①今夜、ウワバミさんが初めて我が家にやって来た。
ガンガンガン、と手荒くドアが叩かれ、はーいと気乗りのしない返事と共に開けられた。
扉の向こう側。髪をキリッと一つに纏め、スーツ姿で眉スッキリ目元美しい女性が一人立っている。ただ、その目元はやや朱色掛かり、明らかに酒精の匂いが漂っている。
しかし、ドアを開けたにも関わらず、家主は無言のまま扉を閉めようとするが、
「へいっ!! ちょと待てっ!! ちゃんとお代は先払いすっから!! ほらっ!!」
そう言うと千円札をピラッと差し出しながら、その女性がニンマリと笑いかける。
「……上場さん、前にも言いましたがウチは飲み屋じゃないんです。全くもう……」
そう愚痴りながら、家主の青年は諦めたように扉を開け、表に居た女性の手から千円札を受け取ると仕方無さそうに中へと招き入れた。
玄関から上がると直ぐに居間を兼ねたキッチンになっていて、そこに簡素なテーブルと椅子が二脚。調度品の類いはごく普通の物ばかりだが、眼を引くキャビネットの中には……ズラリと酒瓶が並ぶ。家主の青年がコレクションしているとしたら、相当な道楽者かと思われる種類と数が納められていた。
……彼は、この近くの大学に通う学生である。
勿論、酒税法の関係で一般人が免許無しで酒類の販売をする事は厳密には違法である。当然ながら、彼は酒類販売店免許など所持していない。だが、行政も【小粋なホームパーティーを催す際に頼まれてお酒を買ってきて提供する】事をいちいち取り締まる訳もなく、だからこそ家主の青年……一 一君が自前の酒を頼まれて彼女に提供したとしても……問題は無いのである。
「……で、最初は何にしますか?」
ハジメが椅子に腰掛けた女性……上場 未唯に問い掛けると、待ってましたとばかりに表情を綻ばせながら、
「おっ! そーだなぁ……駅前で一杯だけ飲んできたから、ビールにしよっか」
と、使い捨ておしぼりを使いながらオーダーした。
……上場 未唯は、彼の部屋の隣に住む社会人である。無論、彼とは他人同士。本来、互いの活動時間や休日も違い、接点の欠片も無かった。だが、たまたま彼の実家が酒類販売店を営んでいて、「友達の少ないハジメが友人の出来るキッカケになれば」との思いから、一人暮らしを続けていた彼の部屋にやって来ては、賞味期限ギリギリのビール等を冷蔵庫や食料庫に押し込んで帰っていくのだ。
そんな姿をご近所さんに目撃されて「わざわざ隣町の酒屋が配達するなんて余程の酒豪なのか」と噂されていた時期も有り、簡単には無視出来ない悩みの種の一つだったのだが……
夏もそろそろ終盤に差し掛かった、或る日。
「……あれぇ? ワタシの部屋に……だれか居りゅにょ……」
ハジメは、自分の部屋の鍵が掛かっていなかった事を、隣に住む上場 未唯の乱入によって気付いた。
上場 未唯とは全く面識は無く、たまに廊下で後ろ姿を見る時も、遅刻寸前で駅まで全力疾走する彼女の背中を眺めながら(社会人は大変だなぁ)と見送る位しか無かったのだ。
そんな社会人の隣人、上場 未唯がスーツ姿のまま、しどけなく酔っ払いながら玄関の扉を開け、ふにゃりとダイニングに倒れながら不思議そうに部屋の様子を眺めていたその時も(この人は誰なんだ?)程度にしか思わなかった。
「いや、ここは自分の部屋ですから……確か、お隣の上場さんですよね?」
流石にほったらかしにするのも悪い気がして、近付いて手を差し延べたのだが、
「……ふむぅ? そう言うあなたは……あ、ハジメちゃんだったっけぇ~?」
出された手を触るでもなく、しげしげと彼の顔を見上げながら、未唯は引っ越してきて以来、初めてまともに彼の名前と顔をキチンと見ながら確認した。
「はあ? ま、まあ……確かにハジメです」
「だよね~♪ うんうん、珍しい名前と苗字だから覚えてるよぉ~!」
と、嬉しそうに答え、しかし彼女はすっくと立ち上がると何故かスタスタと彼の前を素通りすると、冷蔵庫の前にどっかと腰を降ろして勝手にガパリと扉を開けた。そして、
「おお~!! 有るじゃんあるじゃ~ん!! しかも生ビールぅ♪ 発泡酒じゃないってのがポイント高いのぅ~!!」
そんな歓声を上げて、勝手に缶ビールを二本取り出したのだ。そしてハジメの返事も待たずテーブルに着きながら、プルタブに指を掛けて開けようとした彼女の目線が消費期限へと向けられた時、
「……おりょ? これ……四月って……期限切れてない?」
そう言いながら、ハジメの顔を見た。
「ええ……それはですね……」
キンキンに冷えた缶ビール二本を間に置いたまま、ハジメは彼女の疑問に答えたのだ。何故、期限切れのビールが詰め込まれているのか、そして何故、そんなものが彼の元へと届けられているのか、を。
「ふぅ~ん、そうなんだ……君も大変なんだねぇ」
グビッ、と缶ビールを一口煽ってから、未唯は同情する振りをしつつ……心中では違う事を考えていた。
(……でもさぁ、つまり……これはもしかすると……タダで飲み放題って事だよね? これは……悪くないかも)
……地方から上京し、なかなか知り合いを作る暇にも恵まれなかった未唯は、好きなお酒を飲みつつ話し合える相手が居なかった。ついでに言えば、飲み始めるとやたらテンションが上がり過ぎて周りをおいてけぼりにしてしまい、学生時代は【合コンクラッシャー】と陰で呼ばれる程の問題児でもあったのだ。
「ええ……お陰で下手に大学の友人を部屋に上げちゃうと、絶対に居酒屋代わりに使われるだろうし……困ってるんですよ」
しかしそんな彼女の思惑を知らぬハジメは、滔々と処分に困る酒について愚痴りながら、それを聞きつつ爛々と眼を輝かせ始めている未唯の変化に気付いていなかった。
「……じゃあさ、例えば……だよ?」
半分程、缶ビールの中身を飲み終えた未唯が、彼の説明を聞き終えた後、タンッとテーブルに缶を置きながらズイッと前に身を乗り出しつつ、
「おねぃさんがたま~に、おつまみ代とか出すからって理由で……」
そう言いながら、テーブルの上にそっと千円札を置いてから、
「……こんな感じで、飲みに来ても……いいの?」
そう言われた瞬間、淡い酒精の狭間から仄かに匂い立つ、彼女の何かとは言えないような良い香りを感じたハジメは……
「……まあ、たまになら……いいですよ」
つい、そう言ってしまったのである。