十六話
今、立っている位置から亀谷の部屋があるマンションまでは三百メートル程の距離だ。肉眼で確認するだけでも、そのマンションがそれほど立派でないことは見て取れた。建物を支えている鉄柱は錆付いている。今すぐに崩れるとかいうことは無いだろうが、近い内に立て直しが必要なのは確かだった。
だからこそ、今から大金が手に入る計画を立てている亀谷がこんなマンションに本当に住んでいるのか信じられなかった。しかし今、亀谷は確かにこのマンションから出てきた。やはり神谷が調べた情報に間違いはないようだった。
敬はもう部屋から出てきた亀谷を尾行するためにあらかじめ決めていた待ち伏せのポイントに向かっている。茂は敬に言われた一言が頭にこびり付いて離れそうになかった。
「お前さ、やっぱりキャプテン失格だよ」
精一杯やっていたつもりだった。部員がどうすればやる気を出してくれるのかを常に考えていたし幾つか実行もした。しかしそれは自分の為でしか無かったのかもしれない。キャプテンの使命を果たせることが出来たのだろか。
「早くしろよ」
前では敬が急かしている。
「俺は、部員達を恨んでいた。そして多分、今もな」
敬は部員全員を恨んでいる。それは事実だ。では何故、彼は今ここに居る?自分達が今していることは部員達の敵を取ることでもある。それは敬だって当然気付いているはずだ、彼が協力している理由が茂には分からなかった。
「ああ」
何も問いたださなかった。敬がどんな言葉が飛び出すのかが分からずに恐かった。これも目を背けていることになるのか?
マンションのすぐ近くの曲がり角にある電柱に二人は隠れた。亀谷が建物から出てくるのをひたすら待った。
「来たぞ」
亀谷はコンビニにでも出掛けるようなラフな格好だった。髪と髭は短く整えていて清潔な印象を受ける。
亀谷は周りを気にしているようではなかった。まさか尾行されているなんて思っていないのだろう。迷わずに進み始めた、一定の距離を置いて茂も後を付ける。
敬を先頭を切って歩いたのでその後を追う様な形で進む。父親の影響かは分からないが敬の尾行はそれなりに様になっていた。見失わなず、不審にも思われない絶妙な距離感を保っている。
亀谷は尾行には全く気付いてないようだった。これが演技ならばよっぽどの名役者だと言える。尾行はしばらく続いた。神経は磨り減るが、距離から考えてどうやら近場のコンビニ等に行く用ではないようだ。
景色はどんどん変わって行く。始めは住宅街、次にコンビニ等が建ち並ぶ通り。そして今はまた住宅街を通っていた。
洋風な作りの一戸建がずらりと並ぶ閑静な住宅街。私立高校に通っている生徒はこの様な家に住んでいるのだろうかとふと茂は思った。
「入ってたな。追うぞ」
「え?」
「見てなかったのかよ。しっかりやってくれよキャプテン」
深い溜息を敬は吐きだす。
「悪い、見てなかった。亀谷は?」
「その家に入って行った」
敬が指差した先には一件の家。他の家と同じ様な造りで異質な雰囲気は放っていない。
「誰の家なんだ。ここは」
「さあな。表札見とくか」
そう言うと敬はすたすたと玄関の方に近付く。慎重に行動しろという神谷の指示に従っていない気がした。
「何て書いてあるんだ」
「瀬良。知ってるか?」
「知らないな」 本当に聞き覚えがなかった。
「どうする?」
「家に入って行ったんだからここで待つしかないだろ」
「それで良いのか?」
敬が何を考えているのか茂にはまるで分からなかった。
「良いも何も他に出来ることはないだろ」
「あるね。例えばそこの庭に行けば中の会話が聞こえる可能性がある」
敬は瀬良家の庭を指差した。確かにこの暑さなら家の住人も窓を開けきっているだろうしリビングで話をしているなら聞こえるかもしれない。
「駄目だ。そんなの危険過ぎる。神谷に言われたことを忘れたのか」
「慎重に行動しろ、か?お前は本当に分かってないな」
「何がだ」
「それは裏を返せば余計なことはするなって意味だろ。神谷は茂を道具にしか思ってないのかもしれないな」
道具にしか思っていないんじゃないのか。その言葉は茂の胸に鋭く突き刺さった。しかし、それを認める訳には行かない。
「そんな訳ない。神谷は俺の事を信用しているはずだ」
「だったら茂は神谷から何か意見を聞かれたことがあるのか?」
何も言い返せない自分がいた。神谷から俺はどう思うかという質問を受けた記憶は無かった。
「まあいいや。お前がなんと言おうと俺は庭に行くからな」
「何でそこまでするんだ。お前は死んだ部員を恨んでいるって言ったな。今、お前がしていることはその部員の敵を討つ事に繋がるってことは分かってるんだろ?」
「別に俺はあいつらの為にやっているんじゃないよ。事故の真相を自分の目で確かめたいだけだ」
敬は踵を返し、玄関の方向に向かった。
「お前が裏切らないって証拠はあるのかよ」
「証拠?俺がお前を裏切るメリットがあると思うか。それでも信じられないっていうなら俺は別行動を取るよ」
開けっ放しになっていた玄関の門を潜り、敬は庭の方へと向かった。茂は彼を追いかけることが出来なかった。