら、わざわざ部屋を訪ねて来る筈もない。オマケに酔って寝入った自分を介抱してくれたのなら……これは、ひょっとすると……
……自分にもチャンスが巡って来たんじゃないか?
「お~い、ハジメちゃ~ん♪ 居るでしょ~?」
……っと、その時。耳に馴染んだ美唯の声がドアの外から聞こえ、ハジメは意を決して立ち上がると下駄箱の上に手を載せながらドアの鍵を開け、
「……こんばんは」
出来るだけ冷静を装いつつ、部屋の中へと美唯を招き入れた。
「……」
「……」
しかし、美唯は来た時とは打って変わったように黙り込み、釣られてハジメも口を開くタイミングを逃してしまい、そのまま沈黙してしまった。
静かに響くエアコンの唸りだけが支配する一室に、ハジメと美唯はテーブルを間に挟んで俯き合ったまま、暫し時が過ぎる。
そして残暑の気長な夕陽が傾き切ったその時、二人は同時に顔を上げ、互いに口火を切ろうと唇を開きかけたのだが、
何となく、お互いの唇が各々上下に縫い付けられて、頭の中が真っ白になったまま……時が過ぎる。
しかし、沈黙はいつか、必ず破られるものである。
先を制して動いたのは、ハジメであった。
彼は語る代わりに立ち上がると冷蔵庫に向かい、ガパンと扉を開けると手を突っ込んで、冷えきった缶ビールを二缶掴む。
くるりと身を捻り手近に有った使い捨てお絞り(業販用を両親が置いていく)を鷲掴みにし、テーブルへ引き返すと再び腰掛けてから、
「……美唯さん、飲みましょう」
そう言って、お絞りと共に差し出した。向かい合わせて座る美唯も、わざわざ出向いて来たのに、それを断るような馬鹿ではない。
「……望むところよ」
不敵な笑みと共に缶ビールを受け取ると、二人は互いの缶の縁と縁とをコツンと当て、
……ぷしっ、と景気良くプルトップを引いた。
沈黙。接触。嚥下。恍惚。至福。
二人の視線は互いに絡み合い、互いの缶の底を眺めていながら、その実見ていなかった。見詰めていたのは、美唯はハジメの顔であり、又、ハジメは美唯の顔を、である。
こうして二人だけの宴は開闢し、朝になるまで飲み明かし
……なかったのである。
それは何故か。それは何故か。
賢明な者ならば、判るだろう。
真に互いを意識しつつ、我が意を酔いの渦中に投げ込むような愚者は、決して大願成就など出来はしない。つまり……まあ、そういう事である。
天井の蛍光灯に表記されているメーカー名を必死になって読みつつ、ハジメはワイルドな性格だった祖父が、幼かった頃の自分に面白半分で教えてくれた事を、全て理解した。
【……いいか、ハジメ! すわ鎌倉って時はな、天井の木目か畳の織り目の数を数えて頑張るもんなんだよ!】
……ああ、じーちゃん。俺、今すごく……判ったよ。
ハジメはその瞬間、今も元気な祖父に向けて、心の底から感謝した。