カレンデュア
【カレンデュア】花言葉……一途な恋
※優しい感じを出すためにあえてひらがなの表現を多くしています。
それはまだ空気が冷たい春のはじまりでした。冬の眠りから覚めた草花があちこちで顔を出し、光を求めて太陽を見上げます。庭の花壇には鮮やかな黄色い花が咲いていました。ちいさな太陽の花です。
おまえはほかの誰でもない、わたしと太陽に祝福されて生まれた――
産まれたての赤ん坊を胸に抱いて、母親になったばかりの若い娘はその我が子にこう名付けました。太陽のようにあたたかく、そしてかわいらしくなるように。“カレンデュア”と。
カレンデュアは父親の顔を知りません。最初からいなかったのか、途中でいなくなったのかもわかりません。母親に訊いても教えてくれませんでした。それでカレンデュアがかなしい顔をすると母親はこう言いました。
「カレン、おまえはさみしがることなんかなにもないの。だっておまえはちいさな太陽の花カレンデュアなんだから。ほら、外に出てごらん。花壇の上に黄色いお花がたくさん咲いているでしょ。おまえの名前はあのお花からもらったのよ。カレンデュアは明るくてかわいらしくてみんなに愛されてる花なの。おまえもきっとあのお花のようになれるわ。だからうつむかないで上を向いてごらん。太陽がおまえを癒してくれるはず。おまえはちいさな太陽の花“カレンデュア”なんだから」
それからカレンデュアはかなしくなると
「わたしはちいさな太陽の花カレンデュアなんだから」
自分をそうはげましました。
花壇に咲いたカレンデュアの花たちはまるで兄弟のように愛しくて、カレンデュアは毎日かかさず世話をしました。
「きれいよ、カレンデュア。今日も咲いていてくれてありがとう」
水をやりながら花たちにそう話しかけると、葉や茎に付いた雫が日光を反射してキラキラひかり、それを見るとカレンデュアは笑顔になりました。
「まるでキラキラ笑って喜んでるみたい」
そんな風に見えたのです。
夏がはじまる頃になるとそんな“兄弟”たちともお別れです。そして秋に種を蒔き、翌年の春あたらしい顔と対面します。でもそれは「はじめまして」でもあり「おかえり」でもあるのです。カレンデュアにとっては。
やがて冬に入り厳しい寒さがやってきました。一階の洋品店で働く母親は仕事で忙しく、あまりカレンデュアにかまってくれません。朝早くに部屋を出るので起こしてもくれず、カレンデュアは自分で起きていつもひとりでパンとミルク、ときにはたまごやソーセージを食べるのでした。そんなある日、寒さのせいか熱を出してしまったカレンデュアは奇妙な夢を見ました。
気が付くと彼女は見知らぬ町にいました。両脇に店が並んでいて、その街道を一人で歩いて行きます。すると誰もいなかった道端にぱっと人影が現れました。黒い修道服を着た女性です。頭には何もかぶらず、腰のあたりまである長い髪を下ろしていました。カレンデュアは近付きますが、誰なの? そう問いかけたくても声が出ません。するとカレンデュアを見詰めてその“誰か”は言いました。
「カタリマスカタリマス……。あなたは悪い男に騙された女の生まれ変わりです。その女はそれが原因で生活が台なしになった末に病に臥し、苦しみ抜いた末に死んでいきました。彼女は病床のなか、自分を騙した男を呪い続けました。その呪いは生まれ変わっても消えることはなく、あなたにも引き継がれているのです。次に生まれ変わったときはこんな目に遭わないために絶対に恋人は作らず、もしそれを破ればたちまち不幸に堕ち、さらには来世の幸福もなくなるようにと。その呪いはあなたが誰かと結ばれることをけっして許さないのです。
その代わり、あなたが誓いを守れば、来世は必ず幸福になるようにと彼女は願いました。来世の幸福は現世のあなた次第なのです。
これからあなたは運命に導かれ、修道院へ行くことになるでしょう。そこにはたくさんのカレンデュアが飾られた聖堂があるはずです。
最後に、これだけは忘れないでください。このことはけっして誰にも話してはいけません。一生あなたの胸だけにしまっておくのです」
夢はそこからぼやけていきました。
目が覚めるとカレンデュアはぐっしょりと汗に濡れていました。あんな夢を見た後で胸がもやもやして、服はべたべた肌に張り付いて不快でたまりません。カレンデュアは泣きたくなりました。
「お母さん……」
すると横に母親がいたので、それを見たとたんカレンデュアはすっかり安心して力が抜けていきました。
「頭は痛くない?」
カレンデュアがうなずくと母親は背中を支えながら、木杯で水を飲ませてくれました。それから母親に体を拭いてもらい、寝衣も着替えました。カレンデュアは腰から下だけ毛布に潜らせ、起きたまま母親に問いかけました。
「いつ来てくれたの?」
「お昼よ、でもまたすぐ仕事に戻らないといけないの」
そんな。カレンデュアはすっかりしょげてしまいました。また一人になっちゃう。一人になりたくないのに……。さっき見た夢のことが言いたくて、でも話してはいけないと言われたから言えなくて、カレンデュアはまた胸がもやもやしてきました。
「ちゃんと治るまで寝てなさい」
母親の手が肩を押しやり、カレンデュアはあおむけに寝かされました。さらに首まで毛布をかけられたカレンデュアは、寝台の上で不安そうな顔をしました。母親はそんな娘を安心させるように笑いかけ、毛布にそっと手を当てると
「静かに寝てるのよ」と言って部屋を後にしました。
あれは本当だったのかしら。それともただの夢だったのかしら。
眠りの中に入るのが怖かったのに、まぶたがふさがっていくのを止められないカレンデュアは、また眠りの闇に溶けていきました。
