③やっぱり今夜もウワバミさんは来た。
真昼の凶器じみた熱気を未だ孕むものの、茹だるような暑さがほんの少し穏やかになってきた夜の静寂は、彼にとって期待と失望の混ざり合う、けれど朗らかな声で打ち消された。
「おっすぅ~♪ ハジメちゃん居るぅ~?」
流石に三連続は無かろうと高を括っていたハジメだったが、上場 未唯がやっぱり今夜もやって来たと知り、複雑な気持ちになった。
そりゃあ、美唯みたいな美人が自分の部屋を訪れるのは、正直嬉しい。雪のような色白肌にメリハリのある体型。髪は昨今珍しい真っ直ぐな黒だが、軽く腕を振るうだけでばるんと揺れる程度には、張りのある乳を備えていた。そう、つまり彼女は乳製品属性なのだ。
いや、至極健全な男子のハジメにしてみれば、そんな美唯が部屋を訪れるのは、色々な意味で嬉しいに決まっている。
……但し、彼女の目当ては酒である。決してハジメ自身ではない。いわば、未唯が安く酒を手に入れる為、仕方なく顔を付き合わせているだけ。刺身の真ん中にちょこんと載せられた食用菊かワカメ程度の存在なのだ。
そう思うとドアノブに伸びた手から力が抜けそうになるが、向こう側で今か今かと待っている未唯の、気の抜け切った笑顔を、今夜もまた見るのかと思うと……
「……どうぞ」
結局、ドアを開けちゃうのだ。
美唯は部屋の中に上がると、勝手に冷蔵庫やキャビネットを開けたりはしなかった。ただ、定位置となった椅子に座り、テーブル越しにすいっと千円札を恭しく差し出してから、
「じゃあ、先ずはビールにしとこっかなぁ~」
とか言いながら、嬉しそうにお絞りで手を拭いたりするのである。
「はいはい、ビールですね……あ、瓶しかないや」
そう言いつつ、慣れた手付きで小振りなビールグラスとコースターを美唯の前に置き、良く冷えた瓶ビールを取り出すと栓抜きでかしゅっ、と言わせてから、
最初はやや寝かせたグラスの縁に這わせるように、そっと。それから少しづつグラスを傾けながら……とっとっとっとっ、とリズミカルに注ぎながら次第にグラスを立て、最後に表面の粗い泡を消すようにゆっくりとビールを注ぎ入れて……
「……はい、どうぞ」
喉に流し込む為の黄金比率。ビールと泡を8:2にしたグラスを、コースターの上に載せた。
ごくり、と喉を鳴らしながらグラスを手に取った美唯が、いただきますと呟いてから縁に唇を触れる。
しず、しずと泡を割りながら琥珀色の液体が美唯の唇を濡らし、向こう側からハジメが見詰めるのも構わず、流麗な雫で曇るグラスの底を目掛けて視線を落とし。
そして僅かに開かれた唇が琥珀の奔流を許した瞬間、ふつふつと弾ける炭酸の発泡と、ビールのふくよかな麦の薫り、そしてホップ由来の爽やかな苦味が全て綯交ぜになりながら……美唯の口腔と舌を占拠した。
……こく、こく、こく、
美唯は慌てず、ゆっくりと喉から下に向けて流し込む。すると渇き切った大地に雨水が沁みるように消えていき、小振りなビールグラスはあっと言う間に空になった。
「……っ、くううううぅ~っ!!?(↑)」
……最後の語尾上げに少しだけ疑問を抱きながら、ハジメは音も無く置かれた空のグラスに、再びビールを注ぎ入れる。しかし、二杯目はそのままの位置から動かさずスピード重視だった為、泡のきめ細やかさは現れず、僅かに表面を飾るのみ。
しかし美唯は一切意に介さず、ぐいっとグラスを掲げると今度は一息に、
……きゅーーーーーっ。
と、飲み干され。そして再度……たん、とコースターの上。空になったグラスは先程と変わらぬ場所に、正確に置かれたのだった。
「いやぁー、やっぱハジメちゃんの注いだビールは旨いねぇ~♪」
そう言われると、流石のハジメも満更ではない。幼稚園児の頃に瓶の持ち方から始まり、そして合法的に飲める歳になってからは、注いだ泡の生み出す旨さの違いに至るまで、酒を商う店に生まれたからと徹底的に仕込まれて来たのだ。
その甲斐がこうして結実するとは、両親も思ってはいなかっただろうが、そんな事は美唯の唇にほんのり残った泡の残滓のようなもの。そのうち消えて無くなってしまう存在だった。
しかし、目の前で次の一杯をせがむように、グラスの縁から指先を離した美唯の存在は、決して消え去る事も無く、また明日もやって来る。そう、きっと明日になれば必ず昇り、そして沈んでも再び姿を現す太陽のように、彼に会いに来てくれる。
……そう、信じていたのだが。
「……ねえ、ハジメちゃん。聞いて……くれないかな」
ハジメが注いだ三杯目のビールを飲み干し、空になった瓶を手に持ち台所の流しで洗ってから、二本目の瓶ビールを冷蔵庫から取り出した彼に向かって、美唯が唐突に切り出した。
「私さぁ……お見合いする事に……なっちゃったんだよね……」