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無明短篇集  作者: 無明
3/11

優しい狂気

バケツをひっくり返したような雨が降る街並みの中を、黒い影が二つ、三つ縫うように走っている。一つは、他の影よりもずいぶん離れたところを動いていた。彼の名はドルトン。困窮した生活に耐えかね、先ほど強盗に押し入った家で殺人を犯してしまい、警官に追われているのだ。彼の背後では、停止を促す二三人の怒号が聞こえるが、彼はそれに耳を貸さずに迷路のような街の中をうねうねと逃げ回っていた。

雨に濡れた前髪がだらしなく額にへばりついているのも構わず、彼は逃げ惑った。警察もしつこく、なかなか巻くことができない。

「くそ……どうしたもんか」

彼は辺りを見回し、隠れられそうな場所を探していたが、なかなか見つけることができずにいた。

「……ダメか!」

ドルトンは逃げ込むのに手頃な家屋ーーボロで今にも潰れそうで、あわよくば、無人のーーを見つけるのに難儀していた。この日雇い労働者の多く住む街ではそういう家屋を探すのはさほど難しくないのだが、殺人という、非日常にさらされた彼の脳は視覚や判断力さえ麻痺させていた。

後ろでは相変わらず、警官が距離を離れず縮めず追ってきていた。しかし、入り組んだ街並みのせいか、彼らは立ち並ぶ家屋の影に隠れ、ドルトンからは見えなかった。裏を返せば、彼らからもドルトンは見えていないことになる。

「チッ……あの家に賭けるしかねえか」

彼は目の前に現れた今までで一番目ぼしい、古い家屋を見つけた。後ろを確認する。警官たちはまだ、そこの角までは来ていないようだった。ドルトンはその家屋の戸の前にしゃがみ込み、鍵穴にナイフの切っ先をねじ込んだ。

「……くそっ! 早く開きやがれ!」

迫り来る足音と雨がドルトンの手元を狂わせたが、悪態をつきながらもなんとかこじ開け、その家に転がり込んだ。

「…………はあ……はあ……。行ったか……よしっ」

戸の前を革靴の足音が通り過ぎた。ドルトンはその足音が遠ざかるのを待って、鍵を締め直した。ナイフで傷つけたせいか、仰々しい音を玄関に響かせた。時計を見る。午前1時二四分。二〇分ほど逃げていたことになる。全く運が悪かった。そう彼は心で呟いた。最初に入った家の家主を殺し、机に置いてあった銀貨の袋を掴んで出るまではよかったが、深夜巡回の警官に出くわすのは計算外であった。

「ついてねえなあ。まあ、巻けたからいい。明日はこの金で街を出よう」

ドルトンはリビングに入り、ソファち腰をどっしり下ろした。なかなかの金持ちの家らしい、置いてある家具はどれも高価そうな装飾のものばかりであった。ドルトンは息を整えるとその家具たちを見回した。自分の座っているソファ、机、椅子、食器棚、座椅子……。


「ん?」

ドルトンは 座椅子の不自然な盛り上がりのところで視線を止めた。何かいる。

「なんだ……あれは? 」

ドルトンは疲れていたため、ソファの心地よさから離れられずにいたが、その不自然な盛り上がりにはしつこいまでの視線を向けていた。

「おや? こんな晩に来客かね?」

唐突な人間の声に一瞬、体が強張ったが、腰に差したナイフを即座に抜き、自分の入ってきたリビングの戸に向かい構えた。

「……慌てなさるな、こっちじゃよ……」

そのドルトンの置かれた状況とは裏腹な、穏やかな声はドルトンの背後から聞こえていた。ドルトンはその声の主と対面しようとゆっくりと振り返ったが、暗闇のせいでその姿はなかなか見つからなかった。

「うーん……戸の右手にランプがあったはずじゃ。どうかね?」

その声に従って右手を探ると確かにランプがあった。その脇に置いてあるマッチを擦って明かりをつける。さっきまでいた場所まで戻ると座椅子の辺りまでランプの光が届き、先ほどの盛り上がりが正体を現した。

