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無明短篇集  作者: 無明
5/11

野草の剣

 明の家の前には青々と茂った空地がある。たぶんその草達一つ一つに名はあるのだろうが明は知らない。いや、唯一分かるものがある。繁茂している中に一際高く伸びている草がある。

 セイタカアワダチソウ。

 大きくなると3mを程にもなるその草を明はよく覚えている。自分の部屋から見えるその空地にはセイタカアワダチソウが我が物顔で直立している。大きいものは明の背丈ほどある。てっぺんには黄色い花をつけ、風が吹くたびに揺れている。生きている。

 生きている彼らに、明も興味はない。他の人と同じ、ただの雑草だ。明にとって、彼らは死んでこそ価値があるのだ。

 小学校から帰り、その日、友達との約束が無いと、明はランドセルを降ろし、そのまま玄関を開け、外へ出る。道幅一〇mもない道路を渡り、空地の前に立った。広さは向かいにある明の家の敷地とほぼ同じだ。さほど広いとも言えないのだが、鬱蒼と茂る雑草のせいでその草叢は小学5年生の明にとっては森そのものに見えた。

「ふう」

 ここに入る時はいつも緊張感に身を包まれる。いや、去年まではそんな緊張感を感じることはなかった。去年の夏、草刈りの済んだこの場所で、明は蜂に刺された。巣の柱となる草の茎を倒され、気が立っていた所に、明はその倒された巣を踏み潰してしまったのだ。

 あの時の光景を明は忘れられない。足元から数個の橙色の綿のようなものが湧いたと思った直後、足首に激痛が走った。見ると右足首に3,4匹の蜂が群がっていた。一瞬にして血の気が引いた。さっきまで感じていた痛みも忘れ、急いで道路を渡り、家の中に駆け込んだ。足首に蜂が残ってないのを確かめ一息吐いたところで激痛を思い出した。同じ過ちを犯したのは2週間後だった。一回目に刺された時に優しく処置してくれた母も、二回目は何も言わず、氷枕を明に渡すだけだった。

 そんなことがあり、草叢は明にとって楽しい場所から、楽しいけどちょっと危ない場所になっていた。

 空地の端まで歩いていくと、草が踏まれ、道のように奥へ続いている場所がある。入口だ。明が頻繁にここを通って空地を散策するために道が出来ている。

「ふう」

 もう一度息を吐いて一歩踏み出した。かさかさと乾いた音がするが、靴底からは湿った感触が伝わった。青臭い草叢特有の臭いが鼻腔をくすぐる。慎重に一歩一歩進む。息を顰める。昼間なのにも関わらず、秋の虫の大合唱が聞こえる。それが共鳴してゴーと耳を鳴らした。道はまだ奥へと続いている。

「今日は……カナヘビいるかな」

 明がこの鬱蒼とした空地に入る目的は二つあった。一つはカナヘビやトカゲを捕るため。もう一つは、その捕まえたカナヘビやトカゲの餌となるクモやバッタ類を捕まえるためだ。

 今日はカナヘビやトカゲが目的だ。道が出来ているとは言え、高く伸びた草は、その葉を自らの重さで明の顔の高さまで垂れ下がっており、明に煩わしさを感じさせた。


 道に沿って歩を進める。目線は自分の五〇㎝先を見据えている。少しでも動くものがいれば飛び付けるように前傾姿勢になる。

 ガサ。

 目線の先で何かが動いた。細長い、薄茶の物体を認めたのと、明の身体がそれに向かって飛び掛かったのとは同時だった。

「捕った」

 小さく呟く。手の中で息づくそれは抵抗のつもりか、左右に身体をくねらせている。道を進んで草叢を出る。入口とは反対側の敷地の端に出た。家の門を開け、裏手にある水槽にカナヘビを入れた。いつでも捕まえられるように予め土を入れ、草を入れたものだ。