カレンデュアが七歳になり春から学校に入ることになると、母親は以前にもまして仕事をつめこみ、寝る間も惜しんで働くようになりました。そんな日々が続くとカレンデュアはますますひとりぼっちの時間が増えましたが、彼女の心は希望に満ちていました。春になれば学校に行って、いろんな子に会える。そしたらきっといっぱいお友達ができるんだわ。そう考えただけで胸がワクワクしてきました。
わたしが産まれた日から数えて、八番目に植えた“カレンデュア”が咲いたら……
住居になっている二階の窓辺から見える景色は昨晩まで降り続いていた雪におおわれていました。砂糖細工さながらの白い町並みがやわらかな朝日を反射して、光がまたたく宝石の海になっています。それを映すカレンデュアの瞳にも無数の光がまたたいていました。
そしていつしか風があたたかいものに換わり、春が訪れようとしているときでした。カレンデュアはいつものように二階で一人、留守番をしていました。食卓の椅子にかけて好きな本を読みながらミルクを入れた木杯に手を伸ばすと、あやまってそれを倒してしまいました。
「あ、いけない!」
慌てて木杯を起こして布巾でこぼしたミルクを拭いていると、なにやら下でざわついているのが聴こえてきました。何かしら? 気になって階段を何段か下りてみると一階の洋品店で働いているタラという女性がしゃがみ込んでいるのが見えました。他にも何人かいて、囲むように何かの前に集まっています。お客さんらしき羽根飾りつきの帽子を被った婦人も心配そうに声をかけていました。
「タラさん、どうしたの?」
タラが振り向き、階段を下りてきたカレンデュアを仰ぎました。タラは眉間が狭まった険しい表情をしていました。その顔を見てカレンデュアはすぐに、良くないことが起きたのだと察しました。歩み寄ると何かを取り囲んでいる大人たちの隙間から頭が見えました。
「お母さん……?」
それは床に倒れたカレンデュアの母親の頭でした。たまらずカレンデュアが駆け寄ると母親は目が半開きで、ぐったりとしていました。
「お母さん、大丈夫!?」
心配して涙ぐむ幼い娘のカレンデュアを抱き寄せてタラがなぐさめます。
「大丈夫よ、カレン。今、救急馬車を呼んだから」
「お母さんは、なんで倒れたの?」
「たぶん貧血じゃないかしら」
疲れてるのね。働きすぎなんじゃない。などと言うのが聞こえてきます。カレンデュアは救急馬車が来るまでの間、ずっと母親の手を握っていました。
やがて店の前に救急馬車が到着するとカレンデュアの母親が乗せられ、タラとカレンデュアも同乗して病院へ向かいました。
母親は大事にいたらず、なんとか意識を取り戻しました。彼女が倒れた原因は過労によるものでした。それはつまり働きすぎだということを医師から聞かされたカレンデュアは、病床の母親にお願いしました。
「お母さん、もう無理しなくていいから。わたし、学校なんか行かなくていい!」
すると母親はほほえみながら首を振りました。病室の寝台に横たわりながら、そこから娘のカレンデュアを見詰めてこう言います。
「そんなこと考えなくていいのよ、カレン。おまえは学校へ行っていいの。学校へ行って、ちゃんとお勉強しなさい。そのためにお母さんはいままでがんばってきたんだから。ちょっとがんばりすぎちゃったけどね」
言って母親はクスッと笑いました。
「おまえの成長を見るのがわたしの生き甲斐なんだから」
「お母さん……」
「お母さんもがんばって体を治すから、もうちょっと待っててね」
「うん……」
カレンデュアは鼻をすすり、涙声でうなずきました。
「お母さんは入院するから今日は帰れないけど、カレンはもうお姉さんだから一人でも大丈夫ね?」
「え? それならわたしも病院に泊まる!」
泣きつく娘に母親はまた首を振りました。
「だめよ、ここには患者さんしか泊まれないの」
「……」
カレンデュアは目を潤ませて、悲しい顔で母親を見詰めました。母親は悲しくほほえんで「ごめんね」と言って幼い娘の頭をなでました。
「お母さんがいない間、何か困ったことがあったらタラに言いなさい。でも、お仕事の邪魔をしたらだめよ」
「うん」
力無くカレンデュアはうなずき、暗い顔で病室を出ました。廊下には先に出て待っていたタラがいました。彼女は「さあ、行きましょう」とカレンデュアをうながし、カレンデュアは彼女に手を引かれて病院を後にしました。
それから何日経っても母親は退院しませんでした。お見舞いに来た娘に母親はか細くなってしまった声でこう言いました。
「ごめんね、カレン。お母さん、がんばったんだけど……もうだめみたい」
カレンデュアは、この時はじめて母親が弱音を吐くところを見ました。え? カレンデュアが目を見張っていると母親が切り出しました。
「おまえに渡したいものがあるの」
「渡したいもの?……」
「あの引き出しに紙が入ってるから持ってきてちょうだい」
カレンデュアは母親が寝ている寝台脇にある花瓶が置かれた棚の前に行きました。その引き出しを開けると中に折り畳んだ紙が入っていました。これ? と尋ねると母親は静かにうなずき、カレンデュアをベッドの前に招き寄せました。
「そこに座って」
置いた木の椅子にカレンデュアが座り、顔をこちらに向けた母親と向き合いました。
「それを広げて」
言われてカレンデュアが紙を広げると、地図が書いてありました。所在地を示す位置に印が付けられ文字も書いてありましたが、まだ学校へ行っていないカレンデュアには読めませんでした。
「これは何の地図?」
「それはお母さんの知り合いがいる“修道院”の地図よ」
「修道……院?」
背中から顔にかけてはげしい悪寒が駆け抜けました。カレンデュアは衝撃のあまりぽかんとしてしまいました。夢で言われたことと同じ。わたし、修道院へ行くことになっちゃったみたい!
