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さよならセンチメント

作者: 石田灯葉

 1センチ。


 それが、あたしと陽太の距離。


 たった1センチ、だけど、触れ合うことのない、そんな距離。

「ひゃっ」

 

 ひんやりとした感触が、高校のプールサイドの屋根の下、長ベンチに仰向けに寝ていたあたしの火照ほてった頬を刺す。


 驚いて目を開けると、もう十年以上も見ている、本当なら見飽きたっていいくらいに見馴れた人懐っこい顔が、あたしの顔を上から覗き込んでいた。


「……陽太ようた、何?」


透子とうこ、大丈夫か? 熱中症?」


「ううん、大丈夫」


 陽太がスポーツドリンクのペットボトルを差し出してくれるのを受け取りながら起き上がった。


 すると眼前がんぜんには、まだ半分までしか水の溜まっていないプール。


「もう掃除は終わったんだろ? 赤崎あかさきとすれ違ったよ。なんで透子だけ一人で残ってんの?」


「……水が溜まるのを見てたかったから」


 陽太がそりゃあもう当然の疑問を投げかけてくるのに、あたしは憮然ぶぜんとして答えた。七海ななみの名前が出て、勝手にちょっと不機嫌になる。めんどくさいな。


「いや見てなかったじゃん、寝てたじゃん」


「うるさいなあー……。そういう陽太はなんでここに来たの?」


「今日の部直ぶちょく、軽音部なんだよ。もう最終下校時刻だっての」


 部直とは、部活日直の略だ。最終下校の時間になると学校中を回って、残っている生徒がいないかを確認し、下校をうながす。


「……ふーん」


「だから、水が最後まで溜まるまでは居らんないの。ほら、諦めて帰るぞ」


「はいはい」


「『はい』は一回」


「はーいー」


 本当は、知っていたし、分かっていた。


 陽太が所属する軽音部が今日の部直だってことも知っていたし、陽太のバンドメンバーの性格的に、部室から一番遠いプールを陽太が担当することも分かっていた。陽太は、そういうお人好ひとよしさでは誰にも負けない。


 だから、体育委員でプール掃除を請け負ったあたしは、掃除を終えてみんなを帰したあと、一人でここに残っていたのだ。


 そんなこと、陽太は気付くはずもないけど。


「ちょっと待ってて、部直終わった報告してくるから」


「バンドのみんなは?」


「全員帰る方向違うから、どうせ一人になるし。一緒に帰ろう」


「……ほい」


 ここまで織り込み済みで、プールで寝そべっていたのだから、あたしもかなりの策士だと思う。……もしくは、ヘタレと言うのかも知れない。




「つーか、今さらだけど、なんで体育委員に立候補したの? 透子、文化部じゃん」


 茜色の空を、飛行機雲がキーンと縦断じゅうだんしていく。


 家が向かいあわせの陽太とあたしは、同じ下校路を同じ速度で歩いていた。


「吹奏楽部は文化部じゃないって。あたしらが毎日グランド走ってんの知ってるでしょ?」


「いやそれは知ってるけど、運動部ではないじゃん」


「まあ、そうだけど……」


 なんで体育委員に立候補したのかなんて、あたしが訊きたいくらいだ。


「ていうか、逆に陽太は? 体育委員になるって言ってなかった?」


「いやー、えっと、……直前に圭吾けいごに図書委員に鞍替くらがえしようぜって言われて。知ってるか? 今年度からの司書の先生、めっちゃ美人なんだぜ?」


「知ってるっつーの、アホ陽太」


「なんで透子が不機嫌になんだよ……」


 そりゃ、不機嫌にもなると言うものだ。


 あたしは、委員会決めの日の朝、わざわざ偶然をよそおって陽太と一緒に登校して、陽太に委員会は何にするつもりかと聞いたのだ。(偶然を装うためにかなり前から張っていたから、その朝から読み始めた小説も3分の1くらいを読み終えたくらい。)

 その時に、クラスメイトの男子と一緒に体育委員になるつもりだ、と話していたから体育委員に立候補したというのに。

 