「ふふ、元気だ」

 放たれたカナヘビはしばらく水槽の中をうろうろしていたが、すぐに敷き詰められた草の中へ潜っていった。


「明くんさあ、昨日カナヘビ捕まえてたでしょ?」

 二限目が終わり、二〇分休憩の時間、友達の修二や武と共に校庭に出ようとした時だ。教科書やノートを片付けていると、同じクラスの亜希が声を掛けていた。表情には意地悪さが滲んでいる。

 亜希は今年の4月、つまり、明が5年生に上がったと同時にこの小学校に転校してきた。はきはきと自己紹介していたのが印象的だった。新しい子供の登場で教室は数日、妙な緊張感が漂っていたが、活発な亜希はすぐに打ち解けてしまい、5月の初めにはクラスの女子グループに何の違和感もなく溶け込んでいた。子供心に亜希って逞しいと明は思った。

 しかし、5月も中頃になると亜希の周辺に不穏な空気が流れ始めた。亜希含む女子グループの中の数人が亜希を明らかに除け者にし始めたのだ。最初は戸惑っていた周囲も、その数人がリーダー格らしく、引き摺られるようにして、無視や置き去りに参加し出した。

 心苦しいことだが、女子というのはそういう生き物なのだなと明は思った。前の日まで仲良く友達をしていても、自分にとって気に入らないことがあれば、たちまち手の平を返すのだ。

 しかし、彼女が泣くことはなかった。少なくとも明は亜希が泣いているところを見たことがなかった。

 6月下旬に入った頃だ。相変わらず亜希に対しての嫌がらせは続いていた。激しさは無いものの、継続して、淡々と理不尽な仕打ちは遂行された。それでも亜希は笑顔を絶やさなかった。

「あれ?」

 それはある日の放課後、明が忘れ物を取りに教室に入った時だった。人影が見えて、思わず声を上げた。それに反応して人影が振り返る。ポニーテールが元気に跳ねる。


「明くんじゃん」

 亜希が笑った。しかし、それが心からの笑顔でないのがわかる。目の周りが赤く腫れている。

「どうしたの?」

 何も話さず立っているだけの明に亜希はそう言った。それに対して静かに応える。

「あ……忘れ物して」

「そう」

 短い受け応えの間も亜希は笑顔を崩さない。明はゆっくりと教室にある自分の席へ向かう。亜希の席は明の席のある列の後ろから二番目だ。何も考えずに亜希の横を通って、自分の席まで辿り着く。ランドセルを置くと教室の後ろに向かって歩いた。

「あれ? 忘れ物じゃないの?」

 そう言う亜希に構わず、彼女の席に置いてある赤いランドセルを退けた。

「あ、ちょっと」

 明のやることの意図を察して慌てた亜希だが遅かった。ランドセルの下から大量の落書きが現れた。

 バカ。

 キモい。

 死ね。

 ウザイ。

 殺す。

 その他にもどこで憶えたのか卑猥な言葉と思われるものも机にびっしりと書かれていた。

「……。私も忘れ物しちゃってね。帰りの挨拶が終わって、すぐに教室出たから誰がやったのかわからないんだけどね。校門を出てちょっと進んだ時に思い出して戻ったから、その間にやられたみたい」

 一通り説明してから、亜希はまた笑った。

「消そ」

 明の手には自分の消しゴムが握られていた。それを机に当てて、力任せに擦り始めた。みるみる内に消しカスが机を汚す。その様子を亜希は黙って見ていた。

「亜希ちゃんってさ、強いね」

 明はただ一言、そう言っただけで、再び黙々と落書きを消していった。

「ありがとう」

 亜希は少し目を涙で潤ませながらそう言った。そのまま二人は夕方まで落書きを消していた。

 それからしばらくしたある日の理科の授業でのことだった。


「沙菜ちゃん、これ片付けといて。後このビーカーも。よろしく。俺、ドッヂボール行くから」

 明は沙菜という女子の前に、その日の実験で使った道具一式をぐいと押しやった。沙菜は亜希のいるグループのリーダー格の子である。その日の実験は終わり、各班は協力して後片付けをしていた。

