④ウワバミさんはきっと、明日もやって来る。
「……私さぁ……お見合いする事に……なっちゃったんだよね」
上場 美唯が切り出した言葉の意味を推測する為、ハジメは暫く立ったまま考えていた。
お見合い。知らぬ者同士が互いに写真等を参考に時間を決めて、結婚を前提とした付き合いを始める為に顔合わせをする事。
【結婚を前提とした付き合い】
……結婚?
「はぁ……ずーっと独り身で……気楽に暮らしてたけど。とうとう私の両親が本腰入れて、相手を見繕うからって……鼻息粗くってさぁ……」
独り言のように呟いた美唯が、すっかり泡の無くなったビールグラスをするっと持ち上げて中身を飲み干し、再びコースターの上へと戻す。
「お見合いの相手って……その、わ……年下なんですか」
声を上ずらせながら、やっとそれだけ言ったハジメの顔を、美唯はまじまじと眺めてから、
「……気になる?」
少しだけ意地悪げに口を曲げた後、直ぐに真顔になってわざとらしく焦らすように尋ね返すが、やがてへにゃりと力を抜いて頬を緩めた美唯は、自分の使っていたグラスをそのままハジメの方にぐいっと突き出してから、
「……知りたかったら、飲みなよ……ハジメちゃんもさ!」
思わず彼がグラスを受け取った瞬間、奪い取った瓶ビールからドボドボと乱暴に注ぐものだから、ぶくくと泡と液体が綯交ぜになりながら、一気に縁まで競り上った。
……これ、間接キスじゃね?
一瞬、ハジメの脳裡を当前の理論が過ったが、
「ほれ! はよ飲め若者!! 飲めば答えが判るときめきワクワクなんだからさ!!」
もう実にしっちゃかめっちゃかな急かされ方で美唯が煽るものだから、ハジメも自棄になりながらグラスをぐいと持ち上げ、ごっ、ごっと一気に嚥下した。
……そのビールの味は、ハジメが今までの人生で飲んだ中で一番苦く、そして仄かに甘かった。まあ、たったのニ年かそこらの時間内で、だが。
ハジメに見合いの相手は年下か、と尋ねられた時。美唯は少しだけ嬉しかった。
もし、彼より年上だったら、まだ学生の自分に付け入る隙は一切無い。しかし、もし美唯より年下だったのなら、ハジメにも僅かに競り合える機会があるかもしれない……そう打算したのなら、目の前に座る誠実そのものの青年が、自分のような独り身で燻っている三十路手前の女を……。
その気持ちは、美唯の中に埋もれていた女としての自覚を甦らせ、今まで意識的に遠ざけて来た年下の男として、ハジメを見詰め直す切っ掛けになった。
最初は、安酒を提供してくれる【リアル版養老の滝】だったハジメも、次第に付き合いを深くするにつれ、それなりの人生観や社会に対する視点を持ち合わせた、一人の人間(まだ学生だが)なんだと見直すようになり、
そして……そうなのだ。
毎回、あれだけしたたかに酔っ払った美唯を相手にして、淫らな行為に及んだ事は一度として無かったのだ。
●(……でも、それって只の臆病虫じゃない?)
○《いやいやそれは違うでしょ。何の前提も無いまんま、いきなり行為に及ぶような奴とお前はヤリたいのか》
唐突に脳内で黒美唯(●)と白美唯(○)が、侃々諤々(かんかんがくがく)と赤面モノの協議を始めるが、最初は恋人手繋ぎする所からだ、とか、いやいや流石に中学生じゃあるまいに、とか、段々話が脱線し始める。
やがて、○と●の白熱した議論が沈静化した時、美唯の前で酔い潰れたハジメが突っ伏し、何か呟きながらテーブルの上で溶解し始めていた。
「おーい、ハジメちゃーん? あーあ……すっかり酔っ払っちゃって……」
自分が犯人だと言う事をすっかり棚に上げながら、美唯はハジメの身体を揺すったりしてみたが、やがて諦めるとテーブルの隅々に散らばった空き缶や空瓶をかき集め、中を水道水で濯いでから分別し、彼の肩をよいしょと担いでベッドまで運んだ。
……私、今日はどんな下着つけてたっけ?
突然、美唯の頭の中に浮かんだ疑問は、すっかり静かになっていた筈の白黒美唯を甦らせた。
○《気にしてはいけません。今夜はすっぱり諦めて部屋を後にするのです》
●(いやいや今こそ時は満ちた。いざ鎌倉だ準備万端四里四方波穏やか成りてさあ逝こう)
やや字数的に●の方が若干勢い良く、美唯はハジメの身体をベッドの上に放り投げると同時にシャツを捲ってズボンのホックを外し、中身を確認した。白だった。ブラもショーツも白だった。
【白だった】
こうして……美唯は理性を保ったまま、ハジメの部屋を後にした。
(……あれ、俺……昨夜飲みまくっちまったのか)
翌朝。目覚めると同時に、我に返ったハジメは横になった覚えの無いベッドの上で、昨夜の事を思い返していた。
瓶ビール、美唯、見合い話、瓶ビール瓶ビール瓶ビール缶チューハイ缶チューハイ……
そりゃ、記憶も無くなるな、と台所の分別ボックス一杯に押し込まれた空き缶と瓶を眺めながら、美唯の事を思い出した。
……と、突然顔からぶわっと汗が吹き出すと共に、じたばたしながら振り向いたハジメは、台所のテーブルに残されたメモ書きが眼に入った。
がっ、と掴み取ると紙面にボールペンで書かれた意外に几帳面で綺麗な字が並んでいて、ハジメは急に相手がキチンとした大人の女性なんだと思ったのだが、
{ 酔って寝ちゃった男の子にイケナイ悪戯する前に帰りました! また明日ねェ~♪ }
……そのまま、ハジメは膝から落ちた。