「そこへ行ってお世話になりなさい。わたしはもう……」
そしてカレンデュアがすでに家を出た日の晩――
八番目に植えた“カレンデュア”を見ることなく、カレンデュアの母親は永い眠りに着きました。
同じ日の早朝、わずかな荷物をトランクに詰め込んでカレンデュアは生まれ育った家を離れました。母親と同じ職場で働いているタラやほかの従業員たちはまたいつでも戻っておいでと言ってくれて、カレンデュアもそのつもりでした。カレンデュアにとってこれは旅に出るような感覚だったのです。まさかこの日母が亡くなるなんて思いもしません。彼女は家を去るとき、また帰ってくるからね、と頭のなかで言ったのでした。
駅に着いてそこから汽車に乗り、わからないことをそばにいた人に尋ねながら、目的地に向かいます。最寄りの駅で汽車を降りて地図を片手にきょろきょろしていると「おじょうちゃん、どうしたの?」と婦人に声をかけられました。母親が働いていた店に来ていたお客さんのような出で立ちで、つばの広い帽子をかぶり、温かそうな毛皮のコートを着たお金持ちの婦人でした。その人が親切にもカレンデュアを自分を迎えに来ていた馬車に同乗させてくれて、カレンデュアは遠い道のりを歩かずに目的地のそばまで行けました。親切な婦人にお礼を言って馬車を降りるとそこからは地図を片手にトランクを転がして歩き進みます。そして……
「あった!?」
思わず感動してカレンデュアはそう叫んでしまいました。標札と紙を照らし合わせ――
「“サントリナ修道院”。うん、ここに間違いないわね」とカレンデュアは納得して、さっそうとした足取りで開いた門を潜って行きました。青い尖塔の頭に十字架をいただいた本館らしき白亜の建物が丘陵の上に立っているのが見えます。そこへ続く長い長い石の階段をカレンデュアは小さな足で懸命に上って行きました。なんて長い階段なの! 小さな肺が悲鳴を上げ、カレンデュアはだんだん息が苦しくなってきました。足も筋肉を使いすぎて少しずつ速度が落ちていきます。そして折り返し地点になっているところまで来てそこで膝に手を突いて呼吸を整えていると、なにやら視線のようなものを感じてカレンデュアは顔を上げました。すると白いペンキを塗ったベンチに頭にベールを被り、黒い修道服を着た若い女性が座っていました。彼女がじっとこちらを見ています。
「あら、あなた。下でチャイムを鳴らさなかったの?」
女性に指摘されてカレンデュアは泡を食ってしまいました。
「あ、ごめんなさい! 門が開いていたので、上で尋ねようたほうがいいのかと思って……」
怒られる。そう思ってぎゅっと目を瞑って覚悟していると、クスクス――と聴こえてきたのは笑い声でした。女性は口元に拳を当てて笑っていました。
「まあいいわ。下でチャイムが鳴ったところで、わざわざこんな長い階段を降りて下まで行って顔を出すような人もいないでしょうしね」
すると女性は腰を上げました。
「さあ、こっちに来て。あなたを待っていましたよ」
「え?」
女性が何故そう言ったのかわからず、カレンデュアは困惑してしまいました。
「もしかして、わたしがここに来るってお母さんから連絡が来ていたんですか?」
「いいえ」と女性は首を振りました。
「じゃあ……」
女性はしたり顔ででこう言いました。
「あなたがここに来ると“予感”していたのです」
それを聞いて、ますます困惑してしまうカレンデュアでした。
修道服姿の女性に案内されて、カレンデュアは院長のいる別館へ向かいました。
「緊張しなくても大丈夫よ。院長は温厚な方だから」
「オンコウ……?」
女性はまたクスッと笑いました。
「やさしいってことよ」と言い直します。カレンデュアは納得して頷きました。
別館は女子修道院の西にありました。さらに西へ行くと男子修道院があると付き添いの女性が教えてくれました。
「ここの修道院て階段が長いから移動が大変でしょ? そのかわり毎日あの階段を上り下りしているおかげで、ここにいる修道女はみんなおしりがキュッと上がってスタイルがいいのよ」と女性は自慢げに言いました。そう言われて女性を見てみると太ってはおらず、そんな気がしないでもありませんでした。三棟ある建物の中央に位置する院長の部屋の入口の両脇には、門番のようにどっしりと構えた二匹の神獣の白い石像がありました。すると女性は、ちょっと待っててと言ってぱっと姿を消してしまいました。でもそれはつかの間で、すぐに中から女性の声で「どうぞ」と言うのが聴こえてきました。カレンデュアは緊張しながらドアを開けてその奥へと進みました。
一緒に来たはずの女性はすでに中にいました。いつの間に入ったのかしら。不思議な人……
院長は三十代くらいのやせ型の男性でした。物腰がやわらかく、三日月形に目を細めて、常にほほえみをたたえています。
「はじめまして、わたしはカレンデュア・アルウェンシスです」
カレンデュアはスカートの両端をつまんで、母親に教わったやり方で院長に挨拶しました。
「これはかわいらしい。歳はいくつですか?」
院長は腰をかがめ、好意的な目で幼いカレンデュアに話しかけました。
「もうすぐ七歳です」
緊張して頬を少し赤らめてカレンデュアは答えました。
「そうですか。よく来ましたね、カレンデュア」
座りましょうと彼に椅子に促され、座って話を続けます。
「一人でここに?」
カレンデュアはちょこんとうなずきました。
「入院中のお母さんに地図を渡されて、ここに知り合いがいるからお世話になりなさいと言われて……」
すると女性が院長にこそっと何か耳打ちしました。
「なるほど」
それを聞いた院長はカレンデュアを見て納得したようにうんうんと何回かうなずきました。
どうしたのかしら? カレンデュアは不思議そうにちょこんと首を傾げました。
「彼女が言うなら間違いないですね。あなたは今日ここに来るべくして来たのです。あなたをこのサントリナ修道院の一員として受け入れましょう」
こうしてカレンデュアはサントリナ修道院に入ることを許されました。
よくわからないうちに話しが進んでしまい、カレンデュアはきょとんとしてしまいました。そんな彼女に向かって「よかったわね」と言うように女性はウインクしました。
院長室を出るとカレンデュアは気になっていたことを女性に尋ねました。
「あの、さっき院長さんに何て言ったんですか?」
女性はクスッと笑って言いました。
「あなたに言ったのと同じことよ」
「同じこと?」
カレンデュアはちょこんと小首を傾げました。何のこと?