「は? 何なのそれ! 自分勝手じゃない」

 当然の如く沙菜は怒りを露わにする。嫌よと言って道具の中の一つを手に取った。

「明くんも手伝うの。早く持っていこう」

「いや、だからドッヂしに行くって言ってんじゃん。次、一〇分休みだから時間無駄にしたくないんだよね」

 そう言って明は溜息を吐く。その様子を見て沙菜が食って掛かった。

「冗談じゃない! 都合いいこと言ってないで手伝ってよ!」

 少し大きな声で沙菜は反論した。近くの班の子達はそれに気付いたようで、心配そうにこちらを見ている。その中に亜希の視線もある。明と目が合うと亜希は不安そうな目をして、大丈夫? と口を動かした。明は沙菜や他のクラスメートにわからないように小さく頷く。沙菜が机を力強く叩いた。思いの外、大きな音が鳴る。周りにいた数人の手が止まる。前にいた先生もさすがに気になったのか、明達の方をちらっと見た。明がそれに気を取られていると沙菜が口を開いた。

「いい加減にしてよね! 早く持っていって!」

「嫌っつってんじゃん」

 面倒臭そうに明は言い返す。その態度に沙菜はたじろぐ。目にはうっすらと涙の幕が張っているようだ。鼻も少し赤い。

「何でよ」

 声が小さくなってきた。

「ちょっと何してんの?」

 亜希の声だ。明が振り向くと亜希が腕組みをして仁王立ちしていた。意外な人物の登場に周囲は少しどよめいていた。先生はさっき準備室に入っていったのが見えたきり、姿が見えない。このどよめきも聞こえるはずがなかった。

「どうしたの?」

 亜希が続ける。すると突然沙菜が亜希に駆け寄った。

「亜希ちゃん聞いて! 明くん片付けサボろうとしてるの!」

 その時には目の周りにうっすらと涙が滲んでいるのを明は見た。沙菜の背中に手を置いて、亜希は明を睨む。

「明くん、そんな都合のいいこと、許されると思ってんの? 手伝いなよ」

 亜希はきっぱりと言い放った。明は亜希を見据えて思った。都合いいのはどっちだよと。明は不機嫌そうにそっぽを向いて黙っている。その態度に苛立ったように亜希が言う。


「ねえ、聞いてるの?」

 明は溜息を大きく吐いて、

「面倒臭いって」

と言い残し、理科室を後にしたのだった。後から追いかけてくる者は誰もいなかった。そのまま明は体育館裏で休み時間の一〇分間を過ごした。いつもは短いその時間もやけに長かった。どこかで早めのセミが鳴いていたが、激しく鼓動を打つ心臓のせいで明はあまり聞こえなかった。調理室から給食の匂いが漏れていた。

「今日は麻婆豆腐か……」

 明はそっと呟いた。


 そんなことが一学期にあってから、亜希とは全く口を聞いていない。あの後、実験道具は亜希と沙菜、他の班員で片付けたと担任から叱られた時に聞かされた。泣いてしゃくりあげる沙菜の背中を亜希はずっと摩ってあげていたらしい。

 その事件以来、亜希への嫌がらせはぱたりと無くなった。その代わりに明に対しての嫌がらせが始まったが、それも夏休みに入る前には無くなっていた。お互いが過剰に意識し合ってしまう結果、生じてしまうこの時期の子ども達特有の男女の壁の恩恵である。

 ともかく、あの一件以来口も聞いていなかったにもかかわらず、亜希は急に声を掛けてきたのだ。

「ねえ、どうなの?」

 何も答えない明に亜希はそう続けた。

「そうだけど、それが何?」

 ぶっきら棒に答えて、明は席を立って校庭に向かった。教室を出る時、亜希が何か言っていたようだが構わず足を進めた。

 その日、二回目に亜希が声を掛けてきたのは帰りの挨拶が終わり、皆が各々友達と談笑しているときだった。明はその日の漢字の小テストで半分以上不正解だったので、漢字の書き取りの居残りがあり、担任の先生から書き取り用のプリントをもらって自分の席へ戻ったところだった。

