四話 救われた命
「俺の命を救う?」
「そうです。あなたの命を僕が救います」
「俺は今の所死ぬ予定はないけど?」真面目に取り合うつもりは毛頭なかった。人の命を少年の気まぐれで救えるんだったら医者は必要ない。
「死ぬ予定がある人なんていませんよ。死は平等に来る物ですから」ふと、何かの授業でそんなことを習ったなと記憶の断片が蘇った。それと同時に兄貴が死んでからまだ一ヶ月程しか経ってないのに良くそんなことが言えるなとも感じ、「じゃあ、君は直紀の死に納得しているのか?」と問い掛けた。
「それはまだですね。それを再び平等に戻すのが残された僕達の仕事だと考えています」声のトーンは今までと変わらず、動揺した風でもなかった。感情的になるかもしれないと推測していた茂の勘は外れた。
「でもそれは遺族達の自己満足だろ?死んだ張本人の直紀は納得しない」
「死者の納得って何ですか?僕は死んだ後に待っているのは無だと思います。彼等が自分の死に納得出来る日が来ることは無いんじゃないでしょうか?」
波紋を呼びそうな発言だった。しかしここで死後の世界や、魂の有無について議論するつもりはなかった。茂もどちらかと言えばそういった物に否定的な立場だ。
「そうかもしれないな。でもさ、今急いでいるんだ。後から掛け直してもいいか?」
逃げようとしているのか、と神谷は思ったかもしれなかったが、急いでいるというのは事実だった。茂達、男子バスケットボール部を乗せて学校まで送り届けるバスがいまにも出発しそうだったのだ。隣ではせわしなく由希が茂の脇腹を小突いて急かしている。
神谷は焦ったのか、早口になった。
「ちょっと待って下さい。そのバスのナンバーって―――」
本当に茂は電話を切ろうとしていた。実際に親指は携帯の電源ボタンに伸びている。しかし、神谷の今の言葉を聞かなかったことにする訳にはいかなかった。
「何て言った?もう一回言ってくれ」
その後に神谷はもう一度ゆっくりとその数字を読み上げた。それはバスのナンバープレートに書かれていた物と完全に一致した。偶然だとは考えられない。今のが偶然ならば今まで信じていた世界の基盤が揺らぐことになる。
「何でその番号をお前が知っているんだ」茂にとってそれはあまりに不気味だった。
「そのバスのことなら何でも知っていますよ。だって、そのバスで僕の兄は死んだんですから」
この神谷の唐突な意見を茂は認める訳にはいかなかった。あの事故について自分が持っているあらゆる知識を尽くして調べ上げた。その成果が今、試されている気がしていた。
「そんな訳ないだろ。あのバス会社は倒産したはずだ」
新聞でそのバス会社が倒産したという記事を見ていた。
「確かにバス会社は違います。きちんと調べてくれたんですね。兄もきっと喜んでいます。でも、根っこの部分は一緒なんですよ。ある所で繋がっています。とにかく僕の話を聞いて下さい」
「お前はさっきから大切なことを全て省いているじゃないか。根の部分とは何なんだ。それにどうやって俺に電話をかけさせた」
「今この電話では言えないんです。もしかしたら盗聴されているかもしれない」
いきなり盗聴と物騒な言葉が出てきたことに茂は狼狽した。中学生の口から出る言葉ではないはずだった。それに加えてその言葉には現実味が少なからずあった。
「そんなことに俺を巻き込まないでくれ!」
「感情的にならないで下さい」
「なってないだろ」
「そろそろ、ですかね」
「チッチッチ」
携帯のスピーカーから時計の秒針の動きと思われる音が流れた。
その時だった。目を疑うような事態が目の前で起こった。コンクリートの上で出発の時を今か今かと待っているはずのバスが、つまり、茂と由希が今から乗り込むはずのバスがゆっくりとだが前に動いたのだ。ただ駐車場所を変えるだけという訳ではない様子だった。どうやらバスは県道へと向かっている。
「どうなってるんだよ」
「何でバス出発しちゃってるの?どうなってんの」
由希もすっかり混乱してしまっている。こめかみから汗から流れ出るのを感じた。
「やっと出ましたか」スピーカーから神谷の声が漏れた。
「どういうことだ。お前が何かしたのか?」もはやそうとしか考えられなかった。
「先に出てくれっていう主旨のメールを香坂大地さんに送ったんですよ部員の一人ですよね?」
「大地にメール?見知らぬお前からのメールを大地達が真に受ける訳がないだろ」
嫌な予感が茂はした。こめかみから出た汗はもう水滴となって体から離れそうになっている。
「もう分かっているんじゃないですか?そのメールは茂さんのメールから発信されたんですよ。僕の携帯を通じて」汗は地面にぽとりと落ちた。
これも電話と同じ要領なのか。混乱しきった頭で考えてもまともな考えは浮かびそうにない。
「こんなことをして何が目的なんだ。俺らをここに置き去りにして遭難でもさせたいっていうのか」
「違いますよ。先程も言ったでしょ?僕はあなたの命を救うんです」
「じゃあ何でバスが出発しているんだ。言っていることとやっていることが可笑しいだろ」
「可笑しくなんてありませんよ。そのバスに乗らないという選択をすることが正解なんです。はっきりと言いましょうか。そのバスはこれからある転落事故に遭うんです。想像して下さい。転落するバスに乗っていたらあなたの体はどうなっていたのかを。悲惨な姿が想像出来たでしょ?ほら、茂さんの命は僕によって救われた」
聞くや否やバスが走り去った方向へと駆け出していた。もうただの少年のいたずらだとは思っていなかった。後ろからは由紀が必死で追いかけてくる。長く続いている直線の県道に走り出た。前方にはまだバスがゆっくりと走っているのを見て、少しほっとした。もう異世界へと消えてしまっているのではないかと、ほんの少しだが思っていた。そんな異様な考えが浮かんでしまうほどに冷静ではなかった。
しかし、その安息もつかの間だった。学校に向かって一直線に進むはずのバスが急に消えた。白い車体に鮮やかな青のスプレーでペイントが施されているはずのバスが。曲がり角に入った訳では無い。左は山で右は崖。曲がる所なんて無かった。あるのは何の変哲もない直線の道路だけだ。しかしバスは視界から確かに無くなったのだ。茂は一瞬だがしっかり見てしまっていた。バスが右の崖へと、本来ただの坂を転落して行く瞬間を。