「そう、わたしは“あなた”がここに来ることを予感してた。そう言ったの」
と女性は得意顔で言うとダンスを踊るみたいにくるっと回って方向転換しました。そのまま軽快な足取りで、女子修道院の方へ向かって歩いて行きます。カレンデュアは置いてかれないようにと、たったったっとかけ足で付いていきました。
女子修道院に戻ると女性は
「後のことはタンジーに聞いて」と言ってぱっと消えてしまいました。カレンデュアは驚いてキョロキョロし、さらに辺りも探しましたが、女性の姿はどこにも見当たりませんでした。仕方なくカレンデュアは諦めて、一人でその“タンジー”を探しに行くことにしたのでした。
「よろしくね」
タンジーはサントリナ女子修道院の修道女で新米修道女のお世話係でした。年齢はカレンデュアの母親より上でしょう。顔の造作も動作もはつらつとしていて、元気で気さくな感じのする女性でした。
「あなた、名前は?」
「カレンデュアです」
「まあ、素敵な名前ね。だけど……カレンでいいかしら?」
「いいですよ。お母さんもそう呼んでいたし」
「そう、じゃあカレン。改めてよろしくね」
「はい、よろしくお願いします。タンジーさん」
「歳はいくつ?」
「もうすぐ七歳になります」
「七歳……」
少し考えを巡らすようにうなるとタンジーは、奥の収納棚から白い布を持ってきました。それを持ってすたすたと歩き出します。修道院の中は広くて、長い廊下が奥のほうまで伸びていて、部屋がたくさんありました。カレンデュアはそれらをゆっくり見物したいのを我慢してタンジーに付いて行きました。タンジーはその一室の前で足を止めると「ここがあなたの部屋よ」とドアを開けてカレンデュアを促しました。カレンデュアは部屋に入り、そこに荷物を下ろしました。中には机が何台かあり、壁のあちこちにタペストリが飾られていました。
「今はお祈りの時間でみんないないけど、あとで戻ってくるからちゃんと挨拶してね」
「はい」
素直に返事をしたカレンデュアに、さあ、これを付けてとタンジーが持っていた白い布を手渡しました。何かしらと広げてみるとエプロンと三角巾でした。
「今日からあなたには、ここで下働きとして働いてもらうわ」
着てきた服の上からエプロンをかけ、頭には三角巾を被り、この日からカレンデュアはサントリナ女子修道院の下働きになりました。最初の仕事は長い廊下のモップがけでした。世話係のタンジーが横にいるので手が抜けません。あまりにも長いので気が遠くなってきます。カレンデュアはたんたんとそれをやりながら、頭の中では別のことを考えていました。
「あの、タンジーさん」
「何?」
「聖堂に行っちゃだめですか?」
もう半分以上やったしとぼやきますが
「これが終わったらね」と冷たくタンジーに返されました。そうこうしているととうとう日が暮れてきてしまいました。窓から緋色の光が差し込んできます。そろそろお腹が減る頃。するとタンジーが用を足しに席を外しました。でもまたすぐに戻ってきちゃうし……と落胆してため息を吐いた時でした。
「あ」
目の前にまたあの修道女が現れたのです。彼女は心得顔でカレンデュアを見て微笑しました。
「いらっしゃい。わたしが聖堂に案内してあげる」と言って彼女は身を翻しました。そのまま滑るように廊下を進んで行きます。慌ててカレンデュアが追いかけながら叫びます。
「待って、今行ったらまだそうじの途中だからタンジーさんにしかられます!」
修道女は立ち止まって振り返りました。
「何か言われたら“ニゲラ”に連れて行かれたって言いなさい。それで大丈夫だから」
信用していいのか迷いながらも彼女のペースに乗せられて、カレンデュアは付いて行ってしまいました。
聖堂に入った途端カレンデュアは、感動と驚きのあまり息を飲み、しばらく目を瞠ったまま立ち尽くしてしまいました。
なんて素敵なの。まるで、まるで夢みたい……。いいえ、違う。これは“夢の通り”。あの夢はやっぱり本当だったんだわ!
祭壇の両脇に太陽の花の花畑が広がっています。本当だったんだわ……
その光景が涙を誘い、カレンデュアの頬からきらめく雫が流れ落ちました。それからカレンデュアは、一歩一歩噛み締めるようにゆっくりと祭壇に進みました。そして祈祷台に肘を乗せて手を組み、誓いを立てました。
神様、わたしカレンデュア・アルウェンシスはあの夢の言葉を信じて、生涯“独り身”でいることを誓います。
廊下に戻ると胸の前で腕組みしたタンジーが、仁王立ちで待っていました。
「どこへ行ってたの?」
後ろめたさを覚えながら、カレンデュアは言いました。
「“ニゲラ”さんに大聖堂に連れていかれて……」
途端タンジーは青ざめました。まるで恐ろしいものでも見てしまったように。
「……ニゲラは、10年以上前に死んだのよ?」
彼女は震えながらそう言いました。
それから八年の歳月が流れました。母親の訃報は修道院に送られて来た手紙で知りました。たった一人の肉親を失い帰る家を失ったカレンデュアはその後も修道院に留まり、そして八年ずっと下働きを続けましたが母親の知り合いは結局見付かりませんでした。その間カレンデュアはそうじ以外にもいろんな雑用を任されました。庭の手入れもその一つでした。そんなある朝でした。いつものように日課になっている花の水やりをしていると
「カレン」とよく通る声が頭の上に降ってきました。頭上を仰ぎ見ると開いた窓からタンジーが顔を出していました。来てと手招きしているので作業を中断して行ってみると
「これに着替えて」とタンジーから何かを渡されました。
「これは……」
疑問の表情を浮かべるカレンデュアを見てタンジーは笑顔で
「広げてみて」とうながしました。カレンデュアがそれを広げてみると
「わあ!」と感激の声がこぼれました。それは先輩たちが着ているものと同じ修道服でした。うれしい。やっとわたしもこれが着られるのね!