「私も行っちゃダメ?」

 席に座るといきなり頭上からそう、声が降ってきた。顔を上げると、そこには亜希がいた。手を後ろで組み、明を見下ろしていた。

「一緒にってどこに?」

 明はこれもぶっきら棒に答えて居残りの課題に取り掛かった。一定のリズムで指定された漢字を書き込んでいく。

「どこにって……。わっ、字汚い」


 一行目が埋まり、次の行に鉛筆を走らせる。亜希は明の手元を見ながら、「汚い」だの「書き順が……」だのと言っている。

「どこに行くって?」

「あ、そうそう」

 表情を作らず顔を上げ、そう聞く。すると亜希は思い出したようににこりと笑った。

「あの草ぼうぼうの空地にね、一緒に行ってほしいの。ダメ?」

「え?」

 予想もしなかった答えに明は唖然とする。亜希は女の子だ。あんな危険な場所には近付けることはできない。蜂がいる。秋の蜂は一層共募になると祖父が言っていたのを思い出した。

「ダメだよ」

「何で?」

 亜希は机に両手をつき、悲しそうに明を見た。本当に何でかわからないのだろう。明は止まっていた鉛筆を再び動かしながら答えた。

「この時期は蜂の気が立ってて危ないんだよ。ああいう草叢」

 そう言いながら明は五行目に差し掛かっていた。これで四分の一が終わったことになる。小テストの範囲の二〇字全てを書き連ねなければならない。小学五年生にとっては辛い苦行である。

「どうしてもダメ?」

 亜希はまだ食い下がる気でいる。

「そんな恰好じゃ絶対ダメ」

 明にそう言われ、亜希は自分の身体に視線を走らせた。残暑も厳しい九月の頭である。亜希は白地に英字のプリントの入ったTシャツとホットパンツという出で立ちだその年齢の女の子の普通の格好だ。

「何でこの服がダメなの? あっ、服装ちゃんとしてきたらいいんだ」

 明の筆が止まった。その顔にはしまったと書いてあった。

「長袖長ズボンに着替えてこなきゃいけないよ? それでもいい?」

 諦めて明はそう言う。亜希の目がきらきらと輝いた。

「本当? 嬉しい! じゃあ、一緒に帰ろう。私の家に寄って、私、そこで着替えて直接行くから」

「え? でも亜希ちゃん家、どこ?」

「あれ? 知らないの? 明くんの家のすぐ近くだよ。私の家」

 明は呆れたように溜息を吐いて、

「これ終わるまでどっかで時間潰してきなよ。迎えに行くから」

と言い、亜希はそれに、


「図書室にいるね」

と応えた


 亜希の家は本当に明の家の目と鼻の先にあった。明の家の5軒隣である。何故今まで気付かなかったのだろう。

「じゃあ、ここで待ってて」

 亜希はそう言って玄関の中へ消えた。一人になると明は急にそわそわしてきた。こんなところにクラスメートと出会えば、格好のからかいのネタにされてしまう。早く亜希と一緒に草叢の奥へと消えてしまいたいと思った。

 二〇分程して亜希は出てきた。あまりにも遅い。

「遅いよ」

 明はそのまま不満を口にした。

「ごめんなさい。着替えるって言ったらお母さんにしつこく理由を聞かれちゃって」

 確かに亜希の母親からしたらおかしな注文かもしれない。

「なんて言ったの?」

「ボールで遊ぶし、この服気に入ってるから汚れてもいい服がいいって言ったの」

 口が巧いと素直に思った。

 明達はそのまま明の家の前まで来て、明は家に入った。ただいまと言うと母親の声が返ってくる。ランドセルを自室に置き、着替える。脱いだ服を脱衣所の籠に入れて外に出た。亜希はおとなしく門のところで待っていた。

