⑤ウワバミさんとハジメくん。
五日目の朝。
美唯は会社の通用口から屋内に入り、ロッカールームで着替えていると同僚の凛と顔を合わせた。
「おはよー。美唯……まだ酒クサイわよ……」
「んー? そう?」
答えながらカバンの中から取り出したミントカプセルを掌に載せ、じゃららと乱雑に放り込みバリバリと噛み砕いた後、美唯はぶほっと盛大に噎せた。
「……ワイルド過ぎねぇ、ホント」
「……ぜぇ、ぜぇ……済まないのぅ、花子サン」
背中を擦る凛に細やかにボケては華麗にスルーされながら、二人は受付に向かって歩き出した。
「で、お隣さんとはどーなのよ」
「……相手はまだ大学生よ、別に何もないから……」
一流商社【イトマソ】の総合受付担当の二人は、上っ面で淑やかに微笑みつつ業務をこなし、その合間に世間話をしていた。
「でもさ、大学生なら美唯がキチンとエスコートしていけばさ……」
「そーだけどさ……私も良く判んないだよね……」
その会話の中で、美唯は彼女らしからぬ歯切れの悪さを見せ、凛の眉間にシワを寄らせる。
「ふざけないでよ……美唯! アンタも訳の判んない事にこだわって……」
凛は、美唯が両親から見合いの話を持ち掛けられている事は知っていた。だからこそ、自分の意見を主張するでもなく、かといって見合い話に積極的にもならない美唯が歯痒く、そしてもどかしかった。
「失礼します。第二営業部の坂下様にお取り次ぎをお願いしていた株式会社キタミの……」
と、話が白熱しかけた丁度その時、アポイントを取っていた取引先の営業マンが受付に現れ、二人は即座に会話を中断した。
「だからさ……見合いすんの? それともハジメちゃんと付き合うの?」
仕事を終えて徒歩で最寄り駅に向かって歩く最中も話は弾み、今ではもう凛から【ハジメちゃん】呼ばわりされていたが、美唯の方はまだモヤモヤしたまま。
「まあね……確かにあんたんとこは、厳しい家柄だからさ……」
彼女を思って発せられた凛の言葉も、無言のままの美唯の頭の上を、僅かに逸れて素通りしていく。つい声を荒げて更に何か言おうとしたが、タイミング悪く互いに乗る逆方向の電車が駅構内へとやって来た。
「美唯……また明日」
「……うん」
二人は声に出して挨拶を交わし、別々のプラットホーム目掛けて歩き出した。
「……おい、イチ、聞いてんのか?」
大学の就職担当者の声に反応出来ず、思わずハジメは隣に座る恭也の顔を見るが、
(……お前、素直に謝っとけ)
そう小声で呟かれたハジメは、ガタッと折り畳み椅子を弾き飛ばす勢いで立ち上がると、
「……さっせんでしたっ!! お手間御掛けしますのでスルーでお願いいたします!!」
……明確に的外れな返答をし、白髪混じりの担当者が少し気圧された結果、スルーさせる事に成功した。
「……寝てたの? オレ」
就職セミナーの終了後、ハジメが恭也に向かって尋ねると、
「寝ちゃあ居なかったけどさ、全然聞いてなかったぞ……お前」
そう言いながら、彼はスマホでこっそり撮影しておいた動画データをハジメに転送し、
「ほれ、これで三本分確定な」
彼等の間に取り交わされている見返り請求権が成立した。
「……でよ、実際のところ……どうなん?」
「……何が」
どっちみち中身は同じだし、お礼のつもりなら賞味期限の長い方が良いと、コンビニで新しい缶ビール三本を買って袋ごと差し出したハジメに、恭也が尋ねる。
「……たぶん、実家に戻るかもしれないな」
「いや、そっちじゃなくて……えっ!?」
大学卒業後の進路を聞いたつもりじゃなかった恭也は、ハジメの告白に驚きつつ詳細を聞いた。
「へえ……何だか意外だな」
結局、進路の話は帰路の最中では終わらず、恭也はハジメの部屋へと辿り着いた。
ついでに今回のウェルカムドリンクは、ノンアルビールだった。内心で(普通はコーラとかじゃね?)と思ったが、口にするのは止めておいた。
それはともかく話を戻すが、恭也の知る限り、ハジメの実家は結構手広く業販もしている酒販売店で、おまけに市内に三店舗の支店もある。地域のお祭りには必ず屋号が書かれた【薦被り】の酒樽が奉納されていて、それだけ名の知られた店の後継ぎになれれば……恭也から見れば、安泰そのものとしか思えない。
しかし、大学で醸造学と微細生物分野の課程を選択したハジメは、有名企業の開発部門に就職するか、或いは学院で更に研鑽を深めるのだとばかり思っていたにも関わらず……結局、どっちに転んでも恭也から見れば羨ましい状況だ。まあ、恭也の状況も実家の後ろ楯が無い以外、大して変わりはないのだが。
……しかし、それはさておき、しかしである。
恭也は、気付いていた。ハジメの行動に、今まで見られなかった微妙な差違が生じている事を。
先ず、この数日間、彼の帰宅が早くなった。いや、今までも早い事は多々あったが、きっちり毎日決まった時間に帰宅する事は、一度もなかったのだ。
そして、恭也を始め他の男子学生を数日間、自室へ絶対に近寄らせなかった。過去にハジメの妹(高二)が遊びに来た時ですら、恭也はハジメが彼女を家に送り届ける時まで、部屋に居る事が出来たのだ。
(……女だな)
恭也の勘はその瞬間、透き通る氷塊のように冴え渡った。しかしそれは、無用な計算と緻密な愚考の果てに導き出された結果だったが、結局ほぼビンゴだった。
アパートの玄関にきっちりと揃えられた靴類。
流しの皿カゴから消えている食器類。
キチンと閉められた寝室との仕切り用の襖。
……そして、丁寧極まり無く先端を三角に折られたトイレットペーパー。これは有り得ない。一人暮らしの男子学生がやる事ではない。
そう結論付けた恭也が、ハジメに向かって具体例の羅列を突き付けて真実に迫ろうとしたその時、
「……あのさ、俺……好きなヒトが居るんだけど……」
ハジメが恭也に向かって、初めて告げたのだ。