「でもま、赤崎も吹奏楽部だけど体育委員だもんな。なんか、体育委員は文化祭の時期に仕事ないからーとか言ってたわ」


「……また七海ななみの話」


「は? なに?」


「なんでもない」


 赤崎あかさき七海ななみは、あたしと同じ吹奏楽部で、陽太と同じクラスの完璧美少女だ。吹奏楽部では一緒にトランペットをやっている。


 女子の言う可愛いはあてにならない、とはよく言うしあたしもそう思うけれど、あれはさすがに別格だと思う。


 黒髪はシャンプー何使ってたらそんなになるのってくらいサラサラだし、目なんかくりっとしてて。あたしなんかもう、芸能人でも見るような感覚で、もはや嫉妬しっとなんかもしたことがない。


「七海は、可愛いよね」


「まあ、あれを可愛くないというやつがいたら、そいつの感性を疑うな」


 ……ほらね。


「2年生のトランペット担当は透子と赤崎だけなんだろ?」


「うん、そう。しかも七海、楽器も上手いし」


「ふーん、透子よりも?」


「あたしよりも全然うまい」


 七海にはかなわないな、といつも思わされている。


「……でも、透子も頑張ってるよな」


「……まあ」


 こういう時、陽太はすごく優しい。


 誰のために頑張ってると思ってんの、と一瞬思ってから、いや、別に自分のためだな、と思い直す。


「唇が痛くなるくらい練習した」


 下唇を、いーっと引っ張って見せると、


「は、はは、俺もギター弾くのに指が痛くなるわ」


 と、陽太は自分の左手に視線を移して言った。


 なんでだろう、いつも灼熱しゃくねつのアスファルトに焼かれながら歩くこの道は進むだけでへばってしまうのに、陽太といるととたんに短く感じてしまう。


 もうコンビニを過ぎてからもしばらく歩いて、家の方が近いところまで来てしまった。


 あと、10歩進んだら……3、2、1、よし。


「とう」「陽太、カルピスおごって」


 あたしは、せめてもの抵抗をする。


 陽太が何か言いかけたのをさえぎった気がするけど、言うセリフを決めていたから、止められずに言い切ってしまった。


「……カルピス? 俺がおごんの?」


「うん」


「なんで?」


「おととい、教科書貸したじゃん」


「あー……」


 よくもまあ、こんなに弱い理由をこんなに強く言えたものだ、と自分で感心する。


 でも、クラスが違うから、教科書が貸せるんだ。ある意味、七海には無い特権。そこでだけは七海に勝っているかもしれない。……ううん、普通に同じクラスが良かったわ、どっちかを選べと言われたら間違いなくそっちを選ぶ。


「ていうか、カルピス、家にないの? 透子の家、いつ行ってもカルピス出してくれるじゃん」


「家にあるのは、陽太が家に来るときだけ。お母さん、陽太が昔うちでカルピス飲んだ時に『透子ちゃんのカルピスは世界で一番美味しい!』とか言っておおはしゃぎしてたのを見て、陽太が来る時には絶対用意してんだよ。普段は麦茶しかないもん」