「早いね」

「亜希ちゃんが遅いんだよ」

「ひどーい」

 そう軽く言葉を交わした後、二人は同時ににこりと笑った。

「何で笑ってるの?」

「亜希ちゃんこそ」

「知らない」

 明にも自分が笑っている理由がわからない。しかし、わかることがある。亜希は心から笑っている。

「行こうか」

 明は亜希の横をすり抜け、空地の入口に立った。前よりも伸びたセイタカアワダチソウが茎を撓ませて少しお辞儀をしていた。相変わらず黄色い花が風にその身を預けている。

「すごいね……」

 空地が放つ独特の不気味さに亜希は怖気づいたように見える。明のいたずら心がざわざわし始める。


「蛇とか出るかもね」

「え? 蛇が出るの? 見たの?」

 亜希が慌てるのがわかると、何とも言えない達成感が明の心を満たしていく。

「見たことない」

 込み上げる笑いを噛み殺しながら明が答えると亜希は膨れて、

「最低!」

とそっぽを向いた。その様子が明の笑いに更に拍車をかけたのは言うまでもない。我慢できなくなり盛大に吹き出してしまう。

「一学期の時から思ってたけど明くんって意地悪の才能あると思う」

 そう言って恨めしげな目を向ける。

「ごめん。謝るよ」

「もういから。早く行こう」

 亜希はすぐに笑顔に戻り、明を急かした。

「よし、じゃあ行こっか」

 明が先頭に立ち、亜希がその後に続いた。チチチと虫が鳴いているが、その声のする茂みの近くに行くとぴたりと止む。

「何か暗いね」

 明の背後から不安げな声が聞こえる。伸び放題の草が日光をいくらか遮り、薄暗く感じる。明はもう慣れてしまいどうということはないが、亜希にとっては未知の体験に緊張しているのだろう。

