翳りゆく部屋
窓の外からはもう後、数刻で沈んでしまうであろう陽の光が差し込んで、洗い物をする幹子の横顔にオレンジ色の帯を作っていた。風の音も聞こえる。がしかし、そんな自然の優しい計らいも今の幹子にはなんの慰めにもなっていなかった。
食事の支度を終え、一人分の配膳をどこかへ運んでいく。
キッチンと隣り合ったリビングから廊下に出る。数歩進んだ先の右手にある襖を開けるとそこには日本人に馴染みの深い畳が敷き詰められた和室に、白い布団が横たわっていた
「幹子か」
そこにはやつれ切った中年の男が床に伏せていた。中年と言っても、長い闘病の疲れからか骨だけ浮き出た容姿は、とてもその年代の男性とは思えないほど老けこんで見えた。
「あなた、ご飯ですよ」
幹子は夫に話しかけると夕飯を乗せた盆を畳の上に置いた。男はそれを力なく、横目で見た。
「うまそうだな。お粥か……」
盆の上の椀からは湯気が上がっていた。そこからは味気ないふやけた米の匂いが立ち込めていた。
「ええ……ちょっと味が薄いかもしれませんけど」
「構わないよ。最近やっと、気づいたことがあるんだ」
普段から何かと文句の多かった夫の口から構わないという言葉が出たことに驚きつつも、その後の言葉が気になり、幹子は梅をほぐしながら聞き返した。
「何かしら? 気づいたことって」
うん……と頷いてから彼は口を開いた。
「幹子、君はわがままな僕の言うことを文句も言わずに叶えてくれたね。今だって、味気ない物続きで腹立たしくて、何か無いのかと言えば、君はそうやって梅干をほぐして少しでも食べやすいようにしてくれる」
幹子は首を傾げながら、微笑み、口にお粥を持っていった。彼はそれを加え、少し照れ臭そうに笑った。
「何を今さら。あなたのことが好きなんですもの。当たり前のことですよ」
幹子も照れ隠しに夫の目も見ずに言う。何年振りだろうか。夫とこんなくすぐったい会話をしたのは。
そんなことを思いながら、夫の次の言葉を待つ。
「僕も君のことが大好きだけど、ここまでできなかった。何か買ってあげるわけでも、連れていくでもなく、帰ってきたら威張り散らして、怒鳴って。君を女らしく美しくあり続けられるようにと頑張ったことは何一つとしてなかったよ。君は今まで僕が男らしくいられるようにいつ、どこでも立ててくれたにもかかわらずだ」
夫の顔が少し苦しそうに歪む。悔しいなあと小さな声でそう漏れた。
幹子は夫の顔を優しく撫でて愛おしそうに見つめた。
「何をおっしゃるんですか? 夫は立てるように昔から母から教えられていましたから。それに習っただけのことですよ」
「それに感謝もせずに今まで当たり前だとして過ごしてきた自分が腹立たしいんだ」
彼はそう言って、彼の頬に触れる幹子の手を優しく包んだ。
「ここ数日、難しい顔してると思えば、そんなことを考えていたんですか?」
幹子はそう言って、ふたたびお粥を彼の口に運んだ。彼はそれを数回咀嚼し、飲み干すとこう続けた。
「僕は何も気づかなかった。君の手がこんなにもひび割れているのにも、化粧もせず、美しくあろうとすることも我慢して、僕のために尽くしてくれているのに」
こんなになるまで……と少し涙を溜めた目で幹子を見た。
「どうしたんですか? 今日はよくしゃべるんですね」
幹子は不思議に思いながらも、夫に優しい目線を向けた。しかし、その目の優しさも次の言葉で一変する。
「もう視界がほとんどぼやけて感覚が無くなってるんだ……。今夜が限界もしれない」
その言葉を言い終わらないうちに、幹子の目からはらはらと涙が零れていた。幹子の心にここ数週間、重くのしかかっていたのは夫の死であった。医者に余命を宣告され、最期は自宅という夫の意思に従い、自宅療養していたが、夫は着実に衰弱していった。
夫がいなくなる。
確実に近づきつつある死に、幹子の心は締め付けられていたのである。
そして、今目の前にその死が横たわっていたのだ。
「怖いだろうな。こんなときまで僕はわがままにも君を置いていくらしい。非情だね、僕は」
彼はそっと微笑みながら続けた。
「最期に一つだけ、わがままに振り回されてくれないかな……」
幹子はまだ夫の言っている意味が飲み込めないのか、呆然と夫の顔を見つめた。
「化粧……化粧してきてくれるかな……。今までいろいろ我慢させてきた。君はおそらく、女としての自分すら捨てて、僕に尽くしてくれたろう? 僕も久しく着飾った君を見ていなくて。最期にもう一度……美しい君を見て逝きたい」
いいねと彼は静かにそして、優しさに満ちた目で幹子を見た。幹子はすっと立ち上がり、二階の化粧台のあるかつての2人の寝室へ向かった。
埃の被った化粧台の鏡を見ると、懐かしい思い出が雪崩のように、止まってしまった2人の時間を埋めるように幹子の脳内に流れ込んできた。
二人で登った名前もよく覚えていない山、2人の将来を話しながら歩いた海岸、動物園、公園。
どれもありふれたものばかりだったが大切な思い出である。最後に思い出したのは彼が赤い顔をしながらしたプロポーズのシーンであった。
彼女は涙を堪えながら支度を終えた。久々にした化粧はお世辞にもうまいとは言い切れなかった。しかも、今の流行りなどもわからないのでだいぶ不安である。
しかし、意を決して夫の元へ向うことにした。こんなドキドキを味わうのも長い間なかった気がする。
「お待たせしました……」
恐る恐る襖を開けると目をつむった夫がそこにいた。急いで駆け寄り、体を揺する。
「だい……しょうぶ。生きてるよ」
彼は薄目を開けて、幹子を見るとおお……と唸ったような声を上げた。
「やっぱり、君は綺麗だね。いくつになっても綺麗だ。こんなにも綺麗なのに僕は何をやっていたのかな」
夫がどんな心境で言葉を紡いでいるのかはもう、表情からはわからない。この数十分の間にだいぶ衰弱してきたようだった。
「あなた、愛してますよ。もっといろんな言葉で伝えたかったけど……遅かったみたい……」
「それは僕の方だ。もっと優しく、暖かく愛せばよかった。こんなに綺麗な君に、いくつ愛を伝えたかな……プロポーズのとき? かな?」
夫は枕の下に手を入れ、何やら探っていた。
「あなた……?」
「最期に一つだけ……伝えたいんだ。一世一代の大勝負。伝わる……かな? 左手を出して……」
幹子は訳もわからずに言われる通りに左手を出した。彼の両手が左手を取る。硬い感触が探るように幹子の左手を這った。その感触は薬指を見つけるとそこでもぞもぞと動き始めた。若干の温もりはあるが、やはり冷たさも残した金属製の輪が、幹子の左手の薬指に通された。
「幹子……今までありがとう。永遠に……い……る」
彼の両手が、静かに布団の上に落ちた。
幹子は暗くなっていく部屋に響かないような小さな声で、最期のプロポーズに返事を、返した。