「今日からあなたはここの修道女ですよ。がんばってね」
「はい!」
こうしてカレンデュアはこの日から、サントリナ女子修道院の修道女になりました。カレンデュア、15歳の春でした。
修道院での生活を続けたカレンデュアは、太陽のようにきらきらした笑顔が魅力の美しい娘に育ちました。17歳にもなると胸もふくよかになり、だいぶ女性らしい体型になっていました。あの長い階段のおかげもあってか、おしりはキュッと上がっています。それはちょっとした自慢でした。修道院ではすべて自給自足の生活なので畑仕事も大工仕事も自分たちで行います。ワインの醸造や医療まで。
ある昼下がり、数人で畑仕事をしていると一人がくしゃみをしました。すると誰かが言いました。
「最近風邪が流行ってるみたいね。みんな寝込んじゃって」
隣で作業中の娘が言います。
「それがね、風邪じゃないかもしれないんですって」
「やだ、じゃあ何かの伝染病?」
「まだわからないから、今度お医者さんが検診に来るんですって」
タンジーから連絡が行き、翌日検診が行われることになりました。
「若い男性のお医者さんですって」
翌朝医師が来て検診が始まると、修道女たちは廊下に並ばされました。順番待ちをしている間、彼女たちはみんなそわそわしていました。清貧・貞潔・服従の修道誓願を立てたとはいえ、彼女たちは“女”なのです。カレンデュアも胸が高鳴りました。緊張のせいなのか落ち着きません。診察を終えた人からでしょうか、情報が後ろに回ってきました。
「足が長くてハンサムな先生らしいわよ」
「いやん〜恋しちゃったらどうしましょう!」
「シーナったら、興奮しないで」
やがて自分の番が回って来たカレンデュアは、医師がいる部屋に入りました。中には白衣を着た若い男性医師が椅子に座って待っていました。机上の記録用紙にさらさらとペンで記入してから彼はこちらに向き直り、どうぞと手を差し出してカレンデュアを椅子に促しました。カレンデュアは座り、医師と向かい合わせになり――途端、心臓が鉄槌で打たれたかのような強い衝撃に襲われました。何これ?
「よろしくお願いします」
知的な感じのする円形の眼鏡越しに正面から見詰められて、カレンデュアはしびれたように動けなくなってしまいました。手にも汗がにじんできます。顔が熱い。やだわ、わたしったら顔が真っ赤になってるかもしれない!
「口を開けて。あー」
言われてカレンデュアは口を開け、あーと言って舌を出します。中を覗いた医師は
「とくになし」とつぶやきながらまた紙にペンで記入しました。
「顔が赤いですが」
言って彼の手がカレンデュアの額に触れました。
「ひゃっ!」
びっくりして思わずカレンデュアは顔を退いて叫んでしまいました。
「失礼、冷たかったですね」と医師は謝り、熱はないかと独り言を言いました。
自分たちの部屋に戻ると「どうだった」とさっそく診察のことを聞かれました。カレンデュアは小さい声で答えました。
「とくになしって」
「ちがうわよ」
ルームメイトのルーダがじれったそうに叫びました。
「先生がどうだったかって聞いてるの」
カレンデュアは頬を赤く染めました。うつむいてそれを隠します。あ、照れてるとルーダがニヤニヤとしてからかうので、カレンデュアは恥ずかしくて部屋の端っこに逃げました。
向かい合った途端、心臓が飛び跳ねたなんて言えない! 彼の長くて繊細な指先が額に触れた瞬間、ひんやりしたのに顔が熱くて焦げそうになったなんて、言えない!
若くてハンサムなその医師は、たちまちサントリナ女子修道院の修道女たちの憧れの的になりました。名前はアスター・グラウェオレンス。歳は25歳。町内の診療所で開業医をしているとのこと。カレンデュアも噂でそれを知り、彼のことばかり考えるようになりました。これが“恋”?
カレンデュアは人の前では決して――もうばれていましたが、決してそのことを認めようとはしませんでした。わたしは修道女なんだから。
その頃町ではある伝染病が流行していました。前回グラウェオレンス医師が検診に来たのは、その感染者がいないか調べに来たためでした。そして今度は予防接種のために来院することになったのでした。
「注射はいやだけど、グラウェオレンス先生に会えるからうれしいわ」
「先生、わたし痛がりなの。やさしくして? なんてね、あははは」
高らかに笑う修道女。彼女たちはやはりまた盛り上がっていました。
彼に、また会える……。カレンデュアは図書室に向かって廊下を歩きながら、頬を両手で包みました。アスター……先生。ふと立ち止まり、窓からぼーっと外を眺めていると
「カレン」
びくっと肩を浮かせて振り向くと、横にあの修道女――おそらくニゲラ、がいました。
「ニゲラ、さん?」
“ニゲラ”はカレンデュアを見て、なにやらあやしい笑顔を浮かべています。わたしは知っているのよ。そう言っているように見えてカレンデュアはうろたえてしまいました。
「カレン」
「はい……」
「あなた」
迫るような言葉にカレンデュアは後退します。
「“恋をしてるわね”」
カレンデュアは、たらーっと額から汗が落ちるのを感じました。
「で、でもわたし、決して誓いは破りませんから!」
必死でカレンデュアが叫ぶとニゲラは「わかってるわよ」と言ってにっこり笑い、すっと魔法のように掌の上に何かを出しました。お菓子の入った袋のようです。するとニゲラは「いいことを教えてあげる」とカレンデュアの耳元でささやきました。それから袋の中のお菓子を一つ取り出し、ねっ? と言ってぷにぷにとそれをつぶしてみせました。カレンデュアはそれを見て恥ずかしそうに頬を赤らめました。
ニゲラがくれたのはマシュマロでした。ニゲラはそれが唇の感触に似ていると言うのです。本当かしら? 裏庭のベンチに座ってそれを眺めるカレンデュア。ぷにぷにと指でつぶしてみます。たしかにやわらかくてそんな気がしないでもないけど。そうやってぷにぷにやっていると
「こんにちは」
え? 声がいつも聴いたことのない声だったので困惑気味に振り向くとワイシャツにベストを着てジャケットを小脇に抱えた若い男性が立っていました。それを目にしたカレンデュアは、“アスター……”そう口から零れそうになりました。
「隣、いいかな?」と言われてカレンデュアはどぎまぎしながらどうぞとうなずきました。心臓が、心臓が破裂しそう!