「どうかね? みつかったかね?」

老人であった。肉付きのしっかりした躯体に、セーターにひざ掛け、ニット帽まで被っている。そのニット帽からは白髪が覗き、髭も真っ白である。

「すまんのう、なんのもてなしもできんで。まま、掛けてくだされ」

ドルトンはナイフはそのままで、ソファに掛けた。

「おい、じじい。これが何か、わかんねえのか?」

ドルトンは手に持ったナイフをちらつかせ、凄んで見せた。

「ふむ……何かと言われましても、ほれ、わしはこの通り……」

その老人の目は真っ白に濁り、とても光を感知する機能があるとは思えなかった。そのおぞましくすら感じる目にドルトンは圧倒され、押し黙ってしまった。

「なんだ……その…………すまねえ」

「なあに、気にしなさんな。さて、どうも口ぶりを聞くと、ここに強盗か何かに入ったのかな?」

老人は顎鬚を弄びながら、ドルトンのいる方向とは違う方向を見て言った。これも目が見えない故なのだろう。ドルトンは雨に濡れた上着を脱ぎ、傍にあった上着掛けに掛けた。

「いや……違うんだ……」

「すでに仕事を終えた後ということかな?」

老人はかかっと笑って、そして、そうかそうかと呟いた。

「わしを殺すか、若いの?」


老人は笑いながら言う。この時間に、赤の他人、しかも強盗が侵入してきたにも関わらず、このように、落ち着き払っている老人に、ドルトンは少し不気味なものを感じた。

「……。いや……なんか化けて出て来られそうだ。やめるよ」

「ふむ。そうか」

「その代わり、俺の身の上話を聞いてくれないか?」

ドルトンはソファにもたれかかるとナイフをテーブルの上に置いて、一呼吸入れた。老人は視線をドルトンの息遣いが聞こえた方向を懸命に探していたが、ドルトンは構わず話し始めた。

「俺の生まれのはここから5里ほど離れた小さな商人たちの街だ。と言っても俺は物心ついたときからその街の外れの孤児院に預けられていたから、その孤児院の職員の話によればだが。俺は生まれてすぐにその孤児院に預けられたらしい。そしてそこで12歳まで健康に育つ。がそこの環境はもともとの俺の性格に合わなかった。決まった時間に起き、決まった仕事をこなし、学校に行き、決まった時間に帰り、勉強して、飯を食い、寝る。その生活に俺は窮屈さを覚えたし、早く大人になりたいとも思った。何よりこんなところにぶち込みやがった両親を憎んだよ」

ドルトンは憐れみを求めるように俯き、首を振った。

「それは気の毒に……」

老人は目に同情の色を浮かべ、ため息をついた。

「そして、一二歳の冬。俺は一世一代の大勝負に出たんだ。孤児院を飛び出し、この商売人の腐ったようなやつの集まる街に逃げてきた。最初は安い日当の仕事しか見つけられなくて、何度か飢え死にしそうになったが、その度に俺と同じような境遇の仲間に助けてもらったよ」

ドルトンは懐かしそうにポケットから一枚のしわくちゃの写真を取り出した。そこには顔を泥まみれにした少年が6人並んで笑っていた。かつての彼の仲間たちであった。

「だが……そんな仲間たちも卑劣な資産家たちに消耗品扱いされ、日に日に衰弱し、一人、また一人と死んでいったよ。俺はこの弱者を切り捨てるような世の中に嫌気がさしたね。そして、俺もとうとうその日の食事にすらありつけなくなり、路上に倒れこんでしまった。もう終わりだと、そのとき覚悟した。しかし、そんな俺に施しの手を差し伸べてくれた奴がいたんだ。今の嫁の親父だ。人の良さそうな経営者だったよ。その人に俺は拾われ、正規の雇用をもらったんだ。働いて数年経つと今の嫁さんをもらった。何もかもうまく行くと思った。がそんな甘くはなかったんだ、じいさん……」

