五話 二つ目の事故
しばらく口を開くことが出来なかった。いや、口は開いている。しかし声が出なかった。バスは落ちる物なのか?間抜けた質問を自分にしていた。
「今、バス落ちて行かなかった?」由希の言葉ではっと我に返った。何か反応をしなければいけない。
「…ああ」
「あれってもしかして」
自分が思っていることをしっかりと言わなければならない。由希は曲がったことやまどろっこしいことが嫌いな性格だから。
「大地達が乗ってるバス…だと思う」
「嘘…でしょ?」由希は小さな鳴咽を漏らして泣いている。
いつの間にかバスが落ちた辺りには人だかりが出来ていた。バスが崖から転がり落ち、地面に叩き付けられた時の尋常でない音を聞き付け、辺りに自分の車を止めて集まっている。
「とりあえず行こう」
その場で泣き崩れてしまいたかった。男の涙は恥ずかしい物ではないと授業で習った。しかし、気丈に振る舞った。自分がしっかりしなければ誰が由希を支える。
落下現場までは重い足取りだった。少しずつ近付くに連れて聞こえる傍観者達の悲鳴。警察、救急車に電話を掛けていると思われる動作がはっきりと見えるようになる。これが現実だということをまざまざと突きつけられた。
人込みを掻き分け、変形したガードレールまで二人は近付き下を覗き込んだ。二十階建ての建物から地面を覗き込むよりもずっと恐ろしかった。散乱した木の枝。抉れた土。悲惨としか表現の仕方が無い情景が辺りには広がっていた。予想を遥かに越えて酷く、目を覆いたくなる景色だった。
地面と現場の高さはそこまでは無い。それでもビルの二階分くらいは充分あることは見て取れる。空中で回転したのか、仰向けの状態でバスは横たわっていた。車輪が上にある状態だ。しかしその車輪も三つしか付いていない。もう一つが何処に飛んで行ったのかは分からなかった。爆発こそしていなかったが、ガソリンは車外に漏れ出している様でいつ引火してもおかしくない。緊迫した雰囲気が漂っている。
辺りにいた人々は部員が命の危機に直面しているというのに、救出に向かおうとはしていないようだった。救急車と警察を呼んだことで既にやるべきことはやったと思っているのかもしれない。ここにいるほとんどの人が、自分がやらなくても誰かがやるだろうと他人任せになっているに違いない。
「助けに行かなきゃ」由希が涙を堪えながら切実に言った。
もちろんそのつもりだった。そのために降りられそうな場所を言われる前からずっと探そうと目を凝らしていたが、崖の斜面は急すぎてとても降りられそうにない。バスの中では部員達が身動きが取れずに閉じ込められている。その状況を思い浮かべただけで居ても立ってもいられなかった。何も出来ない自分がもどかしくて仕方なかった。
そうこうしている内に騒々しいサイレン音と共にパトカーと救急車がやってきた。傍観者が車を止めている所に彼等も止めた。その車から制服を着た警官や、タンカを持った救急隊員が揃って出てきて現場を覗き込む。悲惨に状態は見慣れているはずの彼等でさえ顔をしかめた。二人は駆け足で隊員が集まっている場所へ向かった。
「あのバスには私達と同じ部員が乗っているんです。助けてあげて下さい。本当にお願いします」
由希は一人の警官を捕まえて必死に状況を説明した。茂はその顎鬚が生え、警官としての風格が漂っている男性を見てはっとした。良く知っている顔だった。どうやら由希は動揺して気付いていないようだ。
しかしその警官は目で茂に合図をして来た。「今私情は不要だ」と。
現場に行って仲間を助けたいと懇願したが「危険だから駄目だ。これは私達の仕事だから」と一蹴された。そんな答えが返ってくるであろうことは予想していたがそれでも気落ちした。仕方なくパトカーへと乗り込むことにした。
「なるほど、あのバスは君らを学校まで届ける為に出発した所だった、と。では何故君らは乗っていないんだ?」
鋭い眼光の中年刑事が二人に尋ねた。先程の警官とは違う人に代わっていた。どんな嘘も見破るぞ、この刑事はそんな眼をしている。
「私も分からないんです。突然出発しちゃって。私達が乗っていないのに気付かない訳ないのに」
刑事はそんな説明じゃ納得がいかないという気持ちを表現するかのように首をあからさまに捻った。
「君はどう思う?」当然、茂も同じ質問を受けた。
「…俺も由希と同じです。良く分かりません」顔が引きつっていたかもしれない。
そうか、と刑事は次の質問へと移った。神谷の存在を刑事に言わなかった。とても信じてもらえるような話では無かったし、何より茂自身、状況を整理出来ていなかった。由希も茂が電話を誰かとしていたことについては触れようとしなかった。