「それ何?」
「え?」
カレンデュアは手にマシュマロを持っていたことをすっかり忘れていました。やだ、わたしったら。手元のマシュマロを隠すようにぱくり。ほぼかまずに飲み込んでしまいました。それからあははと苦笑いして答えます。
「マシュマロです」
「マシュマロかあ、なつかしいな。よかったら一つくれない?」
「え、ええ、どうぞ」とカレンデュアは袋を“アスター”のほうに向けました。
「ありがとう」
彼の手が袋の中に入るとカレンデュアの胸はそれだけで高鳴りました。袋越しにまさぐる彼の手がぶつかります。忍び足の鼓動がいたずらにカレンデュアの胸を叩き続けました。ドッキン、ドッキン、ドッキン、ドッキン。そんなことは知らないアスターは涼しい顔で、マシュマロを一つ取り出して口に運びました。もぐもぐもぐもぐ。彼が咀嚼する姿を横から観察するようにじっと見てしまうカレンデュア。彼ってなんて綺麗な横顔をしているの。鼻筋が通っていて顎のラインもとても綺麗。眼鏡を外したらどうなるのかしら。見てみたい……。見惚れてしまいました。
それからもたびたび彼は修道院に訪れるようになりました。なんでも院内で作っている天然ハーブでできた薬を調合してもらっているとか。カレンデュアは庭でハーブを摘みながら思うのでした。また彼に逢えないかしら。うれしくてハーブの収穫作業が楽しくなります。そして休憩するときはいつも袋入りのマシュマロを持ってベンチに座り、彼を待ちました。またここに来ないかしらと期待して。この日も恋する乙女はマシュマロを口に運び、幸せそうにそれを味わっていました。すると何かの視線を感じました。その先に視線を移動させると
「ニゲラさん!?」
あの修道女がいました。またこちらを見て物知り顔で笑っています。
「うまくいったみたいね」と彼女は近付いてきました。
「それ、おいしい?」
「はい、おいしいです」
「そう、よかったわ」そう言ってニゲラはカレンデュアの隣に座りました。
「でもなんでわたしにマシュマロをくれたんですか?」
ニゲラはよくぞ訊いてくれましたと言うようにしたり顔をしました。
「知りたい?」
「ええ」
「じゃあ教えてあげる」
含むような間を作ってからニゲラは言いました。
「わたしね、あなたに教えてあげたかったの」
カレンデュアは不思議そうにちょこんと首を傾げました。
「何をですか?」
「キスの感触よ」
「キス?」
「マシュマロってぷにぷにして唇みたいでしょ。だから」
「もしかしてマシュマロでキスを再現……」
「ふふ、それもあるけどね。本当の目的は“恋”よ」
カレンデュアの頬がぽっと薔薇色に染まります。
「恋、ですか? でも何で」
「あなたにも知ってほしかったの。恋することを」
そしてニゲラはおだやかにほほえんで言いました。
「恋って“すばらしいものよ”」
「?」
まあ、なんてやさしい顔で笑うのかしら。こんな顔をしたニゲラさんを初めて見たわ。綺麗……。カレンデュアが恋の先輩を憧れのまなざしで見ていると
「わたしは昔ある人に恋をしたの」
声を落として真剣な様子でニゲラが語り初め、カレンデュアはひざの上に手を重ねて、お行儀よく話を聞きました。
「ちょうどあなたぐらいの歳にね。その人はわたしと同じ誓いを立てた、恋をしてはいけない人だった」
ニゲラが恋をしてしまった相手は、同じサントリナ修道院の男子修道院にいた少年でした。彼らはふだん生活していて会うことはありませんでした。年に一度行われる祭りの時を除いては。
サントリナ修道院では毎年秋になると太陽に感謝するお祭りが開かれます。日が沈みかけた頃から始まり、18歳以上の男子女子がそれぞれ収穫した野菜や果物を持ち寄って中央の敷地に集まります。そこで酒や料理を食べて、歌ったり踊ったりしてにぎわうのでした。二人はその時出逢いました。男の人ってみんなごつごつして岩のような人ばかりだと思ってたけど、彼ってなんて細くて繊細なのかしら。男女混合の社交ダンスで彼にエスコートされた時、彼女は一目で恋に落ちてしまいました。
「あの、お名前聞いてもいいですか?」
大胆にも自分のほうから名前を訊ねます。彼は軽やかにステップを踏みながら答えました。
「ぼくはディル。きみの名前は?」
「わたしはニゲラ」
すると彼は少し恥ずかしそうに言いました。
「あの、もしよかったら来年もぼくと踊ってくれない」
「え? いいけど、何で?」
「実はぼく、こういうのは苦手なんだ。知らない女の人を誘って踊ったりとか。だから……いやだったらいいんだけど」
ニゲラは大袈裟にブンブンと首を振りました。
「ぜんぜんかまわないわ。ぜひ来年もわたしを誘って?」と自分で言っておきながら照れて赤くなってしまうニゲラでした。それからダンスが終わって彼と離れても、視線が彼を追いかけます。そして祭りが終わり男女がまた別々の施設に別れてからも、頭の中から彼のことが離れませんでした。そうして彼女は一年間思い続けました。そして翌年も祭りの日はやってきました。
「ニゲラ」
先に声をかけてきてくれたのは彼のほうでした。笑って細めた目が三日月形になります。彼は前の年より背が伸びて目線が少し高くなっていました。オルガンの演奏が鳴り、ダンスが始まります。
「ねえディル、これが終わったら抜け出さない?」
「え?」
「わたしにいい考えがあるの」
ダンスをしながらニゲラは頭を下げた彼の耳元に向かってささやきました。
「女子修道院に潜り込むのよ」
その大胆な発想に戸惑うディルでしたが、ニゲラは強引にそれを実行させました。彼に女子が着る修道服を着せ、胸には詰め物をして何食わぬ顔で一緒に女子修道院に入りました。彼がやせていてもともと中性的な顔立ちだからか、または運がよかっただけなのか誰にも気付かれませんでした。
「ね、うまくいったでしょ?」
やさしい彼はニゲラのために、何度も同じことをくりかえしました。そして会うたびに接触が増えていき、二人の関係が深まっていきます。接吻も覚えました。もっともっと一緒にいたいと強く愛を交わし……
けれどある日彼は言いました。
「もう会うのはやめよう」
「ディル……?」
ニゲラは耳を疑いました。
「どうしてそんなこと……こんなに“愛し合ってるのに”」
それでも彼は首を振り、静かに言うのでした。