ドルトンはそこまで一気に話し終えると、ため息をついた。

「飲むものはあるかい?」

「ああ、そこの食器棚にポットと紅茶の葉があるから自分で淹れなさい」

老人は穏やかに促すと、いっそう腰を椅子に深く沈めた。ドルトンは立ち上がり、湯を沸かすために暖炉に火をくべた。その上に水の入ったポットを置くと、その近くに座り込むと話を続けた。


「じいさん、人生ってのはなかなかうまくいくようにはできてないらしいな。親父さんの会社が倒産したんだよ。そのお人好しな性格が災いして、そこかしこに金を貸したりしていたらしい。それでその金を回収しきれずに自分ところの首が回らなくなったんだと。悲しいねえ。いつだって善人が損する世の中だ。じいさん、こんな理不尽を許していいのかい?」

かたかたと音を立てるポットを火から離し、テーブルの上まで運ぶと、茶葉の入ったカップに並々と湯を注いだ。ドルトンはそれを慎重に冷ましながら、ゆっくりと飲み干した。雨に濡れた体がじんわりと温まるのをドルトンは感じた。頬もいくらか上気しているように見える。

「俺は許せないんだ。人のいい人間がなぜ苦しまなければならない。苦しむのは労働者をこき使い、使い捨てのように扱うあいつらなんじゃないか? 」

そうまくし立てるドルトンの脳裏には先ほど殺した夫人の姿がよぎった。指や首元には宝石を輝かせ、いかにも富と名誉によって生かされてきましたと言っているような姿がやけに腹立たしかった。ドルトンの義父から借りた金で成り上がったくせに、金も返さず贅の限りを尽くしたその根性がドルトンは許せなかった。

「だから殺してやったよ。ホントは何を盗んでも盗めなくてもよかった。あいつさえ殺せれば」

ドルトンは冷ややかな笑みを浮かべ、喉の奥でくくっと笑った。そして、カップにさらに紅茶を継ぎ足し、一気に飲み干した。

「わかるかい、老人? 俺の不運な境遇が? 親から捨てられ、運に見放された俺の気持ちが?」

今のドルトンの心境では、目の前に佇む盲目の老人でさえもぬくぬくとした温室で平和に過ごす憎むべき人間に思えて仕方なかった。

ドルトンはテーブルの上に置いたナイフを再び手にし、何気なしに弄び出した。

「若いの、名前は……何というんだ?」

老人はゆっくりとドルトンに尋ねた。その語気には祈るような気迫さえ感じた。

「……ドルトンだ」

「……そうか」

老人は両手で顔を覆って首を横に振った。そして、数秒間を置いて、急にドルトンに向かってこう言い放った。

「わしをこの場で、お前の手で殺せ。とうとう、贖罪の時が来たようだよ」

ドルトンはその言葉に一瞬たじろいだが、その言葉に従い、ゆっくりと老人に向かって歩き出した。


「……まさか……」

「職が見つかり、生活が安定すれば迎えに行く予定だったんだよ、ドルトン」

ドルトンは老人の目の前に立ち、ナイフを胸に突きつけた。老人は恐怖と安堵の入り混じった、複雑なため息をついた。

「母さんは死ぬ間際に言ってたよ。あの子は……どこにいるのってな……。すまんな、やっと見つけたよ。最愛の息子を……」

老人はそう言うといきなりドルトンを抱きしめた。急な出来事に身を硬くしてしまったドルトンの掌には、肉体に沈んでいく刃の感触が走った。

老人は最期にふーっと息を吐き、それから動かなくなった。

いつの間にか雨は止んでいたが、雨による雫はまだ窓を濡らし、月明かりを移していた。ドルトンはふらりと戸を開けると、先ほどの警官が走ってきたところであった。

まだ静かな夜更けに銃声が三つ谺した。


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