十七話
海里の言葉を最後に暫く、広いリビングは沈黙で包まれていた。食卓上に置いてある接客用のコップの些細な揺れの音ですら辺りに響いた。話すことを急かすつもりはなかった。時間は充分過ぎる程にある。どんな遺書だったかを明かさなかった以上、海里は知っていることを全て話さなければ辻褄が合わなくなると考えているだろう。
置いてあったジュースに手を伸ばす。丁寧にストローまで刺さっている様子からも自分達を歓迎するつもりだったことは伝わる。その時はこんなことになるなんて夢にも思っていなかっただろう。
「まずあなたの役割を教えてもらえますか」
揺さ振りを掛けることにした。
「役割?」
「事故起こす時にあなたが担っていた役割のことです」
少し語ることで遺書の話が嘘でないことをアピールする。実際は嘘なのだが。
「俺は本当に大したことはしていないんだ」
「でも父の遺書にはあなたの事が多く書かれていましたよ」
唐沢の携帯電話の履歴から判断しても彼が事故に大きく関わっていたことはほぼ間違いない。
「俺は本当に大したことはしていない。ただ仲介人をしただけだ」
「唐沢とバス会社のですか?」
「というより彼と運転手との間だ」
ここで神谷はずっと疑問に思っていたことを口にした。
「どうして自分が死ぬって分かっていたのに運転手は事故の運転をすることを了承したんですか?
「君は大きな勘違いをしている。運転手は自分が運転するバスが事故に遭うなんて思ってなかったはずだ。何も言って無いはずだからね」
「じゃあ何故事故は起こったんですか」
「ブレーキに細工をしただけさ」
神谷は自分の心臓が脈打つのを感じた。ふつふつと怒りの感情が込み上げて来る。
「それからどうやって運転手を選んだのかも教えようか。会社内で一番の悪人だったとか寿命が近かったからとかではないよ。彼の家が一番会社内で裕福だったからだ。確か親父さんが大きな土地を持っているからで。そういう家の方がより多くの慰謝料を貰えるだろ?」
込み上げて来る怒りはもう限界をとうに超えていた。海里につかみ掛かりたい感情が全身を支配していた。これ以上話が聞けなくなっても構わない。椅子から立ちあがろうとした時、他の動きが起こった。
隣の由希が立ち上がっていた。怒りとも悲しみとも取れない表情だった。海里の目の前に立ち手を振り上げ、一直線に振り下ろした。
神谷にとっては心地よい音が響いた。妻の手が不倫した夫の頬をはたく、昼のドラマで見るような映像が目の前で再現された。
「あなたは間違ってる。絶対間違ってる」
悲痛な叫びだった。運転手が彼女の知り合いではないはずなのにここまで親身になっていることに神谷は驚いた。
「あの会社は私をくびにしようとしたんだぞ。特に問題を起こした訳でもない私を。私はただ復讐をしただけだ。そこの彼がしているのと同じことをしただけだ」
海里の指は真っ直ぐ神谷に向けられた。
僕がしているのは彼がしていることと同じなのか。二つとも同じ復讐なのか。これからやろうとしていることは間違っているのか、誰かを傷付けることに繋がるのか。
様々な考えが頭の中を駆け巡った。強く決心したはずなのにその柱は容易く崩れようとしていた。
「あなたが犯した罪と神谷君がこれからやろうとしていることとを一緒にしないで下さい」
由希が声を張り上げていた。彼女は自分を庇おうとしているのか。
「一緒だね。彼は父親が自殺したのを私のせいにしようとしている。一人よがりの復讐じゃないか」
「違う。あなたがした復讐は自分の利益だけを考えた復讐です。でも神谷君のは違う。お兄さん、他の人の為にやろうとしているんです」
僕の復讐は兄のためにやっているのか。
「均衡を戻すため」と前に言ったがそれは誰のためなのか。
「じゃあ聞くが、彼がしているのは正義だと思っているのか?」
正義?悪?自分の復讐はそれらの天秤の計りで計ることが出来るのか。