「皆は無事なんですか?」耐え切れず茂は質問した。
刑事は難しい顔付きをした。さらに眉間に皺が寄る。とても取り繕っているようには見えなかった。
「あれだけ酷い事故だ。医師達も全力を尽くすだろうが、ある程度のこと覚悟しておいた方が良いだろう。君らも、もう高校生なら分かるね」二人の心の糸を断ちきるには充分過ぎるほど残酷な一言だった。由希はその場で泣き崩れた。ある程度の覚悟がどの位の被害を指すのか見当もつかなかった。
その後も庶務的な質問を延々とされ続けた。パトカーに乗ってから三十分が経とうとした頃、ようやく二人は解放された。その後パトカーで病院まで送られることになった。
「親に電話しておきなさい。色々話すこともあるだろ」
二人は頷くと自分達の携帯を取り出した。母親には何と質問すれば良いのだろう、心配性な母のことだ、事故のことを聞いたら失神してしまうかもしれないな。そんなことばかり考えていた。
携帯を開いた時、しばらく忘れていた神谷の存在を茂は思い出した。神谷との電話は当然切断されていた。彼の存在を思い出させたのは新しく届いた二通のメールだった。刑事から見えない様に携帯を傾ける。
二つのメールは共にメインフォルダに来ていた。神谷からのメールだということはほぼ確信していた。
一件目には件名は入っておらず本文には、
「親が迎えに来ることになったんだ。だから顧問にもう出発して良いって説明してくれるか?」と打ち込まれていた。
少しの間、何のメールなのか分からなかった。神谷からこんな内容のメールが来る覚えがなかったからだ。しかし大体の予想はすぐに付いた。これは大地に神谷が送ったというメールと同じなのではないかと考えた。このメールは携帯に届くと同時に何らかの方法で宛先が自分のアドレスに変わり大地に送られた。そう考えると全てが自然に繋がった。しかし今となっては、このメールはあまり重要ではない。手早く次のメールを開く。宛先に記載されているアドレスは先程の物と同じだった。つまり神谷からの物だ。
「茂さんへ。これで僕がいたずらをしていた訳でも、嘘を付いていた訳でもないことが分かったと思います。僕は確かにあなたの命を救いました。僕が電話をして時間を稼がなかったら、大地さんにメールを送らなかったら、茂さんは間違いなくバスに乗ってましたよね?そうしていたらどうなったていたか分かると思います。必ず僕がする復讐の手伝いをしろとは言いません。でも僕の家に一度来て下さい。色々と話したいことがあります。この事故の真相もその時に話します。」
最後に神谷という名前と住所が付け加えられていた。それはうろ覚えだが記憶に残されている直紀が住んでいた家の住所と同じな気がした。茂は携帯を強く握り締めた。何処か釈然としない物が胸中にあるのを感じていた。
時間はせわしなく動いて行った。まるで直紀が死んだ時のことを再現している様だと茂は感じていた。今回こそは記憶を曖昧にせずにしっかりと覚えておこうと心に決めていたおかげもあり、その後少し落ち着くまで何が起こったのかは事細かに記憶していた。
パトカーに乗せられ、進むがままに行くと病院に着いた。既に病院には部員達の家族が到着していて、待合室には多くの知り合いがいた。彼等は皆泣き崩れていた。それが茂と由希を除く部員がどうなったのかを暗示しているような物だった。
母親も病院に来ていた。母から部員がどうなったのかを教えられた。部員十五名中七名が死亡、八名が重傷、顧問、運転手が共に死亡していた。それを聞いた時、本当に気を失いそうんいなった。自分が良く知っている仲間が七人もこの世から消えた。それも一瞬の内に。そんな現状をああそうですかと受け入れられる程強い人間じゃない。
息子の生存を確認した母にとても強く抱きしめられた。しかし、他の親達に対して不謹慎だと感じたらしく、それはほんの少しの間だけだった。しかし、母の愛情は充分に感じ取った。
その後も葬式や、警察での状況説明に加えて毎日のように来る取材の電話や家への訪問も重なり非常に忙しかった。仲間の死を実感する余裕さえ、あまりなかった。それでも眠る前には仲間の姿を思い出し毎晩枕で声を押し殺して泣いていた。俺はあいつらの命を救えなかったのか、答えが出るはずもない自問自答を何度も繰り返した。
当然、神谷の家を訪ねる時間等あるはずが無かった。しかし、神谷の存在を忘たことは一度もなかった。いつも心の何処かにあのあどけない声が残っている。むしろ日が経ち、気持ちが整理されていくにつれて彼の話を聞きたいという気持ちは強まっていくばかりだった。何より、真実を知りたかった。