「そのうち慣れるよ」

 そう言って先へ進む。

「あ……」

 数m進んだ時、明は小さく声を上げた。

「何? どうしたの?」

 亜希が先程以上に不安そうな声を上げる。亜希からは明の背中しか見えず、何が起こったのかわからない。

「蛇?」

 堪らず亜希が叫ぶ。

「静かに」

 そんな亜希を明は振り返らずに制した。その直後に明は前方に飛んだ。

「え? 何?」

 突然の事で亜希は戸惑うばかりだ。そんな亜希をよそに、明はしゃがみ込み、何かを抑え込んでいる。

「よし……。亜希ちゃん、これ」


 明が遠慮がちに差し出した右手には、光沢のある細長いものが握られていた。明は、亜希が気味悪がると思い、慎重に差し出したのだが亜希の反応は予想に反していた。

「え! すごい綺麗!」

 明は一瞬呆気に取られたが、すぐに笑顔に戻り、

「触ってみる?」

とトカゲを差し出した。

「いいの? ありがとう」

「滑るから気を付けてね」

 そう言って、そっとトカゲを亜希に握らせる。亜希は恐る恐る明からそれを受け取る。

「わあ! すべすべしてて気持ちいい!」

 手元は危なっかしいが、顔には満面の笑みが咲き、嬉しさが伝わってくる。亜希はトカゲの頭を明に向け、

「目、うるうるしててかわいい」

とはしゃいでいる。明はその様子にホッとした。

「そろそろ出ようか。トカゲ捕れたし」

 明はそう言って先に進もうとする。しかし、亜希はそれを許さないらしい。

「明くん、こっち入ってみようよ」

 そう言って道が出来ていない方へ入ろうとしていた。その光景が目に入った瞬間、明は亜希の腕を掴んで、引き止めた。慌てたせいか、明の指が亜希の細い腕に食い込む。

「痛っ」

「ごめん」

 亜希が苦痛に表情を歪める。明はそれに気づき、慌てて手を離す。亜希が腕をさすりながら明を見る。その腕にはうっすらを指の跡がついていた。

「ごめん」

 明はもう一度謝る。亜希は怪訝な目で明を見て口を開く。

「どうしたの?」

「そっちは危ないよ。何があるかわからないから」

 そう言って、亜希が入ろうとした茂みに視線を向けた。チチチと虫が鳴き始めた。

「この道みたいなのは明くんが作ったの? 」

 急に亜希がそう訊ねた。

「え? そうだよ。何で?」

「ううん。気になっただけ」

「そっか」

 二人はそれきり黙ってしまった。虫の鳴き声が、明にはうるさく感じられた。

「蜂がいるかもしれないんだ」


 明は気まずさからそう切り出した。

「この道も、蜂とかいないか確認しながら作ったんだよ。だから確認してないところは危ないんだ」

 そこまで言うまで明は亜希を見なかった。一通り話して亜希を見ると、彼女はにやにやしていた。

「何?」

 明はその表情が気に食わなそうな顔をして応じる。

「優しいんだなあと思って」

 亜希は何だか嬉しそうだ。明は気恥ずかしくなり、亜希に背を向ける。

「もう出よう。六限で居残りしてたから、もう暗くなってきちゃった」

 明は一気に言うとさっさと歩き出した。亜希はそれに黙ってついていく。


 その日以来、明は放課後に用事がない時は専ら亜希と空地へ入っていった。初めは恐る恐るだった亜希も慣れてくるらしく、時には明よりも前を行くことも度々あった。

 更に驚くべきことに、亜希は好奇心旺盛らしく、明が調べていない茂みにも果敢に挑み、新たな道を開拓していった。

「亜希ちゃん、俺がここで遊んでるのどうしてわかったの?」

 ある日、そんなことを訊いた。亜希は意地悪そうに微笑み、

「知りたい?」

と勿体ぶった。

「早く言いなよ」

と明は呆れたように返す。そんな反応が不満なのか、

「つまんないの」

と亜希は膨れるのだった。そして、

「私、家の前まで帰ってきた時に、明くんが草叢から出てくるの見たの。手に持ってるのはすぐにわかった。クラスの男子が自分は何匹飼ってるって自慢し合ってるの聞いたし」

と得意げに種明かしをした。明は秘密にしていたことがバレたような恥ずかしさを覚えた。

 そんな話を草叢の中でしながら、二人はどんどん仲を深めていった。明が麻婆豆腐が好きなら、亜希はモンブランが好きだと言った。最近流行りの曲に関しては明は全く話についていけず、亜希がひたすらに話していた。そんな二人も学校でに行けば、たちまち互いに壁を作ってしまう。それ程に男女で仲がいいというのは子ども達にとってはリスキーでセンセーショナルなものなのだ。

「そう言えばさ」

 その日も質問を試みたのは明だった。何かお互いのことを知る時は決まって明から質問を切り出した。その度に亜希は少し構えたような雰囲気になる。


「何かな?」

 いつものように表情が固くなる。明には何が亜希をそのようにさせるのか、見当もつかないでいた。

「俺達って、家近いのに学校行く時全然会わないよね? 」

 これは以前から気になっていたことだ。亜希が転校してきて約半年もの間、登校の時に出くわさないのは不自然な気がしたのだ。

「ああ、私、朝早いの」

「何時頃に家出るの?」

「ええと……七時くらいかな」

 明はその答えに驚きを隠せない。明の家から学校まで一〇分もあれば着いてしまうのだ。

「そんな早くから何やってんの? 友達もいないんじゃない?」

「そんなことないよ。何人か来てるからお話してるよ。女の子って話すこと多くて、時間足りないの」

 携帯電話が小学生に普及し始めたとは言え、それは都会での話であって、明の住む地方にとってはまだまだ先の話になりそうだ。明も亜希も、彼らの周囲の子ども達も携帯電話は持っておらず、コミュニケーションの主な手段は直接会って話すことだった。