「うわ、まじで? 中学の時お邪魔した時以来行ってないから、そりゃカルピスないか……。麦茶じゃダメなの?」


「今はカルピスが飲みたい。だって、高2の夏だよ?」


 ここからカルピスウォーターを手に入れるには自動販売機に行くしかないのだが、その自動販売機は、


「えーじゃあ、遠回りしなきゃじゃん」


 そう、遠回りをした道にしかないのだ。


「うん、ちょっと、」


 自分の喉がゴクリとなる。唾を飲む音が心音しんおんで増幅しているらしい。大丈夫大丈夫、そういう意味じゃ無いから。


「付き合ってよ」


 これは、予行演習だ。……いずれ来るその時の。





 家に着いて、手洗いうがいをしてから、自室のベッドに倒れこんで、その反動ですぐに起き上がる。


 これになんの意味があるんだろうと、いつも思うけど、これがあたしなりのスイッチのオン・オフの儀式なのだ。


 持って帰ってきたトランペットのケースを開けて、トランペットを組み立てる。


 そっと唇をあてて、ゆっくり、しっかり、息を吹き込んだ。


 まずは、低い音から。


『この曲のトランペット、めっちゃかっこよくない?』


 ある日の、陽太の声が耳の中で聞こえた。


 中学生の時、陽太の両親が出張かなにかで陽太が家に一人になってしまう日に、うちで一緒にご飯を食べたことがあった。


 その時テレビでやっていた音楽番組を聞いていた時、


『透子も、あれ、吹けるの?』


 純真無垢じゅんしんむくな表情でテレビを指差して言う陽太。


『ううん、これは音が高すぎる』


 その曲のトランペットが鳴らしていた音はダブルハイB♭。あたしにはまだ鳴らせないくらい高い音だ。


『へー、やっぱプロはすげえな。この曲、ボーカルも高いから、俺も歌えないわ』


『……ふーん』


 カレーをそっと口に運ぶ。


『いつか、お互いこれが出来るようになったら、一緒に演奏しようぜ』


 へへっ、と無邪気に笑う陽太のくしゃっとした顔が脳裏のうりに焼き付いて離れない。


 きっと、なんの気なしに言った一言なのだろうとは思う。


 だけど、それからあたしは決めているのだ。


 ダブルハイB♭が出せたら。


 あたしは陽太に告白するんだ、と。


「まだ、出ないなあ……」


 もう少しで出そうだという感覚はある。でも、何が悪いのか、まだ、音が出ない。


 結局、夜ご飯の時間になって親に怒られるまで、あたしは演奏を続けていた。




 翌日の部活は自主練だった。


「やっほー、青井あおい


「おつかれ、七海」


 音楽室に七海が入って来て、あたしの隣に座って準備をし始めた。


 なぜか七海はあたしのことを名字で呼ぶ。


 いつだったか、なんでだろうと思って聞いてみると、


『なんか下の名前みたいで可愛いからだよ?』


 と可愛く小首をかしげていた。



「それで、プールの水が溜まるところは見られた?」


 ニヤニヤと意地悪な顔をして七海があたしに訊いてくる。


「いや、見られなかった」


「それは残念だねえ。『あたし、プールの水が溜まるところ見たいから先帰っていいよ』とか言って、これから体育委員の中で青井は不思議ちゃん扱い決定だね」


「え、まじ?」


「そりゃそうだよー!」


 あははー、と、七海は上品に、だけど年相応の可愛げを含んで笑う。


 女子のあたしですら見惚みとれてしまうのだから、男子からしたらもっとだろう。


 ほけーっとしているあたしをじーっと見つめて、


「……そういえば昨日、帰りがけ、陽太くんと喋っちゃった!」


 七海が嬉しそうに報告してくる。


 七海は、男子はみんな名字で呼ぶのに、陽太のことはなぜか下の名前で呼ぶ。


「陽太? へーそうなんだ」


 そして、なぜかとぼけてしまうあたし。


「陽太くん、爽やかだよねえ。純粋な少年感がかっこいいというか、かわいいというか……」


「へ……!?」


 な、なにをいきなり……?


 頬に手をあてて、首を小刻みに振る七海。


「陽太くんのバンドがこないだ校内ライブでやってた曲、原曲はトランペット入ってるんだよねー。私、やろうかって立候補してみようかな」


「はい……!?」


 なんだか急激にまずい展開になってる気がする。


「そ、そそ、そんなこと、これまで全然言わなかったじゃん、七海」


「いやいや、私にだって気になる男の子くらいいるよー」


「そ、そうなの……?」


「あれ?」


 頬に人差し指をあてて、上目遣いで窓の外を見る。


 そんなあざとい仕草しぐさも、七海がやるとさまになるのだから、恐ろしい。


「ねえねえ、青井。青井は陽太くんの幼馴染ってだけで、付き合ったりしてるわけじゃないんだよね?」


「うん……そうだけど?」


「ふーん、じゃあ、さ」


 七海はこちらを向き、怪しく目を光らせながら、あたしの顔を覗き込む。


「私が陽太くんを狙っても、いいんだよね?」


「は……? そんなの、あたしが口出せることじゃ……」


「そうだよね!」


 ニコッと笑って、手を打つ。


「今の状態だったら、青井は、何にも、口出し出来ないよね?」


「な……!?」


 あまりのことに呆然ぼうぜんとしているあたしを横目に七海はすくっと立ち上がり、トランペットを構える。


 そして、息をすぅーっと吸って。


「まじかー……」


 ダブルハイB♭を鳴らしてみせた。


 その金切り声みたいな音は、あたしの心をざわつかせるには十分過ぎる響きだ。


「あの曲のトランペット、ダブルハイB♭出ないといけないんだよね?」





 まずい。


 まずいまずいまずいまずいまずい!