「ぼくたちは清貧・貞潔・服従の誓いを立てた身だ。愛し合ってはいけない」
愛しい彼の唇が、愛の終わりを告げました。
「そんな……」
目の前の景色が瓦礫となって崩れ落ちました。彼女の世界が崩壊した瞬間でした。わたしたちはもう――
彼女は我を失い走り出していました。呼び止める彼の声ももはや届きません。彼女は走って十字架をいただいている最上階まで行きました。そこはめったに人が入らない場所です。鍵は壊れているので扉はすぐに開きました。中へ入り乱暴に扉を閉めて大窓を開け放ちます。一気に吹き込んだ風がベールをさらいました。それが床に落ちて髪を束ねた頭部をむきだしにします。そこに激しい足音が近付き、きしむ音を響かせて扉が開き
「ニゲラ!?」
顔面蒼白になったアスターが息を切らして部屋にたどり着いた時、中は無人でした。
「わたしはあの大窓から落ちたの。風にあおられて、走りすぎて空になっていた肺に一気に空気が入ってきて苦しくてめまいを起こし、身体がふわっと宙に浮いた。そう思ったら外に吸い込まれていった。地面が迫って来るのを見たら一瞬で、あとは……」
その時の光景が目に浮かんできて、カレンデュアは思わずぎゅっと目を閉じました。
「みんな私が自殺したと思ってる。でもあの時わたしは死のうとなんかしてなかった。わたしはただ大声で泣きたかったの。そして彼に追いかけてきて、また抱きしめてほしかった」
「ニゲラさん……」
カレンデュアの目からツーッと雫がこぼれ落ちました。ニゲラを抱きしめようと手を伸ばします。その手はすっと空を切りました。はっきりとそこに存在が見えるのに、ニゲラの体は触れられない幻影でした。
「このことを彼に教えてあげてほしいの。お願い、カレン」
ニゲラの手がカレンデュアの手を包みます。ぬくもりもつめたさも何も感じない手で。
「それならニゲラさんの口から言ったほうが……」
ニゲラは首を振りました。
「わたしの口からは言えないの。それはわたしがこの世に残した“最後の心残り”だから。それを言ったら天国に連れていくと神様はおっしゃったの。そしたらもう彼と会えなくなってしまう。それはいやなの。わたしはまだ天国に行きたくない。彼が生涯を終えるまでここで待って、一緒に天国へ行きたいの。だから代わりに、お願い」
院長と対面した時、二人は友達のように仲良しに見えたのに、こんな複雑な事情があったなんてカレンデュアは思いもしませんでした。
「その彼はまだ修道院にいるんですか?」
「ええ、いるわ。彼は、ディルは――
“このサントリナ修道院の院長よ”」
後日カレンデュアは院長のもとを訪れ、すべての真相を打ち明けました。
「そうでしたか」
それを知った院長は、安堵したようなやすらかな表情で虚空を見詰めました。
「それならよかった。わたしたちは天国で“また逢える”」
ディル――そう呼ぶ声が聴こえた気がしました。まさか!? カレンデュアははっとして叫びました。
「ニゲラさん!」
ありがとう……。横を見ると消えいくニゲラの姿が。彼女は記憶のなかに笑顔を残して消えて行きました。
「何故消えてしまったの。ニゲラさん……」
カレンデュアが悲しみに暮れていると
「悲しむことはありませんよ、カレンデュア」
院長は言いました。三日月形に細めたやさしい目で言葉をつむぎます。
「ニゲラは消えたのではありません。彼女は――
“遠くへ行っただけなのです”」
「遠く?」
うるんだ瞳でカレンデュアが訊き返すと院長は静かにうなずきました。
「そう“遠く”へ。いずれわたしたちも行く場所です。彼女はわたしたちよりも――先にそこへ行っただけなのです」
院長の言葉が、カレンデュアの悲しみに震えた心をあたたかさで包みました。
ニゲラさん、あなたが愛した人はなんてあたたかい人なの……。わたしもこんな愛に包まれたい。そう思うのでした。
「いた、マシュマロの娘だ」
雑用を済ませて休憩に入り、カレンデュアがまたマシュマロの入った袋を持ってベンチに座っていると、アスターが明るく声をかけてきました。隣に座って背もたれに寄りかかります。彼はワイシャツのボタンを一つ開けてその上にベストを重ね、下はおそろいの茶系のズボンをはいていました。
「良い天気だね」
「そうですね」
カレンデュアは頬が熱くなるのを感じました。隣に彼が来て、首を動かせば見れるのに。見たいのに見れない。ああ、見たい! 緊張とはずかしさで体がいうことをきかなくなってもどかしいカレンデュアでした。
「あの、今日も薬の……」
「うん、ここは安価で提供してくれるからね。とても助かってるよ」
「いつもごひいきにしてくださってありがとうございます」
クスクスとアスターが笑いました。カレンデュアはふに落ちない顔で彼を見詰めます。
「あの、わたし何かおかしなこと言いましたか?」
「いや、べつに」とアスターは口元に拳を当てて、笑いを隠しながら言いました。
「きみって面白いね」
言われたカレンデュアはきょとんとします。
「面白い?」
「いつもここでマシュマロを食べてるよね」
「え?」
なんだかばつが悪くなってカレンデュアが目をしばたたかせると、アスターはからかうように歯を見せてニヤリとしました。
「やっぱり面白い」と言って忍び笑いをすると彼は握手を求めてきました。
「名前を教えてよ。ぼくはアスター」
「わたしはカレンデュアです」
「カレンデュア。かわいいな名前だね。きみに合ってるよ」
カレンデュアの頬がぽっと赤くなります。
「ありがとうございます。でも長いからみんなカレンって呼んでます」
アスターは眉を下げて顔に疑問符を浮かべました。
「それはもったいないな。せっかくいい名前なのに。ぼくは略さないで呼ぶよ、“カレンデュア”」
カレンデュア――胸が!?。アスター、あなたは何度わたしの胸を射るの? わたしの胸はあなたが射た矢だらけ。こんなの初めてだわ。名前を呼ばれただけでこんなにうれしくなるなんて。それにみんなと違う呼び方をするなんて、なんだか特別みたいじゃない。恋する乙女カレンデュアは、熱い紅茶に落とした角砂糖のように溶けていきました。
「そう〜それはおめでとうございます」
ある日の昼にさしかかろうという頃、庭の手入れを済ませたカレンデュアが階段を上がると、修道院の玄関のほうからタンジーのよく通る声が聴こえてきました。長い階段の頂上まで来て一息ついて顔を上げると、タンジーと立ち話をしているアスターの姿がありました。何を話してるのかしら、楽しそう。するとアスターは「ではまた」というようにタンジーと別れました。カレンデュアと彼は階段のそばで目礼を交わしてすれ違いました。カレンデュアはさみしくなって通過していく彼の肩を目で追いました。そしてその後タンジーのもとへ向かいました。
「タンジーさん、今あの先生と何を話してたんですか?」
タンジーの顔にはまだ笑みが残っていました。そして彼女はこう言いました。
「あの先生、今度結婚するんですって」
一瞬カレンデュアの時が止まります。そして一瞬で凍りました。驚きも悲しみも絶望も。なにもかも。
「え……そうなんですか。それはよかったですね」
機械的に笑顔を作って彼女はそう言いました。
「本当よかったわよね。相手の方は、学生時代からのお知り合いなんですって」
カレンデュアは笑顔でそれを聴きながら
“お幸せに”――。
心で泣いていました。
カレンデュアはそれからも彼を思い続けました。決してその思いを告げずに。それは辛いことでしたが、それでも彼女は幸せでした。この恋はニゲラさんがわたしに与えてくれた最高の贈り物。彼と親しくなるきっかけを与えてくれたくれたんだもの。恋人にはなれないけど……
今度生まれ変わったらきっと幸せな恋に出逢えるから。今はそのための試練だから。わたしはがんばれる。来世の“わたしのために”……
ある日カレンデュアはサントリナ女子修道院に入ってから初めて外出の許可をもらい、院外に出ることになりました。まるで外国に行くような感覚で心が躍ります。数日間の里帰りでした。幼少の頃サントリナ修道院へ来た時のように汽車に乗り、今度は故郷に向かうのです。
「タラさんたち、どうしてるかしら」
あの日と同じトランクを転がしながら、歩いて駅へと向かいます。時々馬車が通過する街並みをブーツの靴音を響かせながら、カツンカツンと。歩いていくには少々距離が長い道程も苦になりません。彼女はすがすがしくて、楽しい気持ちでいっぱいでした。カツンカツン、カツンカツン。そこへまた馬車が近付く音が響いてきました。車輪が転がる音、馬蹄が石畳を叩く音、振り下ろされるムチがしなり、馬の尻を打つ音。さまざまな音がせわしなく混ざりあっています。角を曲がって来たそれがカレンデュアの視界の前方に映りました。次の瞬間、車輪が歩道に乗り上げ――
カレンデュア、あなたはよくがんばりましたね。
――その声は天から一人の少女に向かって注がれました。
やがてざわめきが起こり、石畳の車道の上に倒れ臥した少女の周りに人だかりができていきます。少し離れた所にはトランクが転がっていました。
同じ頃、午前の診療を終えたアスターは私生活をしている二階の部屋にいました。窓の隙間から吹き込んできた風がテーブルに置いた新聞の頁を勝手にめくり、窓を閉めに行こうとして腰を上げると彼は驚きに目を見張りました。
「きみは……」
窓の前に女性が立っていました。下ろした長い髪を耳上まで編み込みしてバレッタで止めています。服装は小花柄のワンピースにケープを羽織り、編み上げのブーツを履いています。澄んだ瞳のまれに見る美少女でした。彼はこの少女を知っています。
「“カレンデュア?”、何故きみがここに」
カレンデュアは言いました。
「わたしは今、馬車に轢かれて死んでしまいました。まだ車道に私の体が倒れています」
そう言ってカレンデュアは、それを示すように顔を窓の外に向けました。アスターは驚愕に見張った目でカレンデュアを凝視しました。それから窓際に行ってそこから外を覗いてみると、何軒か先に人だかりができていました。傍らに停車している馬車も見えます。まさか、本当に……!?
そして彼はもう一度カレンデュアを見ました。
「本当なのか?」
そう尋ねると、カレンデュアは静かにうなずきました。そして彼女はそっと手を差し出しました。その手に触れようとアスターが手を伸ばすと
「?」
すっと掌が空を切りました。そんな、つかめない……!
嘆く表情のアスターに向かって、なぐさめるようにおだやかな表情でカレンデュアは言いました。
「アスター、わたしがここに来たのは神様が一つだけお願いを聞いてくださるとおっしゃったからなのです」
さらに続けます。
「わたしは生前ある誓いを立てました」
「“ある誓い”?」
「そう、わたしはサントリナ修道院に入る前、夢で啓示を承けました」
カレンデュアはその詳細をアスターに語りました。死んでからこそそれは許されることでした。それを聞いたアスターは
「そんな、なんて残酷な試練なんだ」と頭を振って深く嘆きました。
「わたしはその試練――その誓いをやぶることなく生涯を終えました。そのご褒美として神様は、願いを一つだけ叶えてくださるとおっしゃいました」
カレンデュアはそこで言葉を切ると一点の曇りもない瞳でアスターの顔をじっと見詰めました。
「アスター、わたしを抱きしめてください」
「でもぼくは、きみに触れられないのに……」
するとカレンデュアは微笑して首を振りました。「それがわたしがしたお願いなの」と。困惑しながらアスターがカレンデュアの体に手を伸ばします。すると今度は彼の手が彼女の体をすり抜けることはありませんでした。彼はそのまま彼女を腕のなかにやさしく包み込みます。
「ありがとう、アスター。わたし、“死んでも幸福です”」
カレンデュアの瞳に光が瞬きます。あふれたその光の雫が頬を伝い――ぽたりと床に落ちる瞬間。カレンデュアは幻影となって瞬きを散らしながら、アスターの腕の中から消えていきました。
――END――
「カレンデュア」は別名マリーゴールドという花の名前です。一途な主人公なのでどんなのがいいか考え、花言葉で「一途」を調べたらこの花の名前があってイメージに合ってるなと思い、この名前にしました。
※1謎>二ゲラが幽霊なのにマシュマロを触れる訳→他人からは駄目だが自分からは触れるから←でどうでしょう?汗
※2>作中で太陽に感謝するお祭りとありますが、太陽の花を祭壇の周りに飾る理由に合わせて作者が考えた架空の行事です。