「ふーん。そうなんだ。女子って大変だね」

 感心したような口ぶりで明は言った。この時は、明はそんなもんかくらいに思っていた。亜希の堅い表情は気になったが、これは何の関係もないと思っていた。

 亜希もだいぶこの草叢に慣れた頃、事件は起こった。

「痛いっ!」

 いつものように二人が前後に並んで道を進み、新たな茂みに入っていた時だ。悲鳴にも近い叫び声が明の背後で上がった。その直後にガサガサと草を搔き分ける音も聞こえた。

「どうしたの?」

 素早く振り返ると、亜希の苦悶の表情が目に飛び込んだ。その次に目に入ったのはいくつもの橙色の飛来物だ。気が動転して、外界の音を遮断していた耳が徐々に機能し始める。ブーンという不快と恐怖を煽る羽音が聞こえた。

「ちょっと明くん?」

 明は亜希の手を握り、草叢の中を走った。亜希はその手を引かれるままに明についていくしかない。草叢の出口へ出る。車が来てないか左右を確認する。タイミングが悪く、一台の車がこちらに向かって走ってきていた。車が通過するこの一瞬ももどかしい。

「大丈夫? どこ刺された?」

 車を待つ間、亜希に容態を訊ねる。

「ふくらはぎの真ん中辺り。長ズボンの上から刺されたみたい」

「そっか。ごめん」


 明が謝ると、亜希は黙ってしまった。彼の心は罪悪感で引き裂けてしまいそうだ。もっと気を付けていれば。後悔が胸に次々と打ち寄せるてくる。

 亜希のふらはぎに目をやると、痛々しい程に赤くなっている。車が走り過ぎるとそのまま秋を連れて自分の家へ駆け込んだ。母親に氷嚢を作らせ、すぐに応急処置をする。最初、痛みと冷たさで顔を歪めていた亜希の表情も、痛みが引いてきたのか、徐々に和らいできた。

「ありがとう。もう大丈夫だよ」

 そう笑顔で言う亜希に明は少しだけ安心した。

「帰ったら軟膏か何か塗ってもらって。応急処置だけだから」

 氷嚢を片付け、亜希の元に戻ってくると明はそう言った。亜希は小さく頷くだけだった。その日は会話らしい会話はそれで終わり、亜希は帰ってしまった。

 その日以来、亜希が草叢へ行こうと言うことはなかった。


「ごめん。明くんとは遊ぶなって言われちゃった」

 数日後、学校で亜希は申し訳なさそうにそう言った。

「学校では普通に話せるけど、放課後は一緒に遊べなくなっちゃった」

 明は全身から血の気が引いていくのがわかった。今さらながら自分のしてしまったことの重大さに気づいた。二人にとっては大したことのない出来事だったとしても、亜希の母親にとっては、大事な娘を傷付けられたということになる。

「私がもっと気を付ければよかったね」

 亜希が力無く笑う。その表情が明の胸の中の何かをきりきりと締めつけた。たぶんこれは罪悪感だ。明は大きく首を横に振る。

「俺が先頭だったのに、確認不足だった。ごめん」

 そのまま勢いよく頭を下げた。数人のクラスメートが明に視線を向けたが、すぐに談笑に戻った。その時、一〇分休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。6限目が始まる。明は力無く自分の席に座った。


 一〇月に入った。相変わらず亜希とは学校でしか話せなかった。校門を出ると、二人は互いの存在に気づいていないかのように目も向けない。明にはその事実が重くのしかかる。

 そんな状態が続く中、日曜日になった。明は騒がしい機械音で目を覚ました。ベッドの傍にある、デジタル式の目覚まし時計に目をやる。一〇時半。休日にしては、まずまず早い時間だ。もそもそと布団から這い出て、カーテンを開ける。窓から見える景色に何やら違和感があった。

「あ……」


 空地の前には白い軽トラが停まっている。そして、空地の中には作業着に麦藁帽を被った二人の男が、それぞれに草刈り機を手に持ち、伸びに伸びた雑草を次々に刈り取っていた。