 駆け足で家に帰る。


 ドキドキする、ザワザワする!


 なんだ、七海のやつ、これまでそんな素振そぶり全然見せなかったのに!


 帰って、いつもの儀式も忘れて、トランペットを取り出す。


 あたしは一心不乱にトランペットを練習した。


 だけど、焦りと不安でなかばヤケになったようなあたしのトランペットでは、ダブルハイB♭は出ないまま。


 唇を痛めるだけ痛めて、音を出してはいけない時間になってしまった。





 次の週末のこと。


 あたしは午前中から、隣駅まで電車で向かった。


 楽器のメンテナンス用のクロスがいい加減汚くなってしまったので、買い換えるために、隣駅の駅前にある大きい楽器屋に向かっていたのだ。


 頭の中には、もやもやとした感情が、相変わらずとぐろを巻いていた。


『青井。青井は陽太くんの幼馴染ってだけで、付き合ったりしてるわけじゃないんだよね?』


 七海に、あたしがかなうはずがない。


『まあ、あれを可愛くないというやつがいたら、そいつの感性を疑うな』


 それに、はからずも陽太のお墨付きまでもらってしまっている。そんなお墨付き、全然いらないのに……!


 なんとなく早足で、楽器屋に近づいていくと、5メートル先、楽器屋の出口から、陽太が出てきた。


 これは正真正銘しょうしんしょうめいの偶然だ。


 悪いことのあとには、良いことがあるようになっているというのは本当なのかも知れない。


 能天気なあたしはそんな風に機嫌を直して手を挙げて、


「よう……」


 呼びかけようとするけど。


 でも、その声は瞬時に止まることになった。


「陽太くん、イケメンだねー!」


 後ろから、可憐かれんに笑いながら。


 私服姿の七海が出てきた。


「え……?」


 陽太はあたしがいる方向とは別方向に向かって歩き出す。


 そのおり、すっと振り返った七海と、目があった気がした。


 あたしの身体は、無意識のうちに、すぐさまきびすを返す。


 逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、今見た事実から。


 どういうこと? 偶然?


 いつの間に、そんなところまで二人は進んでたの?


 あたしが1センチの距離に手をこまねいている間に、もっともっと長い距離があったはずの七海が追いついて、そして、追い越して行ったってこと……?


 七海が可愛いから? 魅力的だから?


 ……ダブルハイB♭が出るから?


 いや、多分、違う。


 その1センチを縮められるのはそういう『事象』とか『条件』じゃないんだ。


 気づいたらなんてことはない、当たり前のこと。


 その1センチを縮めるために必要なのは、『勇気』だけだったんだ。



 どうやって家まで帰りついたんだろう。


 いつの間にか自分の部屋まで戻って来ていたあたしは、扉をバタンと閉めて、トランペットを取り出していた。


 多分、そうやって、気を紛らわせていないと、今にも、泣き出してしまいそうだったから。


 勇気がなくて自分からは何にもしてないのに、勝手に負けて、それで被害者ぶって泣き出すなんて、かっこ悪いにもほどがある。


『一緒に帰ろう』

『……でも、透子も頑張ってるよな』

『いつか、お互いこれが出来るようになったら、一緒に演奏しようぜ』


 陽太の笑顔が、フラッシュバックする。


 優しくて、可愛くて、たまにだけどカッコいい彼の表情。


 ……もう、あたしだけのものにはならない、あの表情。


 やばい、あふれる。


 こぼれないよう、あたしはトランペットを吹きながら、顔を少し上にあげた。


 すると、その時。


 高らかに、『その音』が鳴った。


「出た……」


 ダブルハイB♭の余韻よいんがたしかに部屋の中、鳴り響いていた。


「今さら、なんだよ……」


 湿った声を出した瞬間、感情が決壊し、あふれ、外へと流れ出ていく。


 涙が止まらない。嗚咽おえつが止まらない。


 遠回りのツケが回って来たんだ。


 自分で勝手にルールを決めて、直接伝えることを怖がって。


 そのうちに、守っていたはずの1センチはどこかに消失してしまう。


 あたしはそのあと泣き疲れるまで泣いて泣いて泣いて泣いて、やがて出す涙がなくなってしまうと、鼻をすすりながら、ベッドに寄りかかって、自分に呆れていた。


「ばかだなあ……」


 すると、スマホが小刻みに震える。


 画面を見てみると、『七海』の文字。


 ぐっと、涙を飲み込んで、泣いていたことがバレないよう、「あー……」と声を出してから、通話ボタンを押す。


「……もしもし」


 それでも、やっぱりかすれてしまう自分の声帯がにくい。


『青井、今日、楽器屋の前にいたでしょ?』


 突然、事実を突きつけて来る七海。たいがい悪女だな、この人……。


「あ、うん、いたけど……」


 ……やっぱり、目は合っていたんだ。あの時の七海の驚いたあとに見せた、少し嬉しそうな、ううん、もっと素直に形容すると、『しめしめ』とでも言いたげな微笑み。


『私、今日、陽太くんとデートしちゃった』


「そっかー……」


 水分が出きってしまって干からびた身体にはもう、驚いたり反論する気力も残ってない。


『でね、陽太くんとはちょっと前に解散したから、多分もうすぐ、家に着くんじゃないかな』


「はえ……?」


 七海が何を言ってるのか、何を言いたいのか、全然わからない。


『ねえ、青井』


 電話の向こうで、ふふっと優しく笑う。


『私、まだ、陽太くんと付き合ってないよ?』


「え……?」


 でも……?


 七海は電話越しでも真顔なのだと分かる声になって、言う。




『ねえ、青井は、どうするの?』




 その問いかけに、あたしは息を呑む。



「あたしにも、まだ……?」



 事実を理解できないまま、ぼんやりと、くうを見ていた。


 きっと、これは、七海があたしにくれた、たった一回のチャンス。


 手が震える。足がすくむ。


 あたしは、こんなことになってまでも、まだ、臆病らしい。


 でも。


 でも、ダブルハイB♭は出たんだ。


 まだ、チャンスがあるのなら。


「ごめん、七海」


『本当だよ』


 優しく笑う声。


「切るね!」


 あたしは通話終了ボタンを押して、階段を駆け上がり、家から飛び出す。




 ドアを開けると、蝉時雨せみしぐれと暴力的なまでの熱気があたしを包み込む。


 陽炎かげろうの揺れる道の上。


 買い物袋をげた陽太が立っていた。


「お、おお、透子。なんだいきなり、びっくりした」


「陽太」


 あたしは想像以上にすぐに現れた思い人に身をすくませてしまう。


「……何、どうしたの? 偶然?」


「そ、そう……」


 つい、そう口をついた言葉に、直後、強く首を振る。


「うそ! 偶然じゃない!」


 だめだ、だめだ。弱気になるな。


 言わないとだめなんだ。形にしないとだめなんだ。


 壊れちゃうのが怖かった。


 あたしが動くことで、変わっちゃうのが怖かった。


 タイミングのせいにして、ジンクスのせいにして、天気のせいにして、体調のせいにして、友達のせいにして、それで。


 それで、もう間に合わなくなるボーダーラインの、ほんの1センチ前まで来ちゃってたんだ。


 でも、もう、分かった。


『今の状態だったら、青井は、何にも、口出し出来ないよね?』


 ただただ手をこまねいていたって、このままだって、壊れちゃうかも知れない。


 もう遅いかも知れないけど、それでも。


 あと、1センチ、あたしに、踏み込む勇気を。


「陽太、全部、偶然なんかじゃないんだよ」


「は……?」


 戸惑って首をかしげる陽太。


 気にせず、もう、全部、ぶちまけてしまおう。


 飛び込んでしまおう。


「プールで寝そべってたのだって、一緒に帰れるかもって思ったからだし、カルピスをあの時に飲もうって言ったのだって、計算して、コンビニと家の距離とか見て、あのタイミングで言うしかないと思ったからだし、それに、体育委員は、陽太がやると思ったからだし……」


「透子……?」


「あのね、陽太、」


「ちょっと待て、透子!」


 陽太が片手を前に出してあたしを制止しようとする。


「待たない!」


 陽太にだって、もう、あたしの言おうとしていることがわかってるんだろう。


 陽太にとっても、変わるのは怖いって、思ってくれてるのかな。そうだったらいいな。


 ……だけど。


「陽太。信じられないかも知れないけど」


 だけど、それじゃダメだから。


 もう、あたしは、待たない。




「好きなんだ、陽太のこと、ずっと前から」




 陽太が息を呑む。


 そして、ややあって、情けなさそうな顔をして陽太がうなだれる。


「はあー……」


 深いため息。


 あたしはつられて、笑いながら大きなため息を漏らしてしまう。


 ダメだったみたいだ。間に合わなかったらしい。


 さて、涙をどうこらえるか、それを考え始めた矢先やさき


「……偶然なんかじゃないよ」


「……へ?」


 陽太が顔を真っ赤にして、そう言った。


「部直の時プールに行かせてくれってバンドメンバーに頼んだのは俺だし、図書委員は、透子が委員会決めの朝に本を読んでたから急遽変更しただけだし、カルピスの自販機は、透子が言い出さなかったら俺があと1歩で言おうと思ってた」


 滔々(とうとう)と説明されたそれは、まるで、あたしとそっくりで。


「それって……?」


「透子、」


 陽太が、唇をぎゅっと噛み締めてから、口を開く。




「俺も透子が好きだよ」




「え、うそ……?」


「ここで嘘をつくほど悪趣味ではねえよ」


 そのくしゃっとした苦笑いに、あたしは安心して、同時に心をかき乱される。


「でも、今日、七海と一緒にデートしてたんじゃ……?」


 だってそう、七海本人から聞いたのだ。


「デート? いや、あれはデートとかじゃなくて……」


 すると、陽太は手に提げていた買い物袋をおれに差し出す。


「……これ、透子に」


「何……?」


 受け取って、袋の中を見ると、『トランペット用リップクリーム』と書いてある商品が入っていた。


「これを買いに……?」


「透子が、毎日練習してんの、うちまで聞こえて来るから。唇痛いんだろ? なんとかしてやりたくて、だけど、同じトランペットのやつじゃないと分かんないだろうから、赤崎に相談したら、こういうのがあるって聞いて。俺ひとりじゃ普通のリップクリームと違いがわかんないから、楽器屋に付いてきてもらったんだよ」


「それ、七海は知ってるの……?」


「当たり前だろ? 知らなきゃ一緒にいかないだろ」


 そういうこと、だったんだ……。



『今の状態だったら、青井は、何にも、口出し出来ないよね?』

『ねえ、青井は、どうするの?』


 全部、あたしにその1センチを踏み込ませるための……。


「七海には、かなわないなあ……」


 あの完璧すぎる友人がしたり顔をしているところが浮かび、ついつい苦笑する。


「……幻滅したか?」


「え、何が?」


 あたしは首をかしげる。


「俺、臆病で弱虫で、そのくせ頭ばっか回してズルくて、全然透子の思っているようなやつなんかじゃないんだよ」


 バツが悪そうに頬をかくその姿を見て、


「ううん」


 あたしは、かしげていた首をそっと振った。


「ずるくてもいい、下手くそでもいい、優しくなくたっていい」


 あたしは、そっと、陽太の手を掴む。


 ずっと1センチメートル開いていたその距離が、0になった。


「それが陽太なら、あたしは、全部、好きだよ」


 陽太は今、どんな顔をしているだろう?


 嬉し涙でぼやけた視界は、まるで、世界がプールの中に入ってしまったみたいにキラキラしていた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 赤崎は本当に同じようなことをやってたんだなwww これが幼馴染み萌えの始まりの出来事か・・・ 赤崎主演の物語も読みたいです。
[良い点] Twitterで石田せんせいはポエマーだとおすすめされてきました めちゃくちゃかわいくて甘酸っぱいぐおおおおおおてなるおはなしでした、ごちそうさまでした [気になる点] >「今はカルピス…
[良い点] 良い… [一言] これが尊いって事でしょうか。甘酸っぺぇ。 七海さん、焚きつけただけなのか、本当に彼女も…だったのか。 1センチは、一緒に並んで帰る時と二人の距離感みたいな話かと思って…
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