お前の鼻血を拭きたい
「チクショー、ふざけんなぁ!」
友人の結婚式の日。
誘われていた夜の宴席にも行かずに、エーレンフリート・フィッツェンハーゲンは軍のロングコート姿のまま、ベンチで泣きながらクダをまく女の左に座っていた。
女は獣のように声を荒らげ吠えている。そんな彼女に慰めの言葉を吐くでもなく、エーレンフリートも生来の愛想のよくない表情で隣にいるだけ。通りすがりの人が二人を見ても、とても色気のある関係には思えないだろう。
冴え冴えとした寒い夜。月はエーレンフリートの髪と同じ銀の色で、夜空に輝き始めていた。息を吐けば、近くに立っている街灯の明かりに、白い煙のように浮かび上がる。そんな光を、彼は同じく冴え冴えとした青い目で見るともなしに見ていた。
魚尾灯の、文字通り魚の尻尾のように閃く炎は、首都の夜の街を象徴している。上下水道とガス管の埋まる石畳の下。蒸気機関車が大量輸送を可能にし、港では大きな船が人々を新大陸へと運び始めていた時代。
バッツマルトの首都ウォーデンの夜の公園では、そんな革新的な時代とはまったく関係の無い、いかにも人間らしい悲劇が繰り広げられていた。主に、エーレンフリートの右隣で。
「何で世界はこんなに不公平なんだぁ!」
寒風の吹きさらす公園のベンチに座って、泣きながらクダをまく女の名は、マーヤ・クレマー。同じく軍のロングコート姿の彼女は、さきほどから自分の帽子を両手でぐちゃぐちゃにつぶしたり引っ張ったりして、己の中の衝動を表している真っ最中だった。
士官学校時代、彼女は「炎の女」の異名を持っていた。男のように短く髪を切っていてもなお、他の男たちにとっては彼女の赤毛は、怒りに頭を燃え上がらせているように見えたからだ。士官学校の中で数少ない女性生徒の一人であった彼女は、その異名を持つことで他の男に舐められないようにしていたのだと、エーレンフリートは感じていた。
そんな炎の女が、楽しく笑っている姿をエーレンフリートは知っている。同期であり、なおかつ彼女の幼馴染である男女と一緒にいる時だ。
男女の名は、ダニエルとクララ──今日の結婚式の主賓の二人の名だった。
エーレンフリートの目から見て、三人は本当に仲が良かった。彼らと一緒にいる時のマーヤは、炎の女と呼ばれる様子はかけらもなく、屈託なく笑い馬鹿な話に興じていた。
エーレンフリートが何故それを知っているかというと、彼はダニエルと士官学校の寮の同室であり、そこから彼らは友人になったからだ。何かとダニエルに引っ張り出されて行ってみると、大抵そこにはマーヤとクララがいた。
クララは、後方支援部隊希望の亜麻色の長い髪を持つ美しい女性だった。何故軍の士官学校に入ったのかと首をひねるほどだったが、マーヤとダニエルを見つめるクララの目はいつもキラキラと輝いていて、元気のいい積極的な二人に憧れているのがよく分かった。マーヤもまたクララに対し、キラキラと憧れの目を向けていた。それは、ダニエルに対してもそうだった。
そんな三人の中で、エーレンフリートは何度となく距離を掴み損ねてきた。三人は彼を蚊帳の外にしたわけではない。何もかも分かり合っているような彼らだったからこそ、綺麗な三角形だったからこそ、エーレンフリートは自分が入る隙間を見出せなかったのだ。
けれど、三人の美しい三角を見ることを、エーレンフリートは同時に心地よくも思っていた。炎の女マーヤは、ダニエルの友人である彼に対して目を吊り上げるようなマネはしなかった。
『あんた、いい奴だね』
ダニエルがひどい風邪で長く寝込んだ時、見舞いにきたマーヤとクララを男子寮にこっそり入れてやった日。リンゴがたくさん入った紙袋を彼に押し付けながら、マーヤは幼馴染に向けるように屈託なく笑った。彼女の赤毛は、そのリンゴの皮の色とそっくりだった。
「ああ、ああ……クララは綺麗だった、ダニエルも幸せそうだった……でも祝えない、私は祝えない」
昼間から夕方まで続いた結婚式からパーティ。いくら軍人であったとしても女性なのだから、マーヤはどんなに着飾って参加しても許されただろう。しかし、彼女は軍服だった。いつもより濃い化粧だったことだけが違和感だったが、その理由は後で分かることになる。
「おめでとう」という言葉が溢れる幸せな空間で、マーヤは笑って同じように二人に祝福の言葉を口にしていた。しかしその表情は、エーレンフリートの知る、あの屈託のない笑顔ではなかった。慣れていない愛想笑いをする子供のように不器用なものだった。
新郎新婦も、マーヤがおかしいことは分かっていただろう。クララが、花嫁姿のまま大丈夫と彼女に問いかけていた。「昨日祝杯だとお酒を飲んで、実は二日酔いで」と具合の悪そうなフリをして、マーヤは新婦に笑って見せた。
「夜、新居でも仲間内の宴席を開くから是非来てね」
パーティの終わり際、クララがまるで念を押すようにマーヤに声をかける。一瞬、完全に固まった赤い髪の女の後ろから──エーレンフリートは近づいていた。
「クララ、今夜はマーヤを貸して欲しい……大事な話があるんだ」
マーヤの肩に後ろから手をかけて、彼は目の前に立つ新婦に意味ありげな、しかし逆に言えば曖昧な言葉で濁しながらそう告げた。一瞬触れているマーヤの肩が驚きに震えたが、「そ、そうなんだ。大切な話があるんだ」と、赤毛の女もまたそう答える。
新婦は一瞬、喜びの表情を浮かべかけたが、二人の様子がそれほど浮かれたものでないことに気づいたのか、美しい表情を「そう」と、やはり曖昧に濁した。
夕暮れの帰り道。その時はまだ、マーヤは泣いてはいなかった。ただ、黙ったままそう早くない足取りで歩道を歩く。馬車の通る大き目の道のため、エーレンフリートは車道側を歩いた。
「……どこに行くの?」
炎の女とは思えない、ひしゃげた声が一度橋の上で止まる。海までつながる大きな川だ。ゆるやかな流れを、今日最後だろう荷を載せた船が下って行く。
「さあ」
同じく足を止めて、エーレンフリートは船を見た。冬の川の上は寒い。雪が積もっていないのが救いではあるが、それでも肌を切るような冷たさだ。
「大事な話って何?」
その寒さも気にならないように、マーヤはぼんやりと橋の欄干へと近づく。エーレンフリートは、彼女が飛び込んだりしないか注意深く見つめながら、こう答えた。
「……さあ」
くるりとマーヤが彼の方を振り返る。両肘を欄干にもたれるようにして、ロングコート姿の女が、ふてくされた顔でエーレンフリートを見上げる。当然ながら、明るい茶の瞳に普段の輝きはない。
「あんたってさあ……いつもそうだよね?」
普通なら「どうしてあんなことを言ったのか」という追求から始まるべきである。しかし、そうではなかった。何故彼があんな話をクララにしたのか、マーヤは気づいているのだ。
「ダニエルが病気の時、クララと私が男子寮に入りたいって無茶言っても手伝ってくれるし、ダニエルが馬鹿やらかしたら一緒に罰くらってるし……」
最初は、ダニエルに弱味でも握られてるんじゃないかって思ってたわ、とマーヤは背中を欄干に預けて夕暮れの空を仰ぐ。
「帽子、落ちるぞ」
腐っても首都の大通り。橋の上を歩く人も多いため、このまま向かい合っていると通行人の邪魔になる。エーレンフリートもまた、欄干に近づき彼女の横に立った。違うのは向きだけだ。彼は川を見て、彼女は川に背を向けている。
「そうね」と、彼女は空を仰ぐのをやめて頭を戻した。しかし、すぐに横のエーレンフリートを見る。「それよ」という言葉と共に。
「あんた気を遣い過ぎなのよ。気がつきすぎ。ダニエルと私を見てよ。『馬鹿が軍服着るな』って何回教官に怒鳴られたことか……いつだってクララに迷惑をかけて……」
皮手袋の手を持ち上げて、マーヤは白い息を吐く。その手が途中で力を失って、ぱたりと下へと落ちた。
「ああ……どうしよう」
下ろされた手は拳を作ろうとして、再び力なく開かれた。今度は視線を自分の軍靴の先に落として、彼女はこう言うのだ。
「明日から……どうやって生きていこう」
ぽたりと一滴、彼女の靴にだけ雨が落ちた。
※
泣き出した女の手を引いて、太陽の沈んだ街を歩く。
軍服姿の二人だ。何かあったのかと、距離を取りながらも通行人が彼らの様子を見るが、エーレンフリートは気にせずに歩いた。こんな状態で、彼女を宿舎に送るわけにも行かず、彼は公園に向かって道を変えた。
木々の葉が一枚もない冬の公園。夜を目前としたこの時間では既に人影はない。もうすぐ街灯も灯るだろう。
街灯の明かりの届くベンチに彼女を座らせて、エーレンフリートはその左に腰を下ろした。この時のマーヤは、まだ泣いているだけだった。
ガス灯に火を入れる男が通り過ぎ、魚の尾のような炎が閃き始め、辺りはすっかり闇に覆われた。
周囲に人の目もなくなり、安心して泣き喚ける環境に連れて来られたことに気づいたのだろう。彼女の嗚咽に、罵倒が混じり始めた。「何でだよ」「バカヤロー」と呟く声がどんどん大きくなる。
「チクショー、ふざけんなぁ!」
そしてマーヤは、大声でクダをまき始めた。
彼女の叫びの言葉は、大体においてエーレンフリートの想像の通りだった。唯一想像を超えていたものといえば。
「どうして結婚って、三人じゃ出来ないのよぉ!」という悲痛なものだった。
エーレンフリートは一瞬ぎょっとしたが、彼女の言わんとすることはすぐに理解する。
マーヤは、ダニエルに恋をしていた──わけではなかった。クララに恋をしているわけでもなかった。二人とも好きでしょうがなかったのだ。正確に言えば、マーヤ自身を含めた三人で完成させた美しい三角形の距離を愛していた。
「ダニエルが結婚したっていいんだ、クララが結婚したっていいんだ……でも、でも何で、あの二人が結婚するんだぁ」
自分の両膝を何度も拳で叩いて、マーヤが悔しそうに吠える。いっそ誰か他の人とそれぞれ結婚して欲しかったのだろう。そうすれば、三人の距離は親友という名で同じだったはずだ。
しかし、ダニエルとクララが結婚したことで、二人の距離は夫婦という距離になった。そして同時に、マーヤは彼らと夫婦の関係になれない自分を思い知る。二人の距離が縮まり、その分少しだけマーヤは自分が遠くなった気がしているのだ。
正三角形が、二等辺三角形になった。今日は、結婚式という形でそれを彼女は突きつけられたのである。
これまで長いこと美しい三角形の中で生きてきたマーヤにとってそれは、身を切るよりつらいことだろう。あれほど瞳を輝かせて屈託なく笑っていた彼女が、二人のことでこれほど泣き喚くのだから。
エーレンフリートは、コートのポケットからハンカチを取り出して彼女の膝に載せた。それ以上自分の膝を叩く前に、ハンカチに気がつけばいいと思った。
マーヤは膝を叩くのをやめ、やけっぱちな動きで手袋のままハンカチを掴むと自分の顔に布を押し当てて「わーーーん!」とくぐもった嗚咽をあげる。ハンカチを掴んだせいで、代わりに不幸な帽子が地面に落ちたが、マーヤにそれを拾う心の余裕はなさそうだ。代わりにエーレンフリートが拾い、泥を叩いてから自分の膝の上に載せた。
彼女がいま感じているものを、エーレンフリートはよく知っている。
それに、「疎外感」という名前がついていることも。
「俺は……」
橋の上で少しの話をして以来、彼はしばらくぶりに口を開いた。元々、おしゃべり好きな人間ではない。付き合う相手はかなり選ぶし、周囲からとっつきにくい男だと思われているのは、自分でもよく知っていたし、周囲が静かなことも心地よいと思っていた。
そんな男が、
「俺は……お前たちが羨ましかった」
疎外感を覚えるほど、彼らに憧れを抱いた。その現象を、エーレンフリートは自分の中で否定できなかった。
最初に知り合ったのは、ダニエル。陽気で頑丈で、周囲の雑音など羽虫が飛んでいる程度にしか感じていなかった。士官学校の寮で同室になった初日から、明るい笑顔と握手でエーレンフリートと良い関係を築こうとしていた。愛想の良くない彼に臆することなく、しかし時々鋭いほどズバっと核心をついてくることがあった。
一度友人になると、ダニエルは彼を引っ張りまわした。「本なんか後で読めるだろ! 外行こうぜ外!」と、子供のように彼を引っ張り出した。
騒々しいのはあまり好きでは──「あれ、何とかフリートじゃん!」「ちょっと、マーヤ……エーレンフリートさんよ」「いいだろー、俺の友達だぜ?」──外の太陽がひどく眩しく感じた瞬間だった。
その頃マーヤは、既に「炎の女」の称号を得ていた。周囲の男が彼女を女として馬鹿にしたり軽んじた発言をすれば容赦なく食って掛かり、男と殴り合って鼻血を出そうが主張を曲げることはなかった。「昔からああさ」とダニエルは、その度に上手にマーヤをいさめていた。クララはあわてて彼女の鼻血を拭き、そして小さな説教を始める。
かといって、ダニエルが大人しいわけでもない。特に問題児のマーヤとのことでからかわれることが多かった。ひどい時にはダニエルも参戦して、二人ともあざだらけになって鼻血を出すので、クララは本当に大変そうだった。
そんな三人の中に、エーレンフリートは入った。仲良く回る三つの星の、ひとつ外側の星として。ダニエルが鼻血を出したり病気でひっくりかえった時は、彼が面倒を見ることになっていき、女性二人もそれをある程度彼に任せるようになった。
だが、エーレンフリートは三人の輪の中には完全には入れない。そのままずっと、入れないままだとどこかで思っていた。
それを寂しいことだと思ったのは、自分でも不思議だった。そこで彼は、生まれて初めて自分の気持ちに気づいた。これまで覚えたことがない良い気持ちと、もうひとつの悪い気持ち。
「俺は……お前たちが羨ましかった」という言葉のすぐ後に、エーレンフリートは「けれど」と言葉を付け足した。
「けれど……俺は卑劣にもいま、少し喜んでいる」
うっうっと、ハンカチを顔に押し当てて泣くマーヤの肩が、一瞬だけ止まる。言葉を紡ぎだすと、息を吐くだけとは違う少し大きい白い息の塊が、エーレンフリートの目の前に出来るが、すぐに夜風がさらっていく。
「壊れないと思っていたものが壊れた……やっと壊れた」
彼は本当に卑劣にも、ここで笑ってしまった。自分の中にこんなどす黒い感情がわきあがるなんて、自覚するまで思ってもみなかった。
「やっと壊れた……マーヤ」
「あ……あんた……」
ずびっとひとつ大きく鼻をすすり上げ、化粧の流れたひどい顔が上げられ、ようやく隣のエーレンフリートを見る。
本当にひどい顔だった。
魚尾灯に浮かび上がる顔色はとても白い。まるで死人のようだ。そして目の下のクマがひどい。あれほど濃い化粧をしていなければ、彼女が昨夜まったく眠れず、それどころか、しばらくまともに何も食べていないのが分かっただろう。事実、エーレンフリートもたったいまその事実を知った。
「俺は、お前たちの中に入れなかった。壊せなかった。だが、勝手に壊れてくれた。ああ良かったと俺は思った……これで俺が……入れるかもしれない」
そんなひどい顔の女に向かって、エーレンフリートは自分の口元に笑みが浮かんでいるのを自覚する。何というひどい男だろうと自分でも思った。
「もう前と同じ三角には、戻れないだろうが……新しい形なら作れる」
エーレンフリートは、膝の上の彼女の帽子を取り上げ、自分を見上げる彼女の頭の上に乗せた。ひさしの部分を少し前に傾ければ、彼女のひどいクマの辺りまで見えなくなる。
そんな、彼女の茶の瞳が誰も映せなくなった後。
エーレンフリートは。
こう言った。
「俺を……四角形に……入れてくれ」
これまで何度も喉から出掛かって言えなかった言葉。子供ではないのだ。遊びに入れてくれと話は違う。そうではない。そうではなくて、エーレンフリートは三人の関係に恋をし、そして同時に──マーヤに恋をしていた。
彼女の他の二人に向けるあの屈託のない笑顔を、自分にも向けて欲しかった。彼女の鼻血を拭きたかった。
だが、壊せなかった。あの三人からマーヤだけを引きずり出すことは出来なかったし、そうしたくはなかった。だから彼は、マーヤに恋を覚えてからずっと、こうして近くで待ち続けていた。いつか来る、もしかしたら来ないかもしれない今日のために。
「お前さー、もしかしてマーヤのこと……好きか?」
一年くらい前にダニエルに、そう聞かれたことがあった。ダニエルが、クララとの結婚を考え始めていたころだ。そういうことには疎そうなダニエルのその一言に、一瞬エーレンフリートは驚いて、そして「そうだ」と答えた。
「クララがそうじゃないかって言ったんだよ……へぇ、そうかぁ」
そしてダニエルが疎いという見立てはやはり間違いではなかった。確かに繊細で周囲のことをよく見ているクララならば、気づいてもおかしくはないだろうとエーレンフリートは思った。
「お前なら、いいや」と、ダニエルが笑ったので彼は腹が立って一発殴った。そう簡単なことなら、とっくにうまくやっている、と思いながら。
あの時、右手でダニエルと手をつなぎ、左手でクララと手をつないで輪になって踊るマーヤの手はひとつも空いていなかった。
いまは。
このただ寒いばかりの公園のベンチに座るマーヤの手は、両手とも空いたまま。正確には右手にはエーレンフリートが差し出したハンカチが握られており、左手が空いている。彼の側の手だ。
エーレンフリートは帽子を頭に乗せたまま動かないでいるマーヤのその手袋の左手を、自分のやはり手袋の手で握った。
皮手袋越しの、体温さえ伝え合わない接触。まだ決して縮められきれない距離。それでも、エーレンフリートは彼女の手を握った。
彼は壊れた三角形の隙間から、ついにもうひとつの角になるべく入り込んだ。それは四角形というには、まだあまりにいびつだった。昔の美しい三角形の片鱗などどこにもありはしない。学生が面積の計算で困るようなもの。
それでも、エーレンフリートはその中に強引に入ることを決めた。これが最初で最後の好機だと思った。
ぐしゃぐしゃの帽子を頭に乗せたまま、マーヤはその手を振り払わずに、ただベンチに座っていた。
どんな理由であれ、何でもいいとエーレンフリートは思った。
※
次の日の朝から。
エーレンフリートは、勤務時間が合う時は彼女の宿舎の前で待つようになった。士官学校時代は、よく女性二人が男子寮の前で寝坊癖のあるダニエルを待っていた。エーレンフリートは、ベッドで惰眠を貪るダニエルを何とか起こして彼女たちに引き合わせていた。
士官学校を卒業して住まいが寮から独身用宿舎に変わり、勤務時間帯もずれるようになってそれらは難しくはなっていたが、二人くらいで合わせるだけなら結構何とかなるものだ。実際、マーヤとクララが一緒に出勤しているのはよく見かけた。
そのクララは結婚して宿舎にはもういない。マーヤがそれを日々思い知る心の隙間に、エーレンフリートは真顔で入り込もうとしたのだ。
「女子の宿舎前で恥ずかしくないの?」
「ないな」
マーヤにつっかかられた時は、そう返した。きっとダニエルは恥ずかしく思わないし、彼女らもまた逆の立場であっても同じはずだ。
エーレンフリートは、マーヤのただの恋人になりたいわけではなかった。それだけであれば、本当はもっと簡単だったろう。
彼女の恋人になり、エーレンフリートは親友にもなりたかった。そのためには、長い時間が必要だろう。それでも良かった。三角形の外側から羨望の眼差しで見つめるだけだったあの頃とは、もう違うのだから。
雪が降ってぬかるんだ悪い足元を、二人で歩く。「大丈夫だってば」とちょっと嫌がる彼女の手を掴んで歩く。そんな出勤風景を、追い抜いていく同じ職場の人間にひやかされる。
二人で歩いていると、ごく稀に違う道から出勤するダニエルとクララと出くわす時がある。そういう時は、もう少しぎゅっと彼女の手袋の手を握って近づいていく。
「おはようダニエル、クララ」とマーヤの言葉と共にこぼされる笑みが、少しずつ前のように戻っていくのを見て、エーレンフリートは一人満足を覚えていた。
もうすぐ春になる。
手袋もいらなくなる季節だ。
彼女の素手に触れる日のことを、ひっそりと夢見ている男がここにいることを、きっとマーヤが知ることはない。
それともうひとつ。
エーレンフリートが、彼女の流す鼻血を拭きたいと考えているなんてことは、── 一生マーヤが知ることはなかったのだった。
『終』