 その光景を明は窓にもたれ掛り、ぼんやりと見ていた。敷地の四分の一ほどの広さが刈り上げられ、薄緑に色を変えていた。セイタカアワダチソウの黄色もその中に見える。

 ブーン。

「ん?」

 不快な音が明の手元から聞こえる。視線を落とすと、窓枠の外に一匹の蜂が張り付いていた。彼女達の巣も、あの空地にあったのだろうか。そして、巨大な刃の前に、無力にも敗北してしまったのだろうか。

 その蜂は再び飛び立ち、明の家の屋根の上へ消えていった。空に鰯雲が浮かんでいた。


 数週間後、少し肌寒い日が続いたある日、明はランドセルを置くと、すぐに空地に足を踏み入れた。一歩進む度に枯れ草の擦れ合う音がする。

 明は足元に蜂の巣が落ちていないことを確かめながら進んだ。草刈りが行われて時間が経ったからか、細く背の低い草が生えていた。高いものは明の腰程まで伸びていた。

「これがちょうどいいかな」

 明は空地のちょうど中心辺りで屈みこみ、茶色い細く長い棒切れを拾い上げた。棒の先には茶色く汚れた綿帽子がついていた。明はその部分を折り取って、手に持ちやすい長さにした。

 セイタカアワダチソウ。

 生きているうちは、青々とし、その頂に黄色い花を咲かせる帰化植物だが、そんなものはただの雑草に過ぎない。明にとって、それは死んで茶色く、程よく固くなってから価値を持つ。

 明は一つの比較的背の高い雑草の前に、その棒―――枯れたセイタカアワダチソウ―――を構えて立った。距離を測り、棒を頭上に持っていく。ふっと息を吐き、雑草に向かって振り下ろした。

 バチ。

 弾けるような音がした。草は先程よりも半分くらい低くなっていた。斜めに走る切り口からは綺麗な断面が見えた。たかが枯れ草の茎でも、柔らかな雑草にとっては鋭利な刃になる。

 明はその後、夢中になってその棒切れを振り回した。

「明くん?」

 明は急な呼びかけに驚き、素早く振り返った。亜希が、トートバッグをその手に提げて立っていた。

「……これで気晴らししてたんだ」


 明は手に持った棒切れを掲げ、訊かれてもいないのに答えた。足元にある枯れ草を拾い上げ、自分のものと同じようなものを拵え、亜希に向かって差し出す。

「やる?」

「いいの?」

 そう言って目を輝かせる亜希に対して、こくりと頷く。亜希は嬉しそうにそれを受け取り、明と一緒に振り回し始めた。次々と雑草を切り払っていく。

「私ね、毎朝勉強してるの」

「え?」

 上がった息を整えていると、突然亜希は言った。

「毎日毎日勉強で退屈だった。だから明くんを見て、羨ましいと思った。それで空地に連れて行ってもらおうと思ったの」

「そうだったんだ。じゃあ、これも気晴らしだ」

 明は再び棒切れを振った。目の前の雑草の先端が弾け飛ぶ。

「そう言うこと!」

 亜希も同じように手に持った棒を振るう。

「でもいいの?」

 明は不安げに亜希に訊ねる。

「俺と一緒にいるの見られても」

 その様子に亜希はにやりと笑う。

「一学期の時に助けてくれたし」

「ああ」

 明は一学期の理科の時間を思い出す。あの時の事を提案したのは明だ。明が後片付けを沙菜に押し付け、亜希が沙菜の味方をする。その後、思った通りに亜希への嫌がらせは無くなった。

「それに落書きも一緒に消してくれた」

 その時に、理科の時間の作戦を亜希に提案したのだ。

「そんな明くん、私カッコいいなと思う」

 亜希が明を真っ直ぐ見つめ、そう言った。突然の事で明は面食らって、少し慌てる。

「そんな……」

「だからね」

 焦って言葉を口にしようとする明を、亜希はそう言って制した。そして、言った。

「だから、私はいいの」

 夕日が山の向こうへ沈んでいく。空は艶やかなにその色